第2話 警視庁捜査一課現場資料班・司馬結衣警部補
警視庁本部6階・刑事部で警報音が鳴った。
『警視庁から各局。
無線機から流れた事件情報を、警視庁捜査一課現場資料班主任(警部補)・
司馬は卓上の電話機を取りながら、腕時計を見た。
時刻は午後6時8分。
本富士署へ電話をかけた。
『……ハイ、本富士署・
「わかりました。至急向かいます」
司馬は
「“筆頭管理官”!」
中神はゆったりとした足取