19 消えていく

「……存在できなくなるって、どういうことですか?」

「呪文の副作用ですよ。あなたも薄々は勘づいているでしょう」

 曽根崎はため息をつき、いたずらにライトを天井に向けた。雨の音が、やかましい。

「超常的で絶大な力を行使するには、相応のリスクを背負わねばなりません。元より、呪文とは脆弱たる人の身には余るもの。例えるなら、よく磨かれたナイフをビニール袋に入れて振り回すようなものでしょうか。あなたや私が手に入れたものは決して善良なる魔法使いが与えてくれた奇跡ではなく、邪悪なる悪魔との契約なのです」

「……何が言いたいんです?」

「あれだけ呪文を乱用しておいて、無事に済むわけがない」

 夕菊の顔から血の気が引く。それを何よりの返答として受け取り、曽根崎は続けた。

「私とあなたが初めてお会いしたのは、つい昨日のことでした。しかし恐れながら、私にはその記憶がありません。いえ、あるにはあるのですが、烏丸先生と話し合っていた為長く気がつかなかった。……あなたは、かなりの大声で我々に呼びかけていたと言うのに」

「……」

「その時のあなたは仕事中です。当然呪文は唱えていないはず。であれば、何故あなたの存在は認識されていなかったか?」

 ライトの光が細められ、まっすぐ夕菊に向けられる。けれどすぐに逸らされ、彼はあちこちの壁を照らし始めた。

「答えは簡単。呪文の副作用により、既にあなたの存在自体は消えつつあったからです」

「……!」

「実際、今の私もあなたの声が聞こえるだけで、姿は見えておりません」

「え……は!?」

 明らかに狼狽える夕菊に、曽根崎は小さく咳払いをした。

「ええ、全く見えていないのです。このスナックに来た時からそうでした。私はこの事件を調査するにあたりあなたのプロフィールを頭に叩き込んだというのに、それでも声しか聞き取れない。

 ……事態は、かなり逼迫していると思われます」

「……」

「しかし、まだ間に合います。まだあなたを外から認識できる人間がいる。呪文を封印し、そういった者からカウンセリングを受けさえすれば、やがて元の存在感を取り戻すことができるでしょう。

 ……これが最後のチャンスです。あなたは自らの罪を認め、然るべき罰を受けるべきだ。もはやそれしか、あなたの存在の消失を食い止める方法は残されていないのです」

 ――落ち着いた曽根崎の言葉を、夕菊は黙って聞いていた。

 存在感。この人の言う通り、私の呪文は対象の存在感を薄めることができるものだ。そしてそれを利用し、自分は今まで多くの罪を重ねてきた。

 他でもない、彼の存在を維持する為に。

 そしてその過程で、少しずつ自分が他者から認識されにくくなっていることにも気づいていた。けれど、敢えてくだらない不安だと考えないようにしてきたのである。だって、今の私は彼に必要とされている。愛する人を独占し、その為に生きることができているのだから。

 それ以上何を望むだろう。これ以上どんな幸福があるのだろう。本当に愛されたい人の目に映るなんて、生まれてきた人のどれほどが叶えられることだろう。

 だから、それが叶うのなら自分はもう他の誰の目にも映らなくて構わないと、ずっとそう言い聞かせ続けてきたのだ。

 夕菊は、音を立てないよう少しずつ移動し始めた。

「……ところで、こう考えたことはありませんか」

 だが、何も知らない曽根崎は、相変わらず見当違いの方向にライトを向けながら言う。

「とある砂漠にて、自分は一人で歩いている。その砂漠は過酷な環境で他に何の生物の影もない。つまり、誰も自分を観測しないのです」

「……?」

「ですが、誰に見られずとも当然自分は存在することができる。……では、ここで問題です。第三者を介しない場合、自身の存在証明はどうすれば可能なのでしょう」

「……おかしな質問をするのですね」夕菊は鼻で笑った。

「もしかして、わざと難しく仰ってます?」

「ならばお答えできますか」

「ええ。……思考、見下ろした視界、砂を踏む音、肌に触れる熱い空気。たとえ第三者がいなくても、そういった感覚から自身が『ここにいる』と断じることは可能でしょう。いわば自分で観測している状態です」

