第4話
パレスホールの客は、クルミが現れると息を飲んだ。自分があのユキ=アマサワと瓜二つだからだ。期待を込めた視線が降り注ぐのを感じて、クルミは奥歯を強くかみしめた。
客席へ礼をし、ピアノへ一歩一歩近づきながら、妹の事を思った。
ねぇ、ユキ。今日アタシが何弾くと思う?
アトマージュ六番ピアノ独奏、貴方の一番好きな曲。最高の復讐。
席に着くと緊張は消えた。心はリラックスの少し手前で安定し、高揚もいくらばかりか。
息を吸って、ピアノに手を触れるとクルミは論理キーを入れた。
右腕が自分の意思から切り離され、滑らかにキーを叩き始める。クルミはこの空気を知っていた。客が座り直す椅子の軋みや音のない息をのむ空気。本物の演奏だ。
右腕がメロディを奏で、自らの左腕がベースを取って追いかけていく。
六番ピアノ独奏、序盤は単調でゆったりとしたメロディだが、次第にスピードが上がり、嵐の如く激しいテンポとなる。卓越した技術が無ければ完奏することは難しい曲だ。
流麗に動く指先。それは紛れもなく妹の動きだった。まるで、この義手の中に妹が生きていて、それが幽霊のように― そこまで思ってすぐに考えを打ち消した。昨夜、男がした話に引っ張られ過ぎている。所詮は義手のメモリに刻まれた零と一の組み合わせにすぎないのだ。
曲が中盤に差し掛かり始めると、一気にテンポがあがった。メインを弾いているのが義手だとしても、生身の腕でそれをフォローしなければならない。
独立した生き物のように動く右手。必死に追う左手の筋肉が引き攣りそうになっている。
曲は佳境に差し掛かり、スピードはさらに上がった。
妹はいつもそうだ。超えることのできない壁としていつも自分の前に立ちはだかっている。そしてこちらが追いつこうともがいているのを知っていながら、余裕の笑みで抜き去っていく。焦れば焦るほど、恨めば恨むほど、その差は開き、絶対に取り戻
せないものになる。
いつも、いつもそうだ―
私は追いかけることしか出来ない―
あなたなんかいなければ―
突如として、親指の筋肉が硬直し、引っ張られるようにして左腕が硬直した。指は第二関節から曲がったままで固まり、ピアノの前にだらりと垂れさがった。
義手はそんなことを意に介さず、独奏を続けていた。もはや乱舞に過ぎないその動き。いくら見事な演奏でもベースが無ければそれは、ただの独りよがりだ。
客席がざわつく。
また、妹に出し抜かれた。義手の論理キーを解除すると、余韻の中、誰かのため息が聞こえた。
失意。たった今、ついえた夢を思うと噛みしめた歯の間から、息が漏れ、目の下が震えてくる。視界がにじみ始め、泣いているのだと気が付いた。
ぼやけたその視界の中、ふと義手を見る。キーの上で静止していたはずのそれが動いていた。
親指と人差し指をこすり合わせる動き。妹の癖。今度は幻覚ではなかった。
論理キーは確かに切っている。何度も確認した。だが、義手は動いていた。
義手はだらりと垂れ、硬直した左手を掴むと、指を一本、一本ほぐして伸ばし、そっと鍵盤の上へ乗せた。
『誤作動』、男の言葉が頭を過った。
『これは……あくまで眉唾もんの話だと思って聞いてほしい。あんたの話だと、妹さんは義手の記憶スロットに自分の癖や動きのパターンを教え込んでいったと言ったな。それはつまり、長い間、頭の深い部分と相互のやり取りをしていた可能性が高いということだ。………そういう事をすると、記憶スロットは本来、やり取りするべきではない情報、こういう言い方はあまり好きではないが、妹さんの本質的な感情にまで入り込み、記憶や思考を読み取ってしまうことが稀にある。何が言いたいか、分かるか? 義手はそれ単体で妹さんの意思を持ったいわば
妹の怒りや恨みがこの中に生きていてそれが自意識をもって―
クルミは反射的に左手を引いた。しかし、途端に義手がそれを掴み、ピアノの上へ戻す。
頭には粉々に砕かれ、血まみれになった妹の右手がフラッシュバックした。ピアノの蓋に飲まれ、切断することになった右手。妹の記憶が、妹の幽霊が、それを再現しようとしていると直感した。
その場を去ろうとしたクルミを、義手がピアノの蓋を掴んで止めた。接合面が刺すように痛み、たまらずもう一度席へ戻った。
拍子に蓋がドンッと激しい音を立てて閉まった。中に張られた弦が耳に付く呻きを漏らす。クルミの心には一瞬、ほのかに恐怖が起こった。しかし、それは心の奥底から沸き上がってきた怒りに全てかき消されてしまった。
一体自分が何をしたのか。あなたに恨まれるような何かを。
あなたは腕を失ってどれだけ苦しんだか知らない。でも、私はその何十倍も苦しんだ。努力や鍛錬ではどうにも出来ない苦しみをずっと味わってきた。私の私である所以を何もかも奪い去って、貴方に私を恨む権利はない!
義手がピアノの蓋を開けた。妹の手はクルミの手を握り、緩慢な動作で鍵盤の上へ乗せる。彼女は絶対に自分を逃さないつもりだ、とクルミは思った。
やってみなさいよ。その醜い恨みで私を、私自身の何もかもを奪ってしまえばいい。
私の人生は終わる、その思いが絶望と怒りの入り混じった諦めに変わったが、不思議と安堵の気持ちも沸き起こっていた。これで決着がつく。ピアノで狂った人生がピアノで終わる。
クルミは目を閉じ、その時を待った。左手が粉々に打ち砕かれ、骨や肉が辺りに飛び散る様を想像しようとしたが、無理だった。
痛みや苦しみがどんなものか、想像もつかない。
つづく
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