18 恋という魔性

 小太りの男は、自らを「司祭」と名乗った。彼は真日留を連れ戻しに来たが、夕菊が“管理”をしてくれるのならばその役を譲り、ビルをふさわしいものにしようと申し出た。

 翌日。夕菊がビルを訪れると、荒れ果てていたはずの二階部分はすっかり見違え、立派なバーの内装となっていたのである。

 ……奥半分を仕切って設置された、異様な存在感を放つ壁を除いては。

「!」

 ――夕菊の回想は、肉が激しくぶつかる音に中断させられた。壁を見ると、四角く開いた隙間から歪な鉤爪が突き出ている。辺り一面には、衝撃で剥がれた肉片が汚らしく飛び散っていた。

「真日留さん」

 呼びかけに応えるように、唸り声が上がる。しかし、威圧感のある壁は彼がどれほど暴れてもビクともしない。

『給餌は、一週間程度に一度』

 夕菊は、何度読んだか知れない司祭の手紙を取り出した。

『必ず人間の肉を成人一体分与えること。子供の場合、二体から四体に増やすなどして調整』

『与えられた呪文を活用すること』

『被験体のエネルギー不足に気をつけること。機能不全に陥る恐れあり』

 ――ああ、早く誰か来てくれないか。焦燥感に焼けつきそうな胸を押さえ、夕菊は思った。――彼に、給餌をしなければ。そうしなければ、まもなく彼は動きを止めてしまう。

 せっかく二人になれたのに。せっかく弱みを握れたのに。

 そして恐らく、自分にもあまり時間が残されていないだろうことが分かっていた。少しでも足しになればと廃棄予定の臓器を盗んできたのが、とうとうバレてしまったのである。最初こそ全員殺して彼に食わせればいいと考えていたが、そう簡単な話ではなかったらしい。私は失敗した。一体よりは二体がいいと欲が出てしまった。これでもう二度と、私はあの病院を訪れられない。

 ……それでもなお彼と離れがたいのは、恋という魔性ゆえか。

(……どうか)

 夕菊は、両手を組んで願った。

(誰でもいいから、早く来て。彼と過ごす時間が、少しでも増えるように)

 ――ふいに、真日留が暴れる音が止んだ。それを合図に夕菊は顔を上げる。耳を澄ますと、雨音に混ざって店前の通路を歩いてくる足音が聞こえてきた。

 客が来たのだ。やがて、足音はドアの前で止まった。

「やあ、どうも。やっていますか」

 低い声と共に、目つきの悪い男が顔を出す。だが彼を一目見るなり、夕菊の薄い色の唇は不快げに引き結ばれた。

「あなたは……先生を訪ねてらした」

「ええ、曽根崎と申します」

「……こちらには、どういった御用向きで?」

「何、単に酒を嗜みに来ただけですよ」

 淡々と言うが、どこまで本当か分かったものではない。夕菊は、警戒しつつ立ち上がった。

「でしたらお入りください。大したものはありませんが、侘しい夜の隙間を埋めるぐらいならできますわ」

「ではお言葉に甘えて」

「ジャケットをお預かりいたしましょう」

 曽根崎が店内へと体を滑り込ませるのに合わせて、夕菊は彼の元へ行こうとする。だが、たどり着こうとする直前。

 突如凄まじい雷の音が轟き、一斉に店の電気が落ちたのである。

「な、何!? 何なの!?」

「落ち着いて。危ないので動かないでください」

 慌てる夕菊を曽根崎が宥める内に、音を立ててドアが閉まる。完全な暗闇が少し続いた後、カチッと曽根崎の手元に明かりが灯った。

「近くに雷が落ちたのでしょう。まあ、いずれ復旧します」

「……」

「お怪我はありませんか」

 上辺だけ撫でたような優しげな声に、夕菊は一歩後退りする。続く警戒は、そのまま言葉に変わった。

「……あなたの仕業では、ないんですか?」

 しかし小型のペンライトに照らされた妖しげな男の表情は、ピクリとも動かない。

「私の仕業、とは?」

「とぼけないでください! 本当は知ってて来てるんでしょう!?」

「ほう」曽根崎は、一切の動揺を見せずに唇を歪めた。

「つまりあなたには、そう言えるだけの心当たりがあると」

「……ッ!」

「……まあ、そうですね。今更誤魔化すのはやめにしましょう。おっしゃる通り、私はあなたの行動を知った上でここに来ました」

 息を飲む。強くなる雨音に紛れて夕菊はゆっくりと光源から遠ざかり、壁に背をつけた。――もしこの男が本当にこれまでの自分の行動を把握して来たなら、警察が待機している可能性がある。そうなれば、私は彼と離れ離れにさせられてしまうだろう。

 どうする? どうする? いっそのこと、今ここで彼を解放すべきか……!

「ですが、どうか早まらないでください」だが夕菊の思考を先回りして、曽根崎は言った。

「私は確かにあなたの罪を存じておりますが、警察に突き出したいわけでもない。事実、見ての通り私は身一つでここを訪れております」

「……じゃあ、何? あなたの目的は、一体何なんですか?」

「人助けですよ」

 曽根崎の目線は、暗闇に身を潜めた夕菊を向いている。

「私も呪文を持っています。故に、あれがどれほど強大な力を持ち、また危険な代物であるかも理解している」

「あ、あなたも、呪文を……?」

「はい。――その上で、警告いたしましょう」

 耳を傾けようとする夕菊だったが、背にした壁の向こうで“彼”が床を引っ掻く音がした。……空腹で空腹で、堪らないのだろう。このまま彼を放置すれば、餓死してしまうかもしれない。

「夕菊……麗さん」

 けれど曽根崎の声は、夕菊を否応無くこちら側へと引き戻してしまう。

「もうおやめください。これ以上呪文を唱えれば、あなたはこの世界に存在することができなくなる」

 よく響く声に、彼女はギリと奥歯を噛み締めた。

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