16 近場の居酒屋にて

 タクシーを降りた僕らは、例のビルの近くにある居酒屋へと向かった。

「え、なんか景清君怒ってねぇ?」

 店のテーブル席に座ってカシスオレンジを飲む男前が、首を傾げる。阿蘇さんだ。

「何? クソ兄になんかされた?」

「はい! 酷いんですよ、アイツ! 嫌だって言うのに無理矢理僕の手ぇ握ってきて!」

「コラ兄さん、ちゃんと許可は取れよ」

「事情を知らない第三者が首を突っ込むと、事態が混乱するいい例だな。……しかし、忠助にも景清君は見えているのか」

「あ? 何その質問」

 訝しげな顔をする阿蘇さんに、曽根崎さんがここまでの顛末を説明してくれる。最初は普通に聞いていた阿蘇さんだったけど、段々と眉間の皺が深くなっていき。

「……よくよく巻き込まれる子だな、景清君は」

「すいません」

 最後には、深いため息をついて額を押さえていた。

「や、謝るこたねぇよ。コイツの監督責任だ」

「痛い痛い。ネクタイを引っ張るな」

「でも周りから認識されねぇのは確かに危ねぇな。兄さん、どうにかできねぇの?」

「そうだなぁ。呪文の効果が自然に消えるのを期待するか、このヘッドリングをつけるなどして当人の存在感を増やすか」

「なんだこのダセェピカピカ」

「流れるように暴言を吐くんじゃない。あるいは……」

 少し言葉を区切り、彼は言う。

「……呪文をかけた者が、死ぬのを待つかだな」

 淡々と言う曽根崎さんに、何も返せず水を一口飲む。でも阿蘇さんの方は慣れてるのか、ぱらぱらと片手を振った。

「つまり今はどうしようもねぇってことか。いいよ、犯人だって何度も自分に呪文かけてんだ。捕まえりゃ、それを解く方法ぐらい聞けるさ」

「……そうだな。結局私もそうするしかないと思う」

「歯切れ悪ぃな。何か問題でもあんのかよ」

「いや、大したことじゃない。それより忠助、手筈通り彼女がここを通らないか見張ってたか?」

「ああ」阿蘇さんが小さな窓に目をやる。この個室からだと、外の道を見張ることができるのだ。

「でも誰も来なかったけど」

「いや、来たはずだ。ほら見ろ、発信機の記録によると一時間前にここを通っている」

「オイ、この機械知らねぇぞ。つーか、これあるなら俺いらなかったじゃねぇか」

「発信機を付けられるかどうか分からなかったし、彼女の呪文がどれほど君に効いているのかも知りたかったし」

「あーもういいよ面倒くせぇ。で、今犯人はあのビルに潜んでんのか?」

「そうだ」

 彼らのやり取りの横で、僕はなんとか窓越しに例のビルを見ようとしてみる。けれど残念ながら、ここからではもうちょっとの所で見えなかった。

 っていうか、そもそも認識できるもんなのか?

「できるよ」

 事も無げに、曽根崎さんは言う。

「何故ならもう私達はビルを認識している。だから問題無く視認できるし、入れる」

「え? じゃあ、もし昨日僕がビルを見つけてなかったら……」

「少なくとも、今日突入することはできなかっただろうな。忠助、周辺で聞き込みをした報告を」

「はいよ」

 今ものすごい僕の功績を聞いた気がするけど、気のせいかな?

「ここ含め周辺の店に聞いてみたけど、まともに例のビルを認識してる人はゼロだったよ。存在自体は知っているけど、外観やいつから空き家なのかといった具体的な話となると途端に曖昧になる」

