あぁ素晴らしき虹色の夢よ

澄桜木木

第1話

あぁ素晴らしき虹色の夢



そして私は目を開いた。

古ぼけたアパートの何も無いリビングルームの中に大きなピアノが置かれてあってその鍵盤から絶え間なく美しいメロディが響いていた。そしてその足元には長い金髪を持つ赤いドレスを着た人型の何かが倒れていた。

「……大丈夫か?」呼びかけるも返事はない。

近づいてみるとそれが人では無いことが分かった。

形こそ人だが、全身は白い磁器で出来ていて横になっている時の形からピクリとも動かない、本来顔があるはずの場所は赤い雑草のような物がわんさか生えていて肌も見えない、いやこの生き物の場合は磁器の肌か。そして金髪だと思っていたものは細い金色のタコの触手のようなものだった。

そしてドレスに穴が空いていて、そこから見える腹部には小さな貫通していない穴が空いていた。さらにそこから紫色の液体を垂れ流していた。小学校にいた頃、1度だけ自由研究で紫陽花を水に浸して絞り、紫色の色水を作った。あの時の色にそっくりな液体だった。

赤いドレスを着た磁器に興味を失ったので、私は何も無い部屋から外に出ることにした。出る前に持ち物と、この部屋が自分の部屋では無い事を確認した。部屋には見覚えがなく、持ち物はタバコとライター、そしてリボルバー式の拳銃の3つだった。拳銃にはあと2発だけ残されていた。出る瞬間1度だけ後ろを振り向いた。廊下の扉を開けっ放しにしていたのでリビングルームがはっきりと見えた。倒れた姿勢のまま固められていたはずの磁器が自分の足で立ち上がりこちらに向かって手を振っていた。

私は手を振り返しながら部屋を後にした。


外はリビングルームの中よりめちゃくちゃな場所だった。ピンク色の空、紫色の道路、その道路を物凄い速さで駆け抜ける頭部のない動物たち、先程のリビングルームからここまで聞こえてくる美しいメロディ、捻れ曲がった牛の角のような形の黒い建造物、真っ白な磁器のような肌と渦巻きのようにぐちゃぐちゃになった顔面を持つ人型の何か達。

不思議の国のアリスの世界観を現代風にするとこんな感じだろうか。私はそんなピカソも頭を抱えてしまいそうな街を歩き始めた。磁器と私が勝手に名付けた人型の何か達はあからさまに私を避けていた。家に帰りたかったので道を尋ねたかったが、何故かみな一様に怯えて逃げていく。臆病な生き物なのだろうか、いやそもそも生きているかも怪しい見た目だ。そういえばリビングルームに居たドレスを着た磁器と外に居る磁器達には決定的な違いが二つある。1つ目は外の磁器達は全員囚人服を来ていること、2つ目は頭部に触手、顔面に雑草がないこと。

あのリビングルームに居た磁器は何か特別な個体なのだろうか、謎は深まっていくばかりだ。

そんなことを考えながら宛もなく歩いていると道路の向こうから鶏のような鳴き声を上げながら大きめのパンダが大量に走ってきた、彼らは普通の動物達と違って頭部があった。最もその頭部はパンダのものではなくスピーカーだった、鶏の鳴き声はそこから発せられているようだった。パンダ達は私を取り囲むような陣形を取り停止した、そしてパンダの腹部の側面が扉のように開き中から白い風船のような頭を持つ全身が青い泥で出来た人形達がゾロゾロと出てきた。パンダは7匹居て1匹から2体の泥人形が現れ合計は14体となった。

「НЛЁЖИЩЧЪЦ!」

と1番私に近い1体が叫んだが、何を言っているのか雀の涙1滴分も理解が及ばない。

「私は家に帰りたいだけだ、誰か私の家を知る者は居ないか?」

とりあえずこちらの目的を伝えた、私を囲む青泥人形達だけではなく、それを遠巻きに見ている磁器達にも聞こえるように叫んだ、だがあまり理解を得られなかったようだ、誰も答えるものはいない。いや、答えが返ってきたとしてもこちらが聞き取れる保証もない、聞くだけ無駄だったかもしれない。

