9 シスターのラッパ

 男がシスターを連れて教会の中に入ったあとは、皆めいめい自分の日常へと戻り始めた。藤田さんの様子が気になった僕だったけど、彼に声をかける前にスミレさんに肩を叩かれる。

「さ、おうちに帰りましょうか」

「あ……でも、本当にシスターは大丈夫でしょうか? 落ち着いたとはいえ、さっきまでナイフを持っていた男の人と二人っきりなんです。せめて、しばらく誰かが外で待機していたほうがいいんじゃ?」

「そんなことしなくても大丈夫よ。シスターは必ずあの男性を救ってくださるわ」

 僕の不安をよそに、スミレさんは全幅の信頼を声に込めた。

「実は、山で大怪我を負って遭難していた私を助けてくれたのもシスターなの。彼女はたくさんの人を助けることができる素晴らしい力を持ってるのよ」

「え? でもスミレさんが登っていた山って雪山ですよね? なぜそんなところにシスターが……」

「あの方は、人を救うためならどんな場所にでも現れるの。きっと、主人の出した捜索願いを耳にして登ってくださったんでしょうね」

「……」

 ――そんな都合のいい偶然があるのだろうか。いや、事実存在しなかったのだ。スミレさんは、既に人ではなくなっているのだから。

「ところで先ほど、シスターは素晴らしい力を持っているとおっしゃいましたね」

 ここで、僕とスミレさんの間にずいと大きな図体を挟まってきた。曽根崎さんだ。

「その力とは、あの男も言っていたように死者をも復活させられるものなのですか?」

「さあ、まさかそんな奇跡が起こるとは思わないけど……」

 スミレさんは、穏やかに微笑んで返す。

「だけど、シスターの信仰を見ていると、もしかしたら不可能なんてないのかもって思えてしまうわね」

「……ずっと気になっていたのですが、シスターの宗派はどちらです? シスターと名乗るからには、カトリックかと思っていたのですが」

「合ってるわよ。私達は皆、彼女に救われて神の子としての自覚を得たの」

 スミレさんは胸元にしまっていたネックレスを取り出し、曽根崎さんに見せた。木でできたシンプルな十字架だ。

「この村に来てすぐ、他の人に教えてもらって作ったの。あんまり上手じゃないけど、同じものを作ってあの人にも渡してるのよ」

 そう言うと後ろにいた座間さんを振り返り、「ね?」と笑いかける。座間さんは照れ臭そうに苦笑したものの、同じくネックレスを取り出した。

「私は元々仏教徒だったけれど、妻に言われてはね。見てみるかい? スミレはああ言ったけど、よくできてるんだよ」

「わー、本当ですね。つやつやで売り物みたいです」

「まあ、景清君は褒め上手ね。そんな嬉しいことを言ってくれるなら、あなたに作ってプレゼントしちゃおうかしら」

「いいんですか?」

「もちろん。景清君が受け取ってくれるなら、ぜひ」

 つい期待に顔を上げた僕の視線が、スミレさんとかち合う。彼女は何度も頷いていた。

「でも、若い子だものね。ビーズを散りばめてキラキラさせたほうがいいかしら」

「い、いえ、僕も二人と同じデザインがいいです」

「そう? ではお揃いにしましょうか。あなたと同じものを持てるなんて、とても嬉しいわ」

 屈託のない笑顔につられて、僕も思わず笑みを作る。一方曽根崎さんは、なぜか渋い顔をしていた。

「さ、私達も帰りましょう」だけどスミレさんは気付かず、座間さんに話しかける。

「あなたも一度帰るわよね?」

「いや、僕はこのまま祭りの準備を手伝いに佐々木さんの元に行こうと思う」

「あ、そうね。お祭りは明後日だもの。じゃあ私も……」

「スミレは景清君に十字架を作らないといけないだろう? 佐々木さんには説明しておくから、そっちに取り掛かるといい」

「ありがとう。じゃあそうさせてもらうわ」

「お祭り……」

 二人の会話に、ようやく大きなイベントの存在を思い出した僕である。そうだ、このイベントに合わせて座間さんは急いでこの島に来たのだ。

 せっかくだし聞いておくべきだろう。僕はスミレさんに向き直った。

「スミレさん、そのお祭りって具体的にどんなものなんですか? 一回きりの特別なものだって聞きましたが」

「ええ、今回は本当に特別なの。本来は一年に一度開催される、開村祝いのお祭りなのだけどね」

 スミレさんは弾んだ声と共に、胸の前で手を叩く。足は既に自宅へと向いており、僕と曽根崎さんも彼女に合わせて自然と歩き出していた。

「今度のお祭りでは、シスターがラッパを吹いてくださるのよ」

「ラッパですか?」

「ええ。私達にとっては、神様に繋がる聖具なの」

「……」

 曽根崎さんの目が険しくなる。疑っているのは明らかだったけど、僕は彼の服の裾を引っ張ってその目に気づかせた。

「一見普通のラッパなのだけどね。シスターが救済の旅をしていた時に、ずっと身につけていたものなんですって。だけど誰もその音色を聞いたことがないの。なぜならラッパの音色は、神様への道を作るものだからって」

 彼女の説明に、今度は僕の顔が強張る番だった。神様の道を作る――いつか僕が生ける炎の手足教団に誘拐された時、教団員達はその信仰ゆえに神への道を構築しようとしていた。そして今の僕は、別の事件を通して音楽を使った道の作り方を知っている。

 曽根崎さんを見上げる。僅かに口角を上げていた彼は、僕だけにわかるよう小さく頷いて返した。

「でもスミレさん、どうしてそんな大事なラッパが今年に限って鳴らされるんですか? 何か特別な理由があるとかです?」

「んー……そうねぇ。はっきりと聞いたわけじゃないけど、もし理由があるとするなら、私達村人にお願いされたからじゃないかしら?」

 唇を尖らせて、彼女は考えている。

「そのラッパが鳴らされる時、音色を聞いた全ての者は幸福で愛情に満ちた時を永遠に過ごすことができるの。そんな逸話があったら、ぜひともラッパの音色を聞かせてほしいじゃない?」

「そう……ですね。そうかもしれません」

「今でこそ、私達は幸福な毎日を過ごしてるわ。だけどやっぱり、病気や怪我による別離はある。それだけじゃないわ。パートナーが心変わりすることだって……」

 最後の言葉は言い切らず、スミレさんは頭を振ってから僕に目をやった。

「愛している人と心を交わせる今の瞬間を、永遠にしたい。途方もなく贅沢な望みだけど、この村の人達は心からそう願ってるの」

 彼女の白い指先が、胸元の十字架に触れる。彼女の不安と悲しみが伝わってきたように感じた僕は、何か慰めの言葉を口にしようとした。けれど、腕を掴んで引き止められる。

 振り返って見たのは、張り詰めた曽根崎さんの顔。彼は僕を真っ黒な瞳で見据えたまま、ゆっくりと首を横に振った。




「藤田」

 一方、阿蘇と藤田はまだ教会の前にいた。阿蘇としては念のためもうしばらくここに留まるつもりだったが、藤田の纏う気配が気にかかっていた。普段はへらへらとした軽薄な調子を振りまいている彼だが、今は刃物にも似た視線を一箇所に固定させていた。

「どうした」

 近づき、声をかける。しかし藤田は一瞥もくれず「ねぇ、阿蘇」と口を開けた。

「変なこと、聞いていい?」

「? おう……」

「オレが観測していない間、人が本当に生きているかどうかってどうすれば証明できると思う?」

「……は?」

 阿蘇は、不可解な藤田の問いに顔を歪めた。

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