10 藤田の見たもの

 藤田の言葉の意味を、阿蘇はすぐには理解できなかった。けれどあることに気づき、ゆっくりと低い声で尋ねる。

「それって、あそこにいる女性のことを言ってるのか?」

 鋭くした目線の先にいたのは、四十前後の年齢と思われるロングスカートの女性。教会の近くに立ち、ぼんやりと空を眺めていた。

 けれど、違和感があった。立ち姿が不自然なのである。全てのものには重心があり、特に人間は二足歩行である分四足歩行の動物と比べて安定性が低く、バランスが取れる立ち方のバリエーションが少ない。

 だというのに阿蘇の目に映る女性は、突然停止ボタンが押されたかのごとく、動き出そうとつま先立ちになった状態で止まっていた。

 〝止まっている〟のだ。風に髪が揺れることも、僅かな筋肉の軋みに服がたゆむこともない。女性だけ周りと時間が切り離され、固定されていた。

 形容し難い異様さに、阿蘇は唾を飲み込む。

「……念のため聞くが、あの人にお前のセンサーは反応してないんだな?」

「ああ……微動だにしねぇ」

「なら間違いねぇな。彼女は人じゃない」

 確信を持てたところで、阿蘇は女性に向かって一歩踏み出す。泡を食った藤田が腕を伸ばすも、阿蘇は止まらなかった。ずかずかと彼女の近くまで行くと、声をかけた。

「すいません」

「はい?」

 呼びかけられたのを機に、女性の時間が動き出す。細身の彼女は少しよろめくと、何事もなかったかのように阿蘇を見上げた。

「どうされました?」

「いえ。ぼーっとされていたので、ご体調でも悪いのかとお声がけさせていただきました」

「ぼーっと? 私が?」

 瞬間、女性の目がビー玉にも似た無機質なものになるのを阿蘇は見た。けれどすぐに元に戻る。彼女はきょとんとした表情で小首を傾げた。

「そうですね。友人と待ち合わせをしている間、なんとなく空を眺めていましたので……」

「空を?」

「はい。雲が流れるのが好きで、見ているとついつい時間を忘れてしまうんです」

「……そうですか。ところで、さっきの騒ぎのことについてなんですが――」

 しかし問いかけた阿蘇の肩に、ふと軽い重みが乗せられる。見ると、真剣な顔をした藤田がじっと阿蘇を見つめていた。

 〝今は、それ以上聞くな〟。暗にそう言われた気がして黙る阿蘇に、藤田は口を開ける。

「何よアンタ! このアタイを差し置いてナンパかしら!?」

 気のせいだった。

「いいわよいいわよ! どうせアタイみたいな古女房より、とれたて新鮮ピチピチレディがいいに決まってるわよね!? わかってるんだから!」

「いや、そういうわけじゃ……」

「触らないで! でもちょっとは触ってほしい! 相反する乙女心のせいでハートが今にも核分裂しそう!」

「すげぇエネルギーが出そうだな」

「忠助のおばかさん!!」

「あ、どこ行くんだ!」

 どうしようもない演技とともに走り出した藤田を放っておくわけにもいかず、女性に一言断っておいて阿蘇は追いかけた。藤田の足は速く、本気を出されるととても敵わない。「おい、止まれ」「ふざけんな」「核分裂以前にお前の体を右と左に分けてやろうか」と悪態をつくも、藤田は聞かず走り続ける。

 そしてようやく彼の足が止まったのは、ひとけのない浜辺を踏んだ時だった。

「どういうつもりだよ……」

 ゼェゼェと肩で息をしながらも、もう藤田が逃げないようがっちりと腕を掴む。藤田もすっかり疲労困憊した様子で、息も絶え絶えに答えた。

「あ、阿蘇は、さ……。性欲が湧かない集落のこと、覚えてる……?」

「言い方がひでぇ……。あれだろ? 村の人全員が一つの生命体みたいになってて、何度も生まれ変わってた気持ちわりぃ村……」

「うん……。今回も、それと同じものとは思わないけど……」藤田は大きく深呼吸をして、言う。

「似たものではある、かも」

「似たもの?」

「そう……。誰かが、何か目的があって、この場所と人モドキを牛耳ってるんじゃねぇかな……。あの女の人は、阿蘇に話しかけられてやっと動き出しただろ?」

「あ、ああ」

「他の人モドキも、そうかもしれない。誰にも見られていないと認識したら、活動を停止するんだ」

「なんだそれ」阿蘇は呆れ半分恐れ半分で返しながら、顎の下まで落ちてきた汗を拭った。「つまり誰かがいねぇと動かなくなるってことか? 流石に無理があるだろ」

「わかんないよ? この島の人達に限っては、一人になる状況が起きにくい可能性がある」

 藤田の一言に、阿蘇はハッとした。――この島にいる〝人〟は皆、ペアで連れてこられている。加えて相手は、ある日突然大切な人を失い、長い喪失感の先でようやくまた巡り会えた者達ばかりだ。今は片時も離れたくないと言う人も多いだろう。

「じゃあ、あの女性は、ペアの人と離れていたから一時的に動かなくなってたってことか?」

 阿蘇は、なんとか脳に酸素を送りながら考える。

「けど、どうして停止する仕組みになってんだ? 万が一見られたら違和感を持たれるリスクがあるのに」

「活動する以上、必ずエネルギーは生じる。そんで生物は、無駄なエネルギーを消費しないよう自然に体を変えていくもんだ」

「つまり?」

「いわゆる省エネモードになってんじゃない?」

「エネルギーを消費しないように? にしては、どう見ても無理のある体勢で止まってたけど」

「そうだっけ」

「そうだよ。あの体勢のまま静止するとしたら、相当体幹や筋肉が鍛えられてるか、木みたいに根を張るかしてないと――」

 そこまで言って、阿蘇は藤田の顔を見た。藤田も阿蘇を見返している。二人は、まったく同じ表情をしていた。

「……確かめよう」

 嫌な予感に目を見開く藤田を強引に引っ張り、阿蘇は歩き出した。今、彼らがどんな仮説を組み立てたかは二人にしかわからない。けれどひとつだけ共通した確信があった。

「どんなに懐かしくてありのままでも、やっぱり違うんだ。中身は……」

 ――バケモノだ。

 けれど、そこまで言い切ることはできなかったのである。阿蘇の脳裏にもまた、この島で見た人々の幸せそうな笑顔が浮かんでいた。

 ベールを剥がすことは、正しいのだろうか。真実とは、安寧を与える嘘よりも価値あるものなのだろうか。

(……いや)

 しかし黙り込む藤田を背に、阿蘇ははっきりと自分に言ったのである。

(隠せば、歪む)

 阿蘇の思考は完全に切り替えられ、足は迷いなく目的へと向かっていた。だから、彼の後ろにいる藤田の表情には気付かなかったのである。

 藤田は、思い詰めた表情で何かを考え込んでいた。

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