すると青泥人形達がいっせいに身体に腕をツッコミ身体から何かを取り出し始めた。出てきたのは消化器だった、その噴射口を私の方に向けもう一度叫んだ。

「ъжёпθξЧТЦ!」

何を言っているか分からなかったので、ポケットから拳銃を抜き、そして発砲した。撃った弾丸は見事に頭部の風船に当たり風船は大きな音を立てて破裂した。頭部を失った青泥人形が倒れ込む。

次の瞬間、私は全身の至る部分に鋭い痛みを感じた、その圧倒的な苦痛に顔を歪めながら、私は静かに意識を手放していった。



「先生……やはりボディーガードを付けるべきでは。」

私がいつも傍に置いている女性カウンセラーがそう言った。

(うるさいな、本当は私の身体の心配よりも、自分がどれだけ甘い汁を啜れるかの心配しかしていないくせに。)

私は何も返さずただ苛立つだけだった。

「いくら先生がベテランのカウンセラーでも、彼は重度の精神疾患を患っています。話が通じる相手とは……」

「この仕事に着いてから最初から話の通じた相手など居たことがないよ、段々と心をひらかせるものなんだよ。」

「しかし……」女性カウンセラーはまだ続けようとしたが

「おかしいなぁ?君は自らこの役職を志願したんだよなぁ、賃金は高いが危険の多いこの役を買って出たのだ。『あなたにずっと憧れていました、そばに置いてください』と。しかし君が憧れの相手を支える気は無いというのなら私一人でも変わらんなぁ、書類仕事は結局私がこなしている上に君は自らの患者すらろくに扱えない。さらにはいざと言う時に私を守る気もないというのかね?」

「…………」私の嫌味を聞いて口を噤んだ。

「君はいざという時に私を守る気がないのか、それとも自分では守るのに役不足だと思っているのか。

果たしてどちらなのだろうねぇ。」

こうして今日も私はこのシャープ精神病院の嫌われ役を買ってでる、もとより誰も私の味方などしようとしないのだ。嫌われていても嫌われていなくても何も変わるまい。



気がつくとベッドの上で寝ていた、上向きの状態から見える天井は真っ黒に焼け焦げており今にも崩れそうだった。ゆっくりと身体を起こそうと思ったが上半身が何かに押さえつけられていて起き上がることが出来なかった。首だけ起こして見てみると自分の身体をピンク色のトンボの卵のような物でできた縄が私の身体を右腕、左腕、左足、右足、胴体、と部位ごとに縛り付けていた。不思議と不快感はない、しかし圧迫感は中々のもので指先と首しか可動域は残されていなかった。部屋の中は私が寝ているベッドの他には何も無かった、そういえば最初もこんなふうにがらんとした場所に居た気がする。

不意にこの部屋唯一の出入口である扉が開いた、そして奥の暗闇からクラゲの化け物とロウソクに手足が生えたような見た目の化け物が現れた。この2匹には何か名前があったような気がしたが思い出せない、そもそもこんな化け物に会ったことがあるなら忘れるわけが無い。恐らく、気の所為なのだろう。

「μξνγΟΗΕΓΒ∧ΝΓΑюΝΜλ、юΙΜΞяΘΗζθλι……」

クラゲはいつの間にか私の横に出現した大きな猫型の何かの上にどっかりと座り込みベラベラと意味不明の言語で話し始めた、ロウソクは横で突っ立っているだけだった。何だかその場面がシュールすきて笑いが込み上げてきた。

「∧ΑΞΘζΙλ?」

思わず笑ってしまった私に対してクラゲは疑問に思ったようだった。言葉が通じるはずもないが一応対話を試みてみる。

「いや、横のロウソクが突っ立っているのがなんだかシュールでね、くく、すまない。話を続けてくれたまえ。」

「ξΓΜθэΕ?νёъжΝιΒЧ∧?」

やはり通じないか、だが返答が貰えるのは意外だった。先程の青泥人形達より会話が出来るようだった、そういえばさっきは何が起きたのだろうか。恐らく私は彼らに危害を加えたという判定を下されたのだろう。そしてここに送り込まれた、記憶が中抜きされているようだがまぁ問題ではない。問題なのはここがどういう場所なのかという部分だ、クラゲもロウソクも私に危害を加える様子はないが意図が不明すぎる。しかし私は帰らなくてはならない、どこかは分からないがとにかく私の家へと。

