17 階段を登る
一度外に出ていた阿蘇さんが、肩を濡らして帰ってきた。雨が降ってきたらしい。
「兄さんの言った通りだ」服についた水を払いながら、彼は言う。
「例のビルに“スナック夢乃国”の看板が出ていた。驚いたな。ただのビルでも、看板があるだけで隠れ家的な店に見えるもんだ」
「実際は人喰い的スナックですけどね」
「それあの店にしか適用されねぇジャンルだな」
ニヤリする阿蘇さんに、「へへへ」と笑って返す。余裕、一ミリも無いのに。
だって、今から突撃するのはあの人喰いスナックなのだ。怖くないわけがない。
「そ、それにしても曽根崎さん。夜しか見つけられない噂のスナックも、蓋を開けてみれば単純なトリックでしたね。人を誘き寄せたい時にだけ看板を出すって」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってやつだな。オバケの仕組みなんざ、案外こんなもんだよ」
「今回はマジもんの怪異でしたが」
「オバケの仕組みなんざそんなもんだよ」
「超常現象なんですが」
「すいません、こちらお伝票ですー」
流れをぶった切ってやってきた店員さんに、阿蘇さんが「彼が払います」と曽根崎さんを指差さす。ちょっと嫌な顔をする曽根崎さんだったが、必要経費ということで黙って全額払ってくれた。
「それじゃ乗り込むか」
「おー」
「なんで二人共、そんな軽めのノリで行けるんです?」
「色々理由はあるが、主に慣れだな」
「頑張れ景清君。二年経てばだいぶ違うぞ」
「嫌だなぁ、慣れたくないなぁ」
そうして僕らは店を出て、まっすぐビルへと向かった。
阿蘇さんの言葉の通り、二階の窓の横には“スナック夢乃国”と描かれた看板が設置されていた。和紙を使っているのだろうか。暖かな灯りは、いつもだったら道行く人に優しい印象を与えてくれるに違いない。
けれど今の僕には、とてもそうは見えなかった。まるである種の誘蛾灯にも似た、人を誘き寄せる不気味な光にしか……。
「……! 曽根崎さん、あれ!」
そして僕はもう一つ、昨日と違っている点に気づいてしまった。
「室内灯がついてます! 昨日は無かったのに……!」
「そりゃ開店してるんだ。店内に明かりぐらいつくだろ」
「そ、それはそうなんですが」
「臆するなよ。それより、作戦通りに頼む」
「……はい」
ぎこちなく頷く。その弾みで、手の中の機器がずんと重さを持ったように感じた。
……二つの意味で荷が重い。そもそも、僕なんかにできるのかな……?
「五万円」
「頑張ります!!!!」
でも甘美な囁きに背中を押された。所詮僕はこの程度なのである。
「何度でも言うが、夕菊麗を認識できるのは君だけだ」
曽根崎さんが先導して、階段を登る。この場所はなんだか肉の腐ったような匂いがして、僕は顔をしかめた。
「故に、決して彼女から目を離してはならない。頼んだぞ」
「……はい」
「そんなに不安か?」
「……」
「……なあ景清君、そもそもこれは勝てる勝負なんだよ」
ふいに頭に大きな手が乗る。髪をぐしゃっと不器用に撫でて、彼は言った。
「君や烏丸先生らのお陰で、私は多くの情報を得ることができた。だからこそ、あの計画を立てられたんだ。君にとっては不確定の事象が多いかもしれんが、私には選ぶべき道が見えている」
「……曽根崎さん」
「その私が言うんだ。この事件は解決できる。信じてくれ」
力強い声色に、つと顔を上げる。僕の目に映った彼の口角は、引き攣り奇妙な形に持ち上がっていた。
――いや、アンタもめちゃくちゃ怖がってんじゃねぇか。
「台無しだな! だいぶ無理してんじゃねぇか!」
「適切に怖がることは危険の予測及び察知に繋がる」
「ダメだもう、自分で怖がるって言っちゃったもん」
「あー嫌だ嫌だ。誰か代わってくれねぇかなぁ。可能なら全部忠助に投げて帰りたい」
「今だって相当負担かけてるじゃないですか。これ以上はやめてあげてください」
いまいち締まらないオッサンである。でも、弱気な彼の言葉を聞いたことで逆に僕の気持ちはシャンとした。
そうだ、この人には夕菊さんが見えないんだ。だから僕がしっかりしなければ、事件解決が遠のくばかりか、彼まで危険な目に遭わせてしまうことになる。それだけは避けねばならない。