「ご名答」曽根崎は満足げに頷いた。

「先ほど私は『誰も認識しない』と言いましたが、あれは少し間違っていました。実際はあなたの仰る通り、自身が観測者となることで己を観測できる。つまり自我とは、最も身近な自己の観測者であると定義することができるのです」

「……それが何か?」

「では、もう一つ質問をします」

 男の声は、ますます低く不気味なものになっていく。

「もしもその砂漠で、死などにより自我を失ってしまった場合。……つまり、真に己を観測する者がいなくなった場合。どうすれば、自身の存在を証明することが可能でしょうか」

「……」

 ――知るものか。興味も無いし、考えるのも嫌だ。何なんだ、何がしたいのだ、この男は。

 そうだ、もう気にしなくていい。取るに足らないことなのだ。何故なら、今からコイツは殺されるのだから。

 スイッチに手をかける。これを押せばいつものように彼が出てきて、目の前の人を食料に変えてくれる。最初は男、その次は――。

 私だ。

 今日、私は真日留さんの腕へと飛び込む。男が殺された直後、真日留さんに自分の姿を見せるのである。

 私は彼に殺されるだろう。けれど私の体は彼に食われることで、ついに一つとなれる。私は究極の献身でもって、彼の血肉へと生まれ変わることができるのだ。彼を失う世界に未練は無い。真日留さんの為に生きられない世界なら意味が無い。彼を奪われるぐらいなら、いっそ彼の一部になりたい。

 けれど、まだダメだ。少なくともこの男だけは消しおかねば。

 そして私は、束の間自身の姿を消そうと呪文を唱えようとしたが……。

「ダメです、夕菊さん!」

 突如、別の男の声が割り込んできた。驚いて声の主を探すが、深い闇の中では何も見つけられない。

「呪文を唱えちゃだめです! 僕も殆どあなたを見えなくなってます! 今唱えれば……今度こそ、誰もあなたを認識できなくなります!」

「だ、誰……!?」

「竹田です! あの、ほら……さっき一緒に歩いた!」

 ……言われてみれば、先程自分がどこかにいた時に誰かと歩いていたような気がする。それが、この声の主だというのか?

 ――誰?

 この男は、誰だ? 顔が思い出せない。私は、だれと歩いていた? いや、それよりも……。

 どこに、いたのだっけ。

「ダメです、呪文を唱えないでください! もう、僕にも見えなくなって……!」

「やめろ、景清君! 奥に行っては危険だ!」

 見えなくなる? だれが? だれのことを? だっえ私は、これから彼に食べられなければ……。

 ……わたし? わたしとは、誰? わたしの名前は何? わたしは……。

 わたしとは、何?

「――」

 真日留、さん。真日留さん。ちがう、真日留さんじゃない。見下ろすこの腕は、真日留さんの腕じゃない。なら、だれのもの? これはなに?

 うるさい。勝手に口から音がこぼれている。音がこぼれていくと一緒に、きえている。……何が? なにがとは、ソンザイだ。誰の? ……だれの?


 だれの?



 ――わたし、の?



 ……ああ。


 ああ。ああああ。


 ああああああ。


 分かる、わかるわかった私はきえる。きえる。なくなる、あのおとこが言ったとおり、じぶんがじぶんでわからなくなったら無くなる、なくなってしまう。なんで? なんでしらなかった? しらないつもりだったのだ、だって知ってたわたしきえること定義していたていぎがかんそくがきえて、きえていく、きえて、

 たすけて、ねぇ真日留さん助けて。真日る、さん。真ひ留さん。まひ留さん。たすけてまひるさん。まひるさん。たすけて、

 みて。みて。みて。みてよ。ねぇ。なに。め。あし。どう。て。のう、のう、のう、ないぞう。ないの。ない。ない。ないの。ない


 ――おおお


 きえ、きえ、る、のう、のう、のう、


 おお、おおおおお、


 ――


 おおお、、


 ……


 …………、


 ……



 ………………………………、

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