8 悪魔と解

 一匹の青い魚が跳ねている。

 僕は、青空を写した水面がどこまでも広がる湖の上に立っていた。美しい景色に見惚れていると、また遠くで魚が跳ねる。それを捕まえてみようと思って、僕は片足を踏み出した。

 途端に体が沈む。それでもざぶざぶと水をかき分けながら、僕は魚を追いかけた。どうしてかは分からないけど、なんとしてもあの魚を捕まえなければならない気がしたのだ。

 うまく進めない。そりゃそうだ、僕にまとわりつく水は既に漆黒の蛇に変わっていたのだから。

 蛇達は、足を、腹を、胸を這い上がってくる。このままだと、口から入り込んできた数匹に内臓を食い破られて死んでしまう。恐怖と嫌悪感に急いで払い落としていると、いつしか僕の手は蛇の粘液で真っ黒になっていた。

 ――誰かの、声がした。

 青い魚の跳ねた方向だった。けれどそこにはさっきまでの湖は無く、うねる蛇の大群の中から真っ黒な腕が空に向かって突き上げられているだけである。

 いや、あれは……スーツ?

「曽根崎さん!」

 呼び慣れた名を呼ぶ。蛇をかき分け、腕の突き出た方へ走る。僕の口の中に蛇が入り込もうとしてきたけど、歯で頭を噛みちぎって吐き捨てた。

「今、助けに……!」

 もう少しだ。もう少しで手が届く。僕はあらん限りの力で腕を伸ばし、彼の手を掴もうとした。

 が。

「ははははははははははははははははははははは」

 突如腕が膨張し、弾けた。そこから目も鼻も無い真っ黒な人の顔が現れ、僕の眼前に広がる。ぱかりと裂けた口の中は、無数の歯で覆い尽くされていた。

「はははははあははははははは。愚か。愚か。はははははははははははははははははははは」

 嘲笑。

 うじゃうじゃいる蛇共も、僕に頭を噛みちぎられた蛇も、男も、男の歯に咀嚼されぐちゃぐちゃになった僕も。僕を囲む全ての黒が、僕を見下ろし嘲っていた。

 その中で、わざとらしい哀れな声がする。

「――よくご覧なさい。あの腕は、貴方自身のものではないですか」

 次の瞬間、僕は蛇の中に埋もれていた。絶叫しようとしたけれど、喉奥に蛇が入り込んでくる。

 僕の悲鳴は、呆気なく蛇に呑まれてしまった。




 ハッと意識が現実に戻る。僕の体は、曽根崎さんの事務所のソファーの上に横たわっていた。

「やあ、起きたか」

 雇用主の不審者面が僕を覗き込んでくる。もう一度悲鳴をあげそうになったが、なんとか耐えた。

「だいぶうなされてたぞ。悪い夢でも見たのか」

「……夢」

「ああ」

 瞬間、蛇の群れの中から突き出た腕がフラッシュバックする。無意識に曽根崎さんの腕を掴もうとして、思いとどまった。

「お、起こしてくれればよかったのに」

「あまりにも寝言が面白くてな。続きを聞きたくなって」

「寝言?」ギクッとする。

「ああ。なんだっけ……トマト王国をコンソメで煮るなとか何とかって」

「いやそんな夢は見てないですね」

「家臣が軒並み美味しくなってしまったらどうするんだって」

「知らねぇ知らねぇ」

 ツッコみながらも、安堵する。どうやら夢の内容はバレてないようだ。

 一方曽根崎さんは、カーテンを引いて幾ばくかの朝日を迎え入れていた。……眩しい。僕は、まだ動悸の収まらない胸を汗ばんだ手のひらでぎゅっと握った。

「シャワーでも浴びてくるといい。少しはスッキリするぞ」

「ここシャワーなんて無いでしょう」

「あるよ。一階に」

「え、そうなんですか?」

 初耳である。

「でも、勝手に使うのはよくないですよ」

「あれ、言ってなかったっけ。実はこのビル、丸ごと私のなんだよ」

「マジですか」

「うん。入居の予定も無いし、自由に使ってくれていい」

「じゃあ、なんでテナント募集の看板を出しっぱなしにしてるんですか?」

