第6話 E・H・カーによろしく
午後11時半。人気のない
しかし、無数の報告書に目を通す作業は退屈であることに変わらない。そんな単調さに弱音を吐きたくなった時、いつもE・H・カーの言葉が脳裏をよぎる。
高名なイギリスの歴史学者であるE・H・カーはこう言った。
――歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります(E・H・カー『歴史とは何か』)
歴史学を語るうえであまりに有名なこの言葉を、司馬はこう解釈している。世の中に転がる無数の事実は、誰かの手で取り出されるのを待っている。
司馬は凶器の鑑定報告書から調べ始めた。凶器となった大型カッターナイフは、市場で10万本以上が出回っている量産品だった。ただ、カッターナイフの柄の部分に「生徒会備品」のラベルがあったことから、学校が3ヶ月前に30本発注したものの一本だと判明した。また、ラベルの裏(糊が付いた面)には血液と、学校関係者の指紋が付着していた。カッターの刃先は先端が2枚折られている状態で、人血が付着していた。カッター本体に指紋はなく、同時に血を洗い流した痕跡があったことから、凶器を鑑定した鑑識課は「被疑者は犯行後、血染めのカッターを水で洗い、同時に指紋をふき取った」と解釈していた。
司馬は鑑識課の
「ねえ、楓。今日発見された凶器のことで、聞きたいんだけど……。この、カッターナイフに貼られていたラベルの裏に付着していた血痕と指紋に、不自然な点はない?」
『いや。あれだけの出血だから、ラベルの裏に血痕がついていても不自然ではない。あとラベルは、納入時に学校関係者が貼り付けたものだから、指紋もその時についたもので、犯行とは無関係のものだと思う。でも、念のため指紋鑑定はしてる。特定できたら、そっちに連絡するから』
「指紋鑑定は機械で照合するんでしょ。もっと早くできないの?」
『あのねえ! 現場の遺留指紋は不鮮明なことが多いの。今度の指紋もほんの一部しか残ってなくて、拡大投影しないと鑑定できなかったぐらいよ。それに、膨大な指紋データから類似した指紋を検出するのは機械の仕事だけど、最終的に指紋が同じかを判断するのは人の目なの。ともかく時間がかかるの』
「わかった。特定出来たら、連絡お願い」
『ねえ、結衣は今日も徹夜?』
「そう。会議室で調書を読んでいる」
『ねえ、あの壱岐とかいう生徒会長が犯人で決まり?』
「それにしては変。本当に人殺しだったら、刑事の前では、もう少し動揺する。それで、今、あらためて事件の全容をふりかえるために捜査報告書を全部読んでいるところ。必ず何かある」
『前もそう言って、報告書に載っていた他の刑事のアラを見つけて、真犯人を当てたよね。今度もそうなの?』
「アラ探しじゃない。私は歴史家志望だったから、資料を読み込むのは慣れている方なだけ」
『そこまで資料が好きなら、どうして歴史家にならなかったのよ?』
「どうして人が悪さをするのか、昔から興味があった。だから、私は歴史家か刑事になってそれを解明するつもりだった。でも、大学院試験に落ち、警察の採用試験には受かった。だから刑事になった。無駄話もしてられないから、じゃあね」
司馬はそこで電話を切った。少しして、夜食の買い出しに行かせていた佐藤巡査が、コンビニから戻って来た。
「お疲れ様です。カップラーメン、サンドイッチ、菓子パン、栄養ドリンク、なんでもありますよ」
駅弁売りのように、佐藤はコンビニのレジ袋の口を広げた。司馬は無造作に手を突っ込むと、卵サンドイッチを掴みだした。
「大変だったらしいですね、被害者」
「生前、被害者がSNS上で誹謗中傷に遭っていたこと?」
「そうです」
鑑取り班から提出された捜査報告書によれば、被害者である秋吉和美は一か月前からカウンセリングを受けていた。いずれもSNSのトラブルで、いわれのない誹謗中傷に苦しめられていた。誹謗中傷の内容は主に、秋吉がレズビアンであることを揶揄する、かなり苛烈な内容だった。
「でも怖いですよね。自分の姪は中学生なんですけど、SNSの投稿におびえていて。仲間外れにされたり、荒らされたり。第一、人が人に対して、アマゾンの商品レビューみたいに、レビューをつけちゃいけないと思うんです」
「それは言えてる」
捜査報告書を眺めたまま、司馬はサンドを齧り、口元にはねた白身を舌で器用に舐めとった。次に、第一校舎四階にいた中川コウ(高校部2年生 外部進学生)の証言が目を引いた。午後五時半分頃、中川は凶器が発見された生徒会室と同じ階にいた。
「私は古文単語テストに不合格だったため、教室で不合格者と一緒に待機していました。古文単語再テストは毎週五時半開始の予定でしたが、五時半になっても先生が来ないので(捜査員注記:輪転機の故障により、問題用紙の印刷が遅延したため)、私は一人で教室の外に出て時間をつぶしていました。まわりには誰もいませんでしたが、上履きを脱いだ生徒が走って、廊下を行くのを見かけました。奥山芽美さんだったと思います。170センチの大きい人ですから、すぐにわかりました。確かに午後五時半ごろの出来事でした」(中川コウの証言)
積み重なった調書の中から、司馬は改めてカッターの鑑定報告書を抜き出した。何か見落としてはならない、か細い光のようなものがある。車に給油するような勢いで、司馬はブラックコーヒーを喉に流し込む。空になった缶をテーブルに置くと、カランという乾いた金属音がした。司馬の目が、見開かれていた。興奮で感覚をなくした指先でスマホを操作すると、山岡に再び電話をかけた。
『なに、結衣。仮眠をとろうとしてたんだけど』
「このカッターの刃先、犯行前から折られてたの?」
『そう。顕微鏡で刃先の断面を見たら、摩耗していた。つまり犯行前から、この刃先がカッターの先端として、使用されていたことが分かった』
「やはり、そういうことか」
『どういうこと?』
「楓、カッターのラベルに残っていた指紋と、今から言う人の指紋とを照合して」
司馬は、その人物の名を2度繰り返した。
『はいはい。その人の指紋とラベルの遺留指紋を照合するのね。分かった。指紋照合係に緊急だって、押し込んどくから。じゃあ、私は寝るね。おやす……』
「まだ寝ないで。あと一つ頼みがあるの。明日、本富士署に盗聴器の検査装置を持ってきてくれない?」
『え?』
「詳しい説明は後で、とにかく、お願いね」
司馬はそれだけ言うと、電話を切った。そして、佐藤の方を振り返った。
「今日はもう寝ていい」
「え?」
司馬は、上司の
「中神“筆頭管理官”、例の振り込め詐欺の容疑者の人相について、教えてください」
『いきなりだな。それか。こんなこともあろうかと、捜査2課の元部下に聞いておいてやったぞ。感謝しろよ。2課が追っていた振り込め詐欺の“受け子”の特徴は、『女としては大柄。身長170センチ。足が長めでモデルのようだった』だそうだ』
司馬は一呼吸置いて、こう言った。
「ありがとうございました。これでようやく、事件の真相が分かりました」
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