8 男の絶叫
「君達はここにいなさい。私が見てくるから」
そう言って真っ先に立ち上がったのは、座間さんだった。だけど僕だって一人の成人男性である。「僕も気になります」と返し、急いでカップをキッチンの流し台に置いた。
外に出てみると、ますます男の声は明瞭とした。怒り……というより、あれは懇願だろうか? まるで泣いているかのように太い声が震えている。
「教会のほうからじゃないかしら」
スミレさんが不安そうに言う。
「聞き覚えのない声だわ。悪いことになってなければいいのだけど……」
周りの家の人達の反応も、概ね僕らと同じだった。窓から首を出したり、同居人と顔を見合わせたり。でも、なぜか阿蘇さんと藤田さんのいる家からは誰も出てこない。
その理由は、教会と呼ばれる場所に駆けつけるなりわかった。
「大人しくしろ!」
丸く中央がくり抜かれた人だかりの中、喚き散らす男に馬乗りになった阿蘇さんが声を張り上げる。男はうつ伏せにさせられ後ろ手に固定され、足掻こうにも身動きすら取れない状態だ。少し離れた場所では、藤田さんが男のものと思われるナイフをくるくると片手で遊ばせていた。
「……」
どうやら男は、阿蘇さんと藤田さんにより秒で鎮圧されたらしい。現役警官である阿蘇さんはともかくなんで藤田さんまで荒事に強いんだ。
「シスターを……! 頼む、直接シスターと話させてくれ!」
しかし男は、唾を撒き散らしながら必死の形相で叫んだ。
「俺はもう一度娘に会いたいだけなんだ! 本当だ! 他のことは考えちゃいない!」
「じゃあどうしてこのナイフを持って突撃してきたの? こんなの振り回したら危ないってわかるよね?」
尋ねる藤田さんに、男は気まずそうに目を逸らす。
「それは……断られるかもしれないと思って……!」
「だから力尽くで言うことを聞かせようとしたの?」
「誰かを傷つけようなんて思っていない! シスターが俺の娘さえ……知沙菜さえ生き返らせてくれれば!」
「――生き返らせる?」
阿蘇さんが眉をひそめると同時に僕の心もざわっとする。男の一言に、自ずとスミレさんの過去を連想させられたのだ。
阿蘇さんは冷静な目で男に問いかけた。
「……ここのシスターは、人を生き返らせることができるのか?」
「あ、ああ! 差橋って女がこの村にいるはずだ! そいつも旦那を亡くしてたのにシスターが生き返らせて連れてきて、この島に移り住んだんだ! そいつが証拠に……!」
「私に何の御用でしょう」
突然、澄んだ湖畔を思わせる女性の声が響き、一瞬で世界が静まり返った。カーテンが割れるようにして人波が両脇にどき、一人の女性が現れる。シスター二河だ。彼女はたおやかな所作で男の前に膝を折ると、じっと彼の目を見つめた。
「お待たせして申し訳ございません。せっかく訪ねてきてくださったのに……」
「あ、ああ……!」
「こちらに来る途中、ずっと、あなたの声を聞いていました。……ご息女を亡くされたのですね」
「は……はい! はい!」
「いつのことでございますか?」
「半年前です! わ、忘れもしません! 大雨の中、大学から帰る途中ふざけて増水した川に遊びに行き……そのまま……!」
「そう……そうなのですね」
シスターは、真っ白で柔らかな手を男の頬にあてた。
「それは、とてもおつらかったことでしょう」
男の涙が、シスターの指先に流れた。
「阿蘇さん。この方を離してあげてください」
「いいんですか?」
「はい。彼はもう、ほんとうに、どなたにも危害を加えることはありません」
阿蘇さんは少し躊躇ったものの、すぐに男の上からどいた。だけど男は起き上がろうとせず、なおも泣きじゃくりながらシスターを見上げている。
「礼拝堂にお越しください。そちらでお話を聞きましょう」
男の方に手を添え立ち上がらせながら、シスターは微笑んだ。
「私にできることがあれば、最善を尽くします。あなたにも、神のご加護がありますように……」
男は何度も頷いて、大声で謝罪と思われる言葉を繰り返している。僕はというと、目の前で繰り広げられた映画みたいな光景に頭がついていかず、ただ呆然としていた。
「……景清君」そんな僕に囁いたのが、曽根崎さんだ。「君、これをどう思う?」
僕らの会話は男の声にまぎれて、他の人には聞こえないだろう。それを承知の上で、僕は頷いた。
「どうも何も……びっくりしてますよ。あの人の凶行にも、娘を生き返らせろって要望にも。っていうか大丈夫でしょうか? 誰かシスターについていたほうがいいんじゃ……」
「ついていたところで私や君では力不足だろうな。それにほら、方舟の連中だって誰も動こうとしないし」
「皆さんを咎めるのはどうかと思いますよ。相手はナイフ振り回してた人なんですから」
「咎めちゃいないさ。いいからここにいる者らの表情を見てみろ」
「え?」
両肩を軽く掴まれ、群衆に体を向けさせられる。訝しげに思っていた僕だったけど、そこにいる人達の顔を見た途端ギョッとした。
彼らは皆、〝たった一人の例外もなく〟、慈愛と安心に満ちた笑みを浮かべていたのである。
――もう大丈夫だ。事件は解決した。男はシスターの温かな言葉で改心し、二度とこのようなことを起こさない。そう心から信じているかのような――。
(……全員? 誰もシスターや男の人を疑ってないのか?)
強烈な違和感に胸がざわめく。知らず知らずのうちに、右手は胸のあたりを掴んでいた。
(いくらなんでも、お人好しすぎじゃないか?)
表現できない不安に駆られて、〝そうじゃない人〟を探そうと目が泳ぐ。すぐに僕の目は止まった。阿蘇さんと藤田さんだ。
疑いに満ちた阿蘇さんの鋭い視線は、男の背中に打ち留められていた。もしも今男がシスターに飛びかかったとしても、彼だけは即座に動けるのだろう。
そして、藤田さん。彼の視線の先は――
僕の立っている場所からはちょうど死角になった、教会の角に向けられていた。
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