(言語が通じないならコミュニケーションの取りようがないな、行動で示そうにも動けないのだからどうしようもない。)

「なぁ、私はいつになったら開放される?」

「ΜΘΙ♦↘♦ЛТЖЖ<=」

やはり無駄か。まぁハナから期待はしていなかったが、八方塞がりという事実が明確になってしまっただけだった。すると突然

「Ιιж<ЩНИЛСдго?ПДθκΞακ!」

ロウソクが何かを言い始めた。何かを怒っているようにも聞き取れたが何を言っているかは分からない。しかし、何故か耳から離れない。前にも、誰かが私に同じようなことを言って、そして、それから……私は。




「やはりあの男は今すぐに……!」

「静かにしたまえ、私達が彼らの理解者になってやらなくてどうする。私達の仕事は罪を降すべきか否かを判断することではなく、罪を犯してしまった人間の心を理解しその心を正すことだ。」

「しかし私は!あの男に大切なものを幾つも……」

それからというものの女はひたすらに自分がいかに傷ついたかを熱く語っていたが、9割ほど聞く気は無い。

傷ついたのが自分だけだと思っている人間、傷ついた人々の代表を自分だと思っている人間、自分は傷ついたから何をしてもいいと思っている人間……そんな奴らを山ほど見てきた。

(まったく嫌になる。どいつもこいつも終わらない論争を延々と続けているようなものだ、被害者も加害者もどこから見るかで全て変わるのだから)

ならば平均的な視点で物事を見れば良いと言う人もいた、視点を平均すればいいと。しかしそれも現実的な策ではない。アンケートでも募るならまだしも結局自己というフィルターを通している限りは自分の視点以外を持つことは不可能だからだ。

(それに人間は自己を捨て物事を判断することなど決して出来はしない、その純然たる事実が私達を個々として独立させているのだから。)

とそれらしい言葉を並べてみるが、実際はもっと単純な話だ。みんな自分の意見を通すために理屈を並べているだけだ、本質的には私もきっと同じなのだろう。自我を捨てる事無くしかし相手を尊重する、下手すれば自分以上に尊重し、理解する。我々の仕事はそういうものだ。自分を極限まで薄め、薄まった自分を他人で上塗りし投影する、その作業を何度も何度もこなす仕事だ。

「……と思うのですが先生の意見を聞かせてください!」

どうやら女の話は終わったらしい、何はともあれ今日ではっきりした。

「私の意見?そうだね。」

自分の意見は先生に信じて貰えたのだと言わんばかりに息巻く彼女に私は一言こう告げる。

「君はクビだ。」



どうしたものか、本当に手詰まりだ。しかし真っ黒に焦げた部屋の天井の色がテレビのチャンネルを変えるように唐突にパッと変わるので退屈はしていない、ちなみにさっきまでは人の顔が大量に浮かび上がっていた、話しかけてみたが反応はなかった。今は天井に本が埋め込まれている状態になっている、3分ほど前からこんな感じだ。

手詰まりではあるものの手持ち無沙汰では無かった。だがじんわりとした焦燥感が先程から身体の内側を蠢いていた。次第にその焦燥感は熱を持ち始めこの部屋と同じように私の身体を黒く焦がすのではないかと思えた。焦燥感の正体はハッキリしていた。

(家に帰りたい。)

そんな子供のような願望が私の身体の中を埋めつくしていく。(しかし家とはどこなんだ、最初のアパートは私の家ではない、そもそも私は何者なんだ、この世界は一体なんなんだ、なぜ私はここにいるんだ。)

焦燥感と共に終わらない疑問達がふつふつと起き上がってきた。考えたって仕方ないことというのはある、しかし一度思考の沼にハマってしまえば抜け出すことは難しい。

(……こういう時は一度眠ってしまうのが手っ取り早いか。)

そして私は目を半ば閉じた。しかしあることに気づきすぐに目を開いた。

私を締め付けているトンボの卵のような物でできた縄が、右腕の一部だけ緩んでいた。身体をもぞもぞと動かし何とか右腕を解放した。あとは近くに何かあればと首を動かし捜してみるが特にめぼしい物どころかベッド以外に本当に何も無かった。この右腕を使ってどうするか、まず次に何とかすべきは左腕だろう。左腕を動かそうと試みるがどうにもなりそうには無い。今度は精一杯右腕を左腕に伸ばす、胴体が縛られているので寝返りを打つことはできない、しかし届いた。左腕を縛っているトンボ卵(そう名付けた)を探っているとやけに硬い部分を見つけた。そこを勢いよく押してみる。するとカチンという音ともにトンボ卵は緩んだ。