「うわ、そうなんですね。ってことは、あのビルも夕菊さんが呪文かけてるんでしょうか」

「そうだと思うよ。ほらこれ」

 阿蘇さんがデジタルカメラを出して、データを見せてくれる。覗き込んだ写真には、長い文章が落書きされたコンクリートの壁が映し出されていた。

「何ですか、この字。カタカナ? イ……オ、ムゥ……?」

「声に出すんじゃないぞ、景清君。特に今はな」

「なんかヤバいんですか?」

「ヤバいも何も、これは彼女がビルの入り口に書いた呪文だ。唱えれば、更に君の存在感が無くなる可能性がある」

「げっ!?」

 思わず飛びのき、ペタペタ自分の体を触る。恐る恐る阿蘇さんに目を向けると、「まだ見えてるよ」とオッケーサインをくれた。

「な、なんでこんな物騒なもんが書かれてるんですか!?」

「そりゃ彼女がビルを隠す為に書いたんだろうよ」

「じゃあ、本当に効果が……!?」

「微妙」

「え?」

「だって見ろよ、カタカナで書いてんだぞコレ。面白。こんなん初めて見た」

「えー……」

「とは言うものの」

 曽根崎さんの注文したお酒が運ばれてくる。それを受け取っておいて、彼は続けた。

「忠助の聞き込みからも分かるように、まるっきり効いてないわけではない。カタカナではあるが、かなり緻密で強力な呪文を書いているようだからな。本物ほどの効力とはいかずとも、多少はビルの存在感を薄められているのだろう」

「はあ……」

「そして、夕菊麗にとってはそれで十分だった」

 カランと氷の溶ける音がする。ウイスキーグラスを長い指で持ち上げる曽根崎さんの鋭い目が、琥珀色の液体越しに映っている。

「――餌の対象とする、酩酊状態の人間を誘き寄せるにはな」

「酩酊状態の?」

「ああ。昨夜の君、そしてチルティさんの店の客もそうだったろ? もしかしたら偶発的な発生かもしれないが、とにかく未完成な呪文を使用することで、夕菊麗は“隙の多い酩酊者”のみに店を認識させることができた」

「つまり酔っ払いにしか見つけられない、と。どういう理屈なんでしょう」

「んー……酔うというのは、脳をアルコールで麻痺させることだからな。そして彼女の呪文は、見る側の認知による所が大きい。推測にはなるが、アルコールで対象を観測する者の脳が一部麻痺することにより、呪文の影響が少なくなったんだろう」

「ははあ」

「もう一回最初から言おうか?」

「結構です」

 からかうオッサンを睨みつける。……じゃあ、なんだ? 酔っ払ってたからこそ、僕はビルを見つけられたのか。人生何がプラスに転じるか分からないな。

 だけど、僕らと違ってそうとは知らずに人喰いスナックを見つけてしまった人たちは……。

「人が増えてきたな」

 ぽつりと阿蘇さんが呟く。陽も落ちて、居酒屋の暖簾をくぐる人も多くなってきた。

 それは、奇妙な違和感のある光景だった。目と鼻の先に恐ろしい建物があるというのに、みんな当たり前に今を過ごしている。そんな日常の一瞬が、取り残されたような隔絶感を持って僕に迫ってきていた。

 自分の普通は、もう周りの人達と同じではない。そんな事実を、鼻先に突きつけられるようで。

(……でも、僕らが動かなきゃ、次に人喰いスナックを見つけるのはここにいる人達かもしれない)

 あって当たり前の日常が、突如足元から崩れる。さっきまで見えていた道が、自分だけ無いと思い知らされる。

 けれど、もしもそんな悲劇を食い止めることができるなら。たとえ怖くても、僕はその異常に身を置き続けなければならないと思った。

「……それで曽根崎さん。ここからどうするんですか?」

「しばらく様子を見よう」

 軽い調子で答えて、曽根崎さんは店員さんを呼ぶ。その後で、「何か食いたいものを選べ」とメニュー表を渡してきた。

 いや絶対タイミング違ぇだろ。普通選んでから呼ぶもんだ、店員さんは。

「夕菊麗は、餌を取り逃した。だから今晩、必ず罠を張ってくるだろう」

 それでもなんとか店員さんに注文できた後、奴はのうのうとのたまってきた。

「じきに看板が出てくる。その時こそ、我々が夢乃国へと入場する時だ」

「入場言うな」

「さあ顔を寄せろ。……君たちに、今回の作戦を伝える」

 ――曽根崎さんの宣言通りだった。それから二時間後、僕らはビルの方から微かな明かりがこぼれてくるのを見たのである。

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