6 背中で揺られながら

「……!」

 僕らは一斉に息を呑む。けれど、話はそこで終わりじゃなかった。

「当然彼は腰が抜けるほど仰天したわ。でも、ふと人の気配がして視線を上げた。そこで見たのは、あの日友人を飲み込んだ『スナック 夢乃国』の看板。そして、窓から自分を見下ろす一人の女だった」

「……」

「女はうっすら笑っていて……彼を、手招きしたそうよ」

 チルティさんは、憂いを帯びた目を阿蘇さんに向けた。

「彼は悲鳴をあげて逃げ出した。当たり前よね、そんなの誰だって怖いもん。それからすぐに会社に辞表を提出して、あの子は引っ越したわ。最後にアタシに会いに来て、絶対に『夢乃国』の看板を見たら逃げろって言って」

「……優しい人ですね」

「だからね、阿蘇ちゃん。あなたのお仕事の都合は分かるんだけど、あの子のことはそっとしといてあげて欲しいのよ。行方不明の子の為に情報を丹波ちゃんにプレゼントするのはいいけど、これ以上あの子にあの日のことを思い出させないであげて」

「……ええ、わかりました」

 阿蘇さんは俯いて、チルティさんの嘆願を承知した。……丹波さんとは、阿蘇さんの上司の一人である。彼の名前を知っているということは、チルティさんは警察の人と何か関わりがあるのだろうか。

「あと、丹波ちゃんにはもっとアタシのお店に来いって言っといて」

「あの人もう結婚して娘さんもいらっしゃるんですから、勘弁してあげてくださいよ」

「冷たいじゃないのよー! 何よ何よ、結局アタシより女なわけ!? 男っていつもそう!」

「丹波さんはずっと奥さん一筋ですよ」

 いや、ただのかつての常連さんかもしれないな。

「しかしチルティさん。貴女の仰るように、我々は行方不明者についても調べねばなりません」

 けれどそう簡単に引き下がらないのが、こっちの曽根崎慎司である。黒縁眼鏡の奥の鋭い眼差しを光らせて、彼は長い足を組んだ。

「故に、喉から手が出るほどに情報が欲しい。その方は、スナックの場所について他に何かおっしゃってませんでしたか?」

「それがねぇ、一週間前の彼も相当お酒飲んでたらしいのよ。恐怖を紛らわせる為もあったんだろうけど……」

「つまり、覚えてないと」

「ええ。アタシも聞こうとしたんだけど、思い出そうとするとパニックになっちゃうみたいで」

「無理からぬことです。ちなみに、落ちていたという足は……」

「少なくともニュースにはなってないわね。アタシのお耳にも情報は入ってきてないわ。誰かが片付けたか、カラスが食べたか……。お役に立てなくてごめんなさい」

「いえ、とても有益な話を聞くことができました」

 あれ、そうなの? そう思って曽根崎さんを見ると、うんと頷いて返してくれた。

「とにかく、チルティさんとお店のご婦人方は、『スナック 夢乃国』を見つけても決して近づかないようにしてください。行方不明者は、引き続き我々の方で捜索を続けますので」

「ありがと。でも気をつけてね、色男ちゃん。なんだかヤな予感がするのよぉ」

「ご忠告痛み入ります。忠助、早速檜山さんに連絡を取ってみてくれ。あの人ならこの辺りの反社会的勢力についても知ってるだろ」

「分かった」

「いぎええっ!? あの人まだ警察にいんの!?」

 チルティさんが、愉快な顔と動きでのけぞった。

「はい、檜山さんはまだバリバリの現役ですよ。何なら今でも前線に出てます」

「ひぇー、やっぱあれ何らかの妖怪だわね。妖怪怪力坊主」

「チクっときますね」

「やめてよぅ!」

 阿蘇さんの冷静な言葉に、チルティさんがイヤイヤと可愛らしく体を横に振る。その姿に、周りのレディ達(?)が「ビヤ樽が震えてるわ!」「青髭危機一髪やるわよ! 剣探してきなさい、剣!」「おケツ穴増やしてやるわ!」と腕まくりしていた。……なんというか、こういうお店は初めて来たけど、明るくて雰囲気のいいお店だなぁと思う。

