7 とあるビル

 背中に乗せている青年の重みが、増した気がする。

 ……寝たな、これ。すぴーすぴーと規則的な寝息を立てる景清をよいしょと背負い直し、阿蘇は建物を見上げた。

 外壁は薄汚れていたものの、そのビルはしっかりとした作りであった。周りは昭和中期を乗り越えてきたかのような店や割れた看板も多いのに、突き当たりにあるこのビルだけは平然と建っている。ただし、一階の窓から覗く室内は荒れ果てたものだが。隅に寄せられ埃を被ったテーブルを見るに、元は喫茶店か何かだったのだろう。

 両脇にある店も、空き家になってから長いのか固く戸が閉ざされていた。というかこの通り自体あまり流行ってないのだろう、営業している店は通路の入り口にある小料理店と居酒屋の二軒だけである。

「……そんで、このビルが兄さんの言った条件と合致するって?」

「ああ。少なくとも二階建てで、一階は空き部屋になっている」

「でも目撃者の話だと、夢乃国の看板があったんだろ? そこはどう説明すんだ」

「そこなんだよなぁ。加えて魅力的な外観ってわけでもないし、そう考えると相違点の方が多い」

 けれど曽根崎は窓から目を逸らさない。そして何も起こらないと判ずるや否や、ずかずかとビルに向かって歩き始めた。

「お、おい! 行くのかよ!」

「君はそこで待ってろ。念のため、少し近くで見てくる」

「マジでトマト投げ合ってたらどうすんだ!」

「そんな愉快なヤクザ、恐るるに足らん」

 めちゃくちゃを言う兄に一度はついて行こうとした阿蘇だったが、背中で無防備に眠る存在を思い出す。大人しく、その場で兄の帰りを待つことにした。

 曽根崎はというと、二階へと続く内階段の入り口付近を色々と調べている。そうして、おもむろにしゃがみこんだかと思うと……。

「りゃっ」

 石を拾って、階段の奥めがけて投げつけた。

「何やってんだ、バカ!」

 流石に駆け寄り蹴り止める阿蘇である。が、ここで憮然とするのが曽根崎という男。

「何って文字通り一石を投じただけだろ。こうでもすりゃ、誰かいりゃ様子見に出てくる」

「普通に犯罪だわ、アホか!」

「かといって、人喰いかヤクザがいるかもしれん場所に丸腰で入るのもなぁ」

「さっきお前、恐るるに足らんって言ってたじゃねぇか!」

「だが見てみろ。この場所、何か違和感があると思わないか?」

「違和感?」

 曽根崎が小さな懐中電灯を取り出し、階段を照らす。明かりの届いた階段上は壁になっており、左に向かって通路が続いているように見えた。けれど、体を傾けてもドアを視認することはできない。

「ンだこれ。どういう構造の建物なんだ」

「恐らくだが、道路側の窓に沿って廊下が続いてるんだろう。で、ドアがあり、奥側に向かって部屋が広がってる」

「なるほど」

「ところで、景清君が見たトマトはどの窓だ?」

「さあ。覚えてるか、景清君」

 自分の肩越しにいる青年に問いかける。しかし振り返った所で、長い睫毛を伏せた彼から答えが返ってくることは無かった。

 その穏やかな寝顔に、束の間心が和らぐ。けれど、それで目の前の問題が解決するわけもなく。

「さて、どうするかな」シンと静まり返った階段を見上げ、曽根崎は首を傾げた。

「上がってみるか、更に石を投げてみるか。爆竹類は事務所に置いてきたしなぁ」

「よしんば持ってきてたとしても、絶対俺が許さねぇからな。ほら、何もねぇなら石を回収しに行くぞ」

「……嫌な予感がする」

「はぁ? どう見てもただの空きビルじゃねぇか。お前が行かねぇなら俺が行って……」

 しかしそう言いかけて、ふと阿蘇はあることに気がついた。正体を確かめる為、兄を体で制して自分は階段に向けて身を乗り出す。

 スンと臭いを嗅ぐ。そして、疑問は確信に変わった。

「なぁ兄さん、なんか妙な匂いしねぇ? こう、刺激臭っていうか……肉の腐ったような?」

「どれどれ。……んー、私にはわからんが。誰かその辺で吐いたんじゃないか?」

「階段にゃチリ一つねぇぞ。それに、匂いは上から来てる」

 ……何故、この鼻をつく臭いは階上から落ちてきているのか。曽根崎の言う通り、どこかに誰かの吐瀉物が残っているのかもしれない。もしくは、人知れず死んだ猫が腐っているだけなのかも。

 それが起こって当然の事象は、いくつか列挙することができた。なのに阿蘇の胸は奇妙にざわつき、取り憑かれたように階段から目を離せないでいた。

「さあどうする、忠助」阿蘇の耳元で、曽根崎の低い声がする。

「君が上がって見てくるか、それとも私が見てくるか。あるいは、今は引き下がるか。……私達が選べるのは、一つだけだ」

 ……言うまでも無く、誰か上がって見てくるべきだろう。石を回収せねばならないし、猫の死体の一つでもあればこの腐臭に理由がつくからだ。

 だが阿蘇の動物的な直感は、眼前の建物を激しく拒否していた。階段自体は、まったくもって無機質なただの入り口である。なのにライトに照らされたそこは不気味なほどに白く輝いており、ある種の非現実さをもって自分たちを見下ろしていた。

 ――まるで、口を開けた捕食者が、今か今かと餌を待ち構えているかのように。

「……すまん。やっぱやめとこう、兄さん」

 そして阿蘇は目を逸らし、一歩後ろに下がった。

「石を回収するだけなら昼にもできる。場所だけ覚えておいて、また出直そう」

「……そうだな」

 曽根崎も、どこか安堵したように息を吐いた。それで阿蘇は、「夜にしか行方不明者は出ていないのだし」という言葉を飲み込んだのである。

 曽根崎が「別の場所に行こう」と提案し、長い影が歩き出した。阿蘇も、黙ってその影に従う。

「……忠助。さっき私が言った、違和感の正体なんだがな」

 だが最後に、自分に背を向けたまま兄がぽつりと呟いたのである。

「あのビル……一階が荒れていたにしては、やたら階段が綺麗だったと思わないか」

 阿蘇の足が止まる。ライトによって露わにされた白い階段が、脳内で鮮明に蘇る。

 次に考えたのが、“何故階段が綺麗だったのか”ということ。

 ――切り落とされた人の足。投げつけられたトマト。見下ろす女。何かが、阿蘇の頭の中で繋がりそうだった。

「……バケモノは階段掃除などしない。箒を持つのも雑巾を持つのも、人の手だ」

 曽根崎も足を止め、窓を見上げていた。きっと彼の目にも、薄笑いを浮かべて手招く女の幻想が見えているのだろう。

「忠助。この事件の背景には、きっと人間が関わってるぞ」

 同じ結論に至っていた阿蘇は、兄と同じ形をした目でビルを見上げていたのである。

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