――二度と、この人を死の淵へは立たせない。一度彼を失いかけたあの時、僕はそう決めたじゃないか。
呼吸を整える。震えそうになる足を踏みしめる。そして僕らは、階段の上から落ちてくる明かりを揃って見上げたのだった。
――強烈な悪臭でも、何度も訪れる内に慣れてしまうものだ。雨粒が窓を叩く中、優美なドレスを身に纏った夕菊麗は、薄暗いライトに照らされ膝を抱えていた。
店の奥半分を区切る頑丈な壁に目をやる。今でこそ静かであるが、そこからは時折乱暴な衝突音が聞こえてきた。
だが夕菊は、それを耳にすることが何よりの幸福と感じていた。
まるで、“彼”が自分に会おうとしてくれているかのようで。
だけど、まだ出すにはいかない。まだダメだ。自分が彼と過ごすことができている、今は。
思えば、彼と再会してもう一ヶ月以上も経っているのである。あのあまりに衝撃的で、運命的で、劇的な出会いから。
「――真日留(まひる)さん?」
一ヶ月半前。繁華街を一人で歩いていた夕菊は、見覚えのある後ろ姿を見かけた。見間違えるはずもない、同窓会で再会した初恋の彼である。
学生の頃は、一方的に見つめるだけだった憧れの存在。時が経てば少しは状況も変わるかと思っていたけど、久しぶりに会った真日留は更に手の届かない存在になっていた。とある有名な製薬会社に勤務するというエリートの彼は、人に群がられあっという間に見えなくなってしまった。その光景に、確かな失恋と己への絶望を感じたものである。
けれど、繁華街を歩く彼にあの溌剌さは微塵も無かった。高そうなスーツは薄汚れていて、しわくちゃで、酷い猫背で、酔っ払いのようによろめいていて。
もちろん話しかけようかと思った。けれどどう声をかけるべきか迷っている内に、真日留は柄の悪そうな人にぶつかってしまったのである。
しばらく怒鳴られていた彼は、とうとう男に腕を掴まれ近くの廃ビルの中に連れていかれた。無抵抗だったことが気にかかりつつも、夕菊はいざとなれば警察に電話しようと、スマートフォンを片手に後に続いた。
そして突然、男の悲鳴が聞こえたのである。
一も二もなく階段を駆け上がった。彼が危ない。その思いだけで錆びたドアを力尽くでこじ開け夕菊が見たのは、暴力の犠牲となった真日留ではなかった。
真っ赤な血の海の中、どろんとした目で柄の悪い男が天井を見つめていた。腹は裂かれ、そこから太い腸が引きずり出されいる。そして、腸をすすっていた者こそ――。
――異形と成り果てた、真日留だったのだ。
「……ッ!」
まだ息があるのだろうか。床に落ちた男の腕は痙攣しており、口は何か叫ぶようにぱくぱくとしている。だが、肺に血が溜まっていては、それも長くは続かないだろう。
夕菊は口元を両手で覆った。こうでもしないと、声を上げてしまいそうだったのだ。
――腹の底から込み上げる、喜びのあまり。
「……真日留さん。私よ。夕菊麗。分かる?」
無心に内臓を食らう真日留に、夕菊は一歩一歩近づいていく。何故か彼女には、真日留は自分を襲わないという絶対的確信があった。
「ねぇ、どうしてそんな姿になってるの? 何を食べてるか分かってる? 他の人はこのことを知ってるの? ……知らないわよね。きっと、私だけなのよね?」
興奮に息が乱れていく。明るい未来に胸が弾んでいる。人から遠くかけ離れた彼の姿に、夕菊は恐怖の一片たりとて無かった。
「大丈夫、あなたはここにいてくれればいいから。私があなたを守ってあげる。人殺しは犯罪だから、バレたら大変だものね? 警察に連れていかれちゃうよ。嫌だよね?」
ぐちゃぐちゃと嫌な咀嚼音がする。ぶちゅっと目玉が噛み潰されて、液体が飛び散る。それら体液が服に付着するのも構わず、夕菊は微笑みながら手を伸ばそうとした。
だが、その時。
「――キキッ」
金属を引っ掻いたような音に振り返る。入り口には、場違いなほど上等なモーニングコートを着た小太りの男が立っていた。
男の首には、目の形をした刺青が彫られていた。
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