「いや、こういうゲイバーが全てじゃないからな。チルティさんの店は結構激しい方だぞ、景清君」

「ふふふそうなんだぁー、んふふふー」

「うわ、もう酔っ払ってる。忠助、あれほど景清君に強い酒を飲ませるなと言ったじゃないか」

「え? いや、俺は知らな……」

「あら、アナタ達このいちごみるくちゃん落としたいからここに来たんじゃなかったの?」

「お前のせいか! ンなわけないでしょう、純粋な聞き込み捜査ですよ!(小声)」

「やだン、アタシったら勘違いしちゃった! ごめんなさいね、明らかにこの子だけ若すぎたから捜査後のオヤツにするつもりだったのかと思って」

「檜山さんにチクっときますね」

「やめてよぅ!」

 半泣きのチルティさんが真顔の阿蘇さんにしなだれかかり、周りのお姉さん(?)たちは指を差して笑っている。みんな仲良しさんだなぁーんふふふふー。

 ふわふわとした世界の中、僕は曽根崎さんの肩に顎を乗せてへらへらと笑っていたのだった。




 夜風が熱い体に気持ちいい。僕は、安定感のある阿蘇さんの背中におぶられてネオンの下を揺られていた。

「へぇ、チルティさんは元々刑事だったのか」

「そうそう。丹波さんの同期で、かつ犯罪組織対策部の檜山さんの部下だったんだけどな」阿蘇さんが曽根崎さんに答える。

「ある日突然、『自分らしく誰かを笑顔にする仕事がしたい』っつって警察をやめたんだ」

「それで始めたのがゲイバーか。えらく舵を切ったもんだな」

「でも上司の檜山さんは案外すんなり受け入れたらしいよ。むしろ、店が軌道に乗るまでよく遊びに行ってたって話だし」

「へぇ」

「理由を聞いたら、『人を笑顔にすることは警察やるよりずっと難しいんだ』ってさ」

「そうか。あの人も色々あるみたいだからな」

 ……僕の知らない人の話を、曽根崎さんと阿蘇さんがしている。話題に乗れないのが寂しくて、阿蘇さんに巻きつけた腕にぎゅっと力を込めた。

「ぐぇっ」

「あ、締まってる。景清君もだいぶ酔わされたなぁ」

「チルティさんが言うには、そんなに強い酒は飲ませてないらしいけどな。……でもこうしてるとあれだな。景清君、酔い方が穏やかな時の藤田に似てる」

「あー、確かに……」

「ふほんい!」

「喋った」

「喋ったな」

 藤田さんは僕の叔父にあたる人で、阿蘇さんの幼馴染である。悪い人じゃない。決して悪い人じゃないのだけど、なんというか色々緩い人なのである。その、主に性的な方面で。

 僕は阿蘇さんにしがみつきながら、ぼんやりと行き交う人々を眺めていた。なんとなく、二人は人通りが少ない道を選んでいるようだった。

「チルティさんの店で分かったことがある」淡々とした曽根崎さんの声が、耳に届いた。

「まず一つ。人喰いスナックは、人通りが少なく、一階が空き部屋になった二階以上の場所にある可能性が高い」

「そうなのか?」

「ああ。血だらけの足を見つけた男性は、上から自分を見下ろす女を見たと言った。だったら店は一階じゃない。そしてそうやって一人の男が騒いだのに、一階の店が気づかなかったのはおかしいと思う」

「一階にあったのがヤクザの店で、全員で示し合わせて黙ってた可能性は?」

「そういう店でも客は来るだろ。人の口に戸はたてられないし、リスクが高すぎる」

「たまたま休業していた可能性は?」

「休業していても店内に人がいることはある。それに、いくらなんでも行方不明者が出る店だ。どんな騒ぎが起こるか知れないし、私が犯人ならやはり一階が空いた場所を選ぶと思う」

「そっか。だからお前はこういう人気の少ない道を歩いて、該当するビルが無いか探してんだな」

「そうそう。昼間は見つからないらしいから、せめて店だけでも今晩中に探し当てることができればいいと思ったんだが……」

「スナック夢乃国、ねぇ。魅力的っつってたけど、どんな店なんだか」

「あと気になるのは、人喰いスナックにいたという女性だな。忠助はこのことを知ってたか?」

「いや、初耳。だからびっくりしたよ。何者だろ」

「別の店の人間を見間違えたか、単なる連続殺人犯か……。あるいは人喰いスナックを真実と仮定するなら、疑似餌とか」

「疑似餌?」

「餌を誘き寄せる為に、餌の好むものを利用するんだ。この場合は見目麗しい女性だな。で、ノコノコやってきた餌である人間を、そこに住むバケモノが一呑みにする」

「うわ気持ち悪っ。バケモノもそうだけど、そういう想像できるお前も気持ち悪っ」

「貴様」

 ……曽根崎さんと阿蘇さんは、なんだか難しい会話をしている。僕はもう眠くてたまらなくて、大きな欠伸を一つした。

 今は何時か分からないけど、大通りから少し離れたこの道はなんだか寂しい雰囲気がする。温かな阿蘇さんの背に頬を預けて、僕はぼーっと上の方を見ていた。

 明るすぎる街灯。晴れた夜。なのに星は一個も見えなくて、妙な色をしている。明るい窓。所々切れたネオンの看板。誰かの笑い声。歌う声。怒る声。真っ黒な窓。塗りつぶされたような黒。

 そこに、突然べちゃりと何かがぶつかった。

 色は分からない。でも、潰れたトマトのようなそれは、窓の内側に粘着質な液体を伝わせているように見えた。……中で、誰かが何か投げたのだろうか。

 そういやチルティさん、この件はヤクザが関わってるかもって言ってたっけ。それで思い出したけど、スペインの某所では熟したトマトを投げまくるお祭りがあるという。

 もしかして……抗争中のヤクザが、トマトを投げ合ってるのか?

「……阿蘇さん」

「ん、どした?」

「そこ。そこの窓。なんか見えませんか?」

「窓?」

 僕の指差した場所に、阿蘇さんが視線を向けてくれる。けれど、彼は首を横に振った。

「や、何も見えねぇ。君は何か見たのか?」

「はい。えーと……ヤクザ達が抗争に銃を使うのをやめて、平和的にトマトを投げ合ってるのを……」

「ダメだ、兄さん。思ったより酔ってるぞ、この子」

「興味深い。もう少し聞いてやってくれないか」

「ンだよ、お前も酔ってんのか」

「いや」

 段々まぶたが重くなる。深い眠気が、僕の意識を引きずり下ろしていく。

「――彼が指したこのビルは、さっき私が言った条件と合致するんだ」

 だから僕は、曽根崎さんの言葉も理解しないまま眠りに落ちていったのである。

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