(なるほど、悪意のある監禁では無かったようだな。ここまで緩い拘束だったとは。)

胴体、左足、右足、と拘束を外していきやがて私は自由となった。まるでスパイ映画の主役になった気分だ。しかしここからどうすればいいのだろうか。とりあえずはこの部屋から出て、その後のことはその後考えるとしよう。

そんなことを考えていると部屋の扉が開いた、反射的にベッドの横に身を隠す。大きめのベッドだ、扉側からは私の姿は見えないだろう。

「ИНΞκН……Ιж☴ДζαПЛ=!」

居ないと思われたことはさすがに不味かったか。どうやら乱暴な扱いは出来ないが居なくなられては困る立場に私はいるようだ。

しかしあの声、言語は一切理解できないが声の違いは分かる。あの声はクラゲの横にいたロウソクのものだった。当然聞き間違いの可能性はあるだろう、仮に合っていたとしてもだからどうだという話である。結局慌てたような足音と共にロウソクであろうそいつは何処かへと行った。扉の閉まる音が聞こえゆっくりと身体を起こす。そこにはロウソクの姿はない、しかしベッドの上には何かを突き刺したような跡が残っていた。そこから何かが覗いてきたような気がしたがさすがにそれは気のせいだった。どうやらこの世界でも物理法則は普通に働いているらしく、ジャンプ力が2倍になったり千里眼を使えたりといった無茶苦茶な事は叶わないらしい。いや、それが出来ないのは私だけかもしれない、あんなどこで呼吸しているか分からないような連中だ、出来てもおかしくは無いだろう。まぁクラゲや青泥人形達が宙に浮いていたりしたらそれは可笑しい光景ではあるが。



クビを言い渡した女が帰ってきた。

「あの男が部屋にいませんでした!」

扉をノックなしで開け、息を切らし服を乱し目を血走らせながらそう叫んだ。

「君の言うあの男とは、今日私が担当した彼のことかな?」

分かってはいるが聞いておく。

「そうです!それ以外に誰がいるんですか!いなかったんですよ部屋に!逃げ出したんです!」

……この女は救いようのない阿呆だ。

「なるほど、しかし私は君に先刻解雇を言い渡したばかりのはずだ。なぜそんな君が私の患者の部屋を尋ねたのかな?」

「……」

「押し黙っていては何も伝わっては来ないよ、いくら私が何人もの患者を治療したカウンセラーだからと言ってもね。おっと、こういう煽りは今はよすべきか。私も彼同様に殺されそうになってはたまったものでは無いからね。」

女の肩が少しだけ揺らいだ、その反応は悪手だろう。恐らく彼女は担当していた患者にもこのように悪手を打ち続けていたに違いない。でなければあの量の苦情は来ないはずだ。

「……失礼しました。」

「あぁ、是非出て行ってくれたまえ。その上着のポケットの中身を置いてからね。」

出ていこうと扉に向かっていった女の足がピタリと止まった。

「私の病院で暴れられては困るからね。あぁ、決してこちらに来ることは無いよ。行儀よく応接用の机の上に置くこともしなくて構わない。床に刺すなり置くなり好きにしたまえ。」

女がポケットに手を伸ばす。ポケットに入るサイズの刃物でも人を殺すことは出来る。ベッドで拘束されている人間なら尚更。

「きゃああああああああああああああああ」

突然猿のような叫び声を発しながら女が私に向かって走ってきた。手にはポケットナイフ、顔には焦点の合わない目を携え駆け寄ってくる。

私の人生はいつもこうだ、結局報われることなど一度もなかった。



部屋を出た先は壁も床も天井も虎柄の廊下だった。廊下には幾つもの扉が並び、その扉には目と口が1つずつ付いていてそこから絶え間なく叫び声が漏れていた。とても清潔とは言えない廊下、静かとは言い難い環境。凄まじい場所に来てしまったようだ。だが1つ分かることがある、ここは私の家ではない。私が帰るべき場所はここではない。早く出なければと私は駆け出した。

