第4話 東大

 東都大学法文2号館の研究室から、男子学生たちがぞろぞろと出て来た。スーツを着た男子たちは、一様にくたびれた顔で、うーっと呻きながら全身を伸ばしている。卒業論文の構想発表で、先生にコテンパンに絞られたな、ということが“経験者”の司馬には、一目でわかった。就職活動のため、学生たちが散っていくのを見届けた後、司馬しばは研究室のドアをノックした。

「失礼します。教授。学部時代に御世話になりました……」

「あら。司馬さん」

 東大文学部教授・白峰しらみね左右さゆは、上品にほほ笑んだ。

「先生。お久しぶりです。恐れ入りますが、今、お時間よろしいでしょうか?」

「もちろん。あんまり片付いていないけど、上がってください。講義は3時間目からなの。あと一時間は大丈夫」

「お邪魔します」

 白峰教授の個人研究室にはデスク、卒論指導のために使用する長机、生徒用の長椅子が置かれている。部屋全体を取り囲むように置かれたスチール製の本棚には、ざっと見ただけで藤原彰ふじわらあきら吉田裕よしだゆたか秦郁彦はたいくひこなどの軍事史、升味準之輔ますみじゅんのすけ御厨貴みくりやたかし三谷太一郎みたにたいちろう伊藤隆いとうたかしなどの政治史の研究書が並んでいる。他にも、白峰が科研費で収集した第一次史料、オレンジ色の表紙が特徴的な山川出版社の高校日本史教科書が目を引いた。先生は、研究活動、卒論指導、講義の他に日本史教科書の執筆も行っているのだった。

「何年ぶりかしら?」

「大学卒業後、まったく会ってませんでしたから。六年ぐらいでしょうか」

「あなたの卒論、まだ残ってるのよ。きっとその段ボールのどこかにある」と、白峰は床に積み上げられた段ボールの一つを、目で示した。

司馬は驚いた。

「とっておいてくれたんですか?」

「もちろん。出来できのよい論文だったから」

「買いかぶりですね。卒論指導では、先生はいつも『問題意識がなってない』っておっしゃってましたから」

「私は誰に対しても言うのよ。研究で大切なことは、この世の中に無数に転がる事実の中から、何が明らかになっていなくて、何を明らかにしなくてはいけないかを見抜くこと。つまり問題意識と、それを明らかにするためのアプローチだから」

「恐れ入ります。ところで、院生の先輩方は、どうされてますか?」

藤代ふじしろ君が昨年に無事、博士論文を出して独立したわ。今度、論文が東大出版会から公刊される予定。山室やまむろ君は博士6年になったけど、博論提出はもう少しかかりそう。シュウさんは順調で、今年には博論が出せるわね。ああ、周さんで思い出したけど、今年になってから北京大学から中国人留学生が3名来たわ」

「3名も?」

「最近の大学院はどこも留学生の方が多いの。ところで、司馬さん。今日はどうしたの? まさかスーツ姿で、遊びに来たわけじゃないでしょう? 本郷女子高で起きた事件の聞き込みでここに来たのでしょう?」

「教授。相変わらず、察しがいいですね。では単刀直入におうかがいします。私が在学していた頃、先生はよく本郷女子高校で出張講義をされてましたよね? 今も続けておられますか?」

「そうよ。今年の4月にも行ったわ。あの学校は土曜日に予備校の講師や、大学の先生を招いて特別講義を行ったりする。私もその特別講師として招かれた」

 白峰の特別講義では、大学のゼミの雰囲気などを教えつつ、歴史学の意義、原型をとどめていない草書体(くずし字)の読み方、史料の読み方などの初歩的な知識を教えるものだった。

「何か変わったこと、たとえば、校内の異常な雰囲気とかを感じませんでしたか?」

 白峰は首をひねった。

「なかったと思う。その日に行くだけだから」

「先生と、顔見知りになった生徒はいませんか?」

「顔見知りになった人はいるけど、事件について知っているかどうかは、わからない」

「誰ですか? 教えてください」

 白峰教授は虚空を見つめた。思案をするときの癖だった。

「その人なら、今日の5限に来るわ。今年の4月にやった講義の後、週に一度遊びに来るようになって」

 5限は、4時50分から6時35分までだった。

「それって、先生が毎週火曜5限に、院生、学部生合同でやってた勉強会のことですか?」

「そう、司馬さんが在学中に参加していた合同勉強会。今日は丸山眞男『超国家主義の論理と心理』をベースに、戦後歴史学の研究潮流について考察するの。読書会のレジュメを切るのは山室君で、彼女も来るわ」

「どんな生徒ですか?」

「生徒会長さん」

「分かりました。じゃあ、またあとで」

「でも、紹介できるかは分からない。事件があった直後で、相当傷ついていると思う。はじめから来ないかもしれない。いくら私の教え子でも、今のあなたは刑事。女子高生にとって刑事と会うことはやはり怖い。会う、会わないは、本人に許可を取るしかないけれど、それでもいいですか?」

「はい」

「なら、名刺を置いて行ってください。彼女にメールで、あなたが来ることを伝えます。あなたが刑事であること、私の教え子でもあることを率直に書き添えて置きます」

「もちろんです。どうぞ」司馬は、自分の名刺をデスクの上に置いた。

「それから、一ついいですか」

 白峰は、司馬の顔をまっすぐ見据えた。

「ここはキャンパスであり、多くの学生たちがいる場所です。学生たちが辛い思いをしないように行動してください」

「公務員には人権を尊重する義務があります。どうかご安心下さい」

 司馬は深々と一礼して、研究室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る