「時々しまってるはずなんだがなぁ。気づいたらまた出てるんだ」

「何それ怖い怖い怖い」

「冗談だよ」

「冗談かよ。やめろ起き抜けに」

 プチ怪異が発生するバイト先とか、真っ平御免だ。や、もっとどデカい怪異事件は舞い込んで来てるんだけど。

「本当の理由としては、ああいう看板でもかけとかなきゃすーぐ不法侵入者が出るからだな。素行不良の若者の溜まり場になったりとか、住所不定無職の宿になったりとか」

「ははあ。でも一応は本当に募集してるんでしょ?」

「一応な。もっとも、家賃バカ高くて立地も特別いいわけじゃないから全然問い合わせ無いけど」

「しかもビルの二階には不気味なオッサンがいますしね。借りるメリットが無さすぎる」

「空いてる方が都合はいいんだがな。……しかし、そうか。看板が出しっぱなし、ねぇ……」

 曽根崎さんは急に顎に手を当てて、考え込んでしまった。こうなるとしばらくは動かないので、その間に大人しくシャワーを浴びることにする。

 ふとテーブルを見ると、きちんと畳まれた服が置かれてあった。昨日、事務所でスーツに着替えたあとそのままにしていた僕の服である。そしてその上には、一階のものとおぼしき鍵も。

 曽根崎さんがこんな気の利いたことをしてくれるはずないし、阿蘇さんがしてくれたんだろうな。タオルまであるし。つくづく、曽根崎さんなんかの弟さんなのが勿体無いぐらいの優しい人だ。

 ありがたく拝借することにし、何も言わずに事務所を出る。そうして階段を降りてすぐ左にあるドアに、鍵を差し込んだ。

 中を覗く。時々掃除がされているのか、そんなに埃っぽい感じは無かった。間取りは二階と似ていたものの、内装を見るにちょっとカフェ寄りのようだ。それから少し中を探索すると、厨房的な場所の奥にシャワー室を見つけた。

 ……いや、なんでカフェにシャワーがあるんだ? 普通つけるなら事務所的な二階の方だと思うけど。

 まあいいか。僕はとっととスーツを脱ぐと、お湯に変わる時間すら待たずシャワーに頭を突っ込んだ。

 多少さっぱりした所で事務所に戻る。さっきまで考え込んでいた曽根崎さんは、デスクに広げた紙と睨めっこをしていた。

「お、戻ったか」

「はい、シャワーありがとうございました。何見てんです? 地図?」

「と、シフト表。あと肉泥棒幽霊が出た日付と、繁華街で行方不明者が出た日付か」

「んん? でもそれって別の事件ですよね。関係あるんですか?」

「それがなぁー、ちょっと見てみろよ。烏丸先生から送られてきた資料の中に、いつどういう部位が盗まれたか書かれたものがあったんだがな」

 曽根崎さんが一枚の紙を指差す。覗き込むと、几帳面な字で整然と部位や日付や時間が書かれた表があった。

「一週間前のここ。烏丸先生の担当ではなかったんだが、交通事故で左足の膝から下を切除しなければならない手術があった」

「左足の膝から、下?」

「そしてまもなく、その足は“幽霊”により盗まれた。加えて、君は覚えてるか? チルティさんとこの客が切断された足と人喰いスナックを見たのも、一週間前だ」

「……あ!」

「そう。つまり」

 曽根崎さんは、怒ったような表情で目を輝かせていた。不謹慎にも、点と点が繋がったことを楽しんでいるのだ。

「肉泥棒の幽霊と人喰いスナックの女。――この両者には、何らかの接点がある可能性が高い」

「……!」

 病院の一室で見た彼女の顔を思い出そうとする。けれど、不思議とモヤがかかったようになって不明瞭だった。

 不安と妙な胸騒ぎがごちゃまぜになった僕は、まだ濡れた頭をわしゃわしゃと掻いた。

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