しばらくして広いロビーのような場所に出た。だがそこは輪をかけて地獄のような場所だった。

人のサイズになり人の手足を生やした様々なち虫達が至る所で様々な動きを繰り返していた。

私は虫がこの世で最も嫌いなのだ、しかもそれが自分と同じ手足を有している。もはや嫌悪するのにこれ以上の理由は要らなかった。この場所のどこを切り取っても地獄絵図にしかならない。どう足掻いても表現する事が憚られる光景だ。

私はうねうねと動く机の上に置かれた空き缶に刺さっていた先の尖った木片を手に取り1匹1匹刺して行った。全て無抵抗でなされるがままだった、恐らく全員自分が殺されるということを理解していないのだろう。 残り2匹といったところで廊下向こうからロウソクが何匹も駆け寄ってきた。騒ぎすぎたか、こんな寄り道をしている場合じゃない。早く家に帰らなければ。

帰らなければ帰らなければ帰らなければ

帰らなければ帰らなければ帰らなければ

でもどこへ……?私はいったいどこへ帰ればいい?私の帰りを待っている人間はいるのか?そもそも、本当に私に帰る場所なんてあるのか?

出口へと駆け出そうとした足がピタリと動きを止める、ダメだこの思考の沼はダメだ。分かっているが止められない。足に力が入らなくなりガクッと膝を着く。やめてくれ、私から希望を奪わないでくれ。頼む、脳裏にうっすらと浮かぶあの暖かな景色が私の唯一の支えなんだ。だから……

「私から何も奪うな!」





「レイシェル・フレク、15歳男。戦時中に兵士として招集を受け訓練兵として第四弾隊に2年間在籍。しかし戦争は終結、彼は出兵することなく帰還。両親は戦火に巻き込まれ死亡。以後養子としてサーグナー家に迎え入れられるも不眠症と幻覚症状に苦しめられる。7月17日、サーグナー・ミークを拳銃で殺害し逃亡。逃亡中に警官に発砲し殺害。そして警官達数名が焦って発砲、負傷した彼は治療を受けたその後シャープ精神病院に運び込まれ、そして今に至ると……」

シャープ精神病院で院長が女性カウンセラーに殺害された事件の後、僕は新しくここの院長として就任した。そして自分の患者のプロフィールノートを読み込んでいた。そう、今僕の目の前に座っている人物のプロフィールノートだ。

「私から何も奪うな、私から何も奪うな、私から何も奪うな、私から何も奪うな……」

ブツブツと同じ言葉を連呼する彼は罪なき一般人を一人、彼を捕らえようとした警官を一人、そしてここに入院していた精神疾患を抱える無抵抗の犯罪者を7人、ロビーに置かれていたボールペンで何度も刺してそのうち2人を殺害した。そしてカウンセラーや警備員に取り押さえられる直前、突然叫びながら泣き始めた。今は手錠をかけられ首元にはいつでも鎮静剤を打ち込めるよう仕組みが施された枷をはめられているが……個人的な考えだがもう彼には何の拘束も必要ないだろうと思う。人間こうなってしまえば終わりだ、物事を細かく考え過ぎれば過ぎるほど人はダメになっていく。熟慮は大切だ、しかし果物も考えも熟し過ぎればそれはやがて腐りになる、思考の鎖であり心の腐りだ。

彼はその鎖に縛られたのだ。現実の鎖など、有ろうが無かろうが意味は無い。



私には夢があった、いつか温かいあの故郷に帰って父と母にもう一度子供として扱ってもらうことだった。軍隊では子供だろうが大人として扱われ大人としての態度を叩き込まれる。口調を、一人称を、体格すらも手術で大人と同じものに作り替えられる。その際に使用する薬には精神的な副作用が付いて回った。ただもう一度、あの家に帰りたかった。だがもう私の帰る場所など、私の帰りを待つ人すらもこの世のどこにもありはしない。目を開き、帰り道を探す意味ももう無い。目の前には相も変わらず意味のわからない生き物が座っていた。好奇の目でジロジロとこちらを見ている。手元には洗濯板のような何かを携えている。目に映る世界すら、私を拒絶するなら……

そして私は目を閉じた。

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