第3話

妹の指は細くしなやかだった。自分とは絶対的に違っている。外見上何一つ変わらない双子のはずなのに、何かが違う。違う事は分かるのに、何が違っているのかは分からない。

 それがもどかしく、腹正しかった。


 クルミは今、ピアノの横に立ち、それを弾くユキをぼんやりと見ている。淡い、記憶だった。

 まだ、七歳になったばかりの妹。彼女の指が鍵盤の上でステップを踏んで踊っている。奇妙なことに音は聞こえない。それでも巧みな動きは充分、クルミを絶望させてくれた。


 曲はフェデルスニッチ、アトマージュの六番ピアノ独奏。最高難度と言っても差し支えないほど、の難曲であり、妹が最も得意としていた曲。

 圧倒的な技術力が自分を遥か彼方へ置き去りにしていく。その感情を子供のクルミはどう咀嚼していいか分からない。血の繋がった妹を恨み、憎むことは正しいこと? 称賛できない自分は間違っている?


 クルミはただ、ぼんやりとそれを見つめていた。

 ふと、自分の手に目をやる。手は開いたピアノの蓋を握っていた。妹は気づいていない。


 ある考えが起こり、一瞬で心を支配した。


 不可抗力だと思った。手が当たっただけ、蓋が振動で動いただけ、絶対、絶対に、それは私のせいじゃない。だが、そこには拭いきれない悪意があった。

 勢いよく叩き落された蓋はユキの右手をそっくり飲み込んで閉まった。

 鋭い悲鳴を上げ、ユキはその場で昏倒する。隙間からはみ出した指が、あり得ない方向に曲がっている。そこからゆっくりとぬるぬるした鮮血が沸き、床に垂れ落ちた。


 私の―

 私のせいじゃない。悪いのは―



 目を覚ますと、知らない部屋にいた。

 クルミはベッドに仰臥したまま、周囲を見回した。部屋は埃っぽく、壁紙も黄ばんで剥がれかかっている。申し訳程度に掛けられたシーツにはリゾールと汗のにおいが染みついていた。


「目が覚めたか?」

 カブラギがそばに立っていた。彼は手に持ったコップをサイドテーブルに置き、天井からぶら下がっていた点滴パックをもぎ取った。

「手術は……?」

「終わったよ。三日も前に、な」


 そんなに眠っていたのか。ハッとして、クルミは身を起こす。

「今日は何日!?」

「木曜だ。木曜の夜、あと二時間で金曜日になる」

 オーディションは明日だった。間に合ったのは良かったが、これではぶっつけ本番になる。クルミは少し思案し、乾いた口を動かした。

「もう、使えるの?」

「動かしてみれば分かるさ」


 シーツの中から、右腕を持ち上げた。最初、カブラギが嘘を付いているのではないかと思った。BMIと神経接続をしているおかげで、違和感がない。人工樹脂製の肌はどこからが義手なのか分からないぐらいリアルだ。


「頭で論理キーを入れれば、オート演奏が出来るように調整してある。にしても、よくできてる。第三精度のアームってだけでも高いのに、人間そっくりに加工するなんて、あんたの親は相当の金持ちだったんだな」

「成金よ。自分の世代で何とか身をたてた程度。それも、高官連中に媚びへつらい、死にもの狂いで取り入ってね。だから、あの人たちは妹に必死だった。それが認められれば、この地位がゆるぎないものになるって思ってたのよ」


 カブラギはため息を吐いて、顎をかいた。

「……一つ、話しておくことがある。言うなら、電化製品を買った時の保証書ってやつだ」

 話を終えたカブラギが出て行くと、クルミは先ほどの夢の事を考えた。それは夢であって夢ではない。彼女の記憶に刻まれた記憶。

 全ては事故で済まされた。あの子は果たして気づいていたのだろうか。自分がピアノの蓋を―

 だが、彼女は何も言わなかった。恨んでいるはずなのに。


「あなたがピアノなんて始めなければよかったのよ」

 コップを掴もうとした義手に、焼けつくような痛みが走って、彼女はコップを床へ落とした。


「ッ……」

 義手は緊張し、かじかんでいるような感覚があった。

 コップを拾おうとしたその一瞬、クルミは幻覚を見た。


 義手が一人でに動いていたのだ。人差し指と親指をしきりに擦り合わせる動き。妹の癖だった。瞬きをしている間にその幻覚は消えた。

 クルミは笑った。

 あなたの手は私のもの。私が奪い返した。

 恨みたいなら、恨めばいいわ。



つづく


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