20 奥にいたもの

 ――見えなく、なった。

 あの人の目が虚ろになったと思ったら、まるで口だけ別の生き物のように動き始めて、呪文と一緒にぐにゃりと空間が歪んで……。

 消えて、しまった。

「……外と内、両者の観測により、人は自身の存在を確定させる」

 闇の中で、緊迫した曽根崎さんの声が響く。

「しかし彼女は、呪文の副作用により自己を認識する力を失っていた。故に、存在を観測できる者が――実存という結果に収束させる者が、この世界のどこにもいなくなってしまったんだ」

「……わけが……わかりません……!」

「世界中の誰も、自分ですら自分が見えなくなってしまった。それだけだよ」

「そんな! でもさっきまでいたじゃないですか! 僕の目にも曽根崎さんの耳にも、あの人の存在は届いて……!」

「だが、今は消えた」

 曽根崎さんは、冷淡に吐き捨てた。

「君だって、もう名前すら思い出せないだろう」

「……!」

「それより気をつけろ。彼女の置き土産が来るぞ」

 ズズズと何か重たいものが動く音がする。同時に、吐き気を催すような不潔な悪臭が鼻をついた。袖で鼻と口を覆い、涙目になりながらも僕は曽根崎さんの前に行く。

「……一応、言われたことはやりました。後は、敵がかかってくれるのを願うばかりです」

「そうか、ありがとう」

 闇の中から何かの唸り声がする。男性の泣き声のような、犬の鳴き声のような。けれど曽根崎さんは、一切躊躇わずライトを自分の体へと向けた。

 次の瞬間、漆黒から何かが飛び出した。

「……ッ!」

 ――違う。この位置じゃ、ダメだ。

 僕は、咄嗟に曽根崎さんのスーツを掴んで引き倒した。

「うわっ!」

「すいません、一つ目の仕掛けは失敗しました! ドアまで逃げてください!」

「わ、分かった!」

 身をかがめて、ドアの方向へと曽根崎さんを引っ張る。少し体勢を崩していた曽根崎さんだったけど、持ち前の身軽さですぐに立て直した。

 だが、僕の方がまずかった。

「……あ」

 曽根崎さんのライトが、部屋の奥を照らしている。そしてあろうことか、僕はそこに照らされたものをはっきりと見てしまったのだ。

 それは、人間だった。いや、人間にとてもよく似ているけど、違うモノだった。だって人間に不潔な蹄は無いし、爪だってあんな獣みたいに鋭くならない。口もあそこまで大きく、ましてや醜悪な牙など生えているはずが……

「景清君!」

 彼の声にハッと意識を戻される。バケモノは既に眼前まで迫り、僕に鉤爪を振り上げていた。

「しゃがめ!」

 曽根崎さんの言葉を何も考えず実行する。頭上でおぞましい悲鳴が轟き、僕の体に腐った肉の破片が飛び散った。

 曽根崎さんが、隠し持っていた電動ドリル(改造済み)でバケモノの右目を抉ったのだ。

「ぐっ!」

 だがバケモノの払った腕に、ドリルとライトが弾かれる。僕はすぐさま自分のポケットから新しいライトを出し、ドアに向かって投げた。

「逃げましょう!」

 曽根崎さんの腕を引く。僕らは、一目散に出口であるドアを目指した。

 バケモノが追ってくる気配がする。曽根崎さんの長い腕がドアを開ける。大きくジャンプし、間一髪僕らは外へと転がり出た。

「ギャアアアアッ!!」

 絶叫、そして肉がちぎれる音。振り返ると、左足首から先が無くなったバケモノがゴロンと転がりのたうち回っていた。僕が仕掛けたワイヤートラップにひっかかったのだ。

「よし……よし。こっちは上手くいったようだな」

 息を切らせた曽根崎さんが、安堵したように言う。僕も頷いて、暗視ゴーグルを外した。

 作戦はこうだった。まず阿蘇さんが部屋の外で録音した雨音を大音量で流し、雷の音と共にブレーカーを落とす。そこで曽根崎さんが犯人の気を引いている間に僕が室内へと入りこみ、闇と雨音に紛れてドアの下、可能なら曽根崎さんの周りにワイヤートラップを仕掛けるというものである。

 ……もっとも、曽根崎さんの周りに張ってた罠は、あっさり避けられたのだけど。

 だがバケモノもしぶとい。鉤爪を床に突き立て、奴はなんとかこちらに這ってこようとしていた。

「……忠助」

「はいよ」

 しかし冷静な曽根崎さんの呼びかけに、頼もしい声が応える。僕らの間から突き出た斧が、まっすぐに振り下ろされた。

 床を掴んだバケモノの腕が、飛んだ。

「もう一本」

 抵抗しようと宙を掻いたもう片方の腕も、阿蘇さんは容赦無く切り落とす。まだ鋭い牙が残っているが、こうなってはほぼ無力だろう。

 失った片足と両手からは、どくどくと大量の体液が吐き出されている。バケモノは、いっそ哀れな声で呻いていた。

「……で、どうする?」油断せず斧を構える阿蘇さんが、曽根崎さんに尋ねる。

「まだ息はあるし、念には念を入れて頭でもかち割っとくか?」

「ああ、そうしてくれ。もう動けそうにはないが、何かあってからでは困る」

「分かった。それじゃ……」

「待ってください!」

 再び斧を振り上げた阿蘇さんの手が、止まる。制止の声を上げたのは僕だ。不思議そうな顔をした阿蘇さんに一瞬怯みかけたが、頑張ってバケモノを指差した。

「ね、ねぇ曽根崎さん。トドメを刺す前に、少しだけ僕に時間を貰えませんか?」

「……どういうつもりだ?」

「えっと」

 緊張に、唾を飲み込む。僕の頭に、顔すら思い出せない誰かの言葉が蘇った。

「少し、話したいことがあるんです」

「話したいこと?」

「はい。僕と烏丸先生が襲われた時……犯人は、『これであの人も数週間はもつはず』って言ってました。『あの人』が指すのは、状況から見て恐らくこのバケモノのことだと思います。

 でも、もし犯人の言う通り、このバケモノが“人”だったとしたら……』

 僕は、チラリとのたうつその“人”を見た。

「――きっと、僕らよりも犯人との関係性は強い。だったら、消えてしまった犯人を再観測できるのではと、そう思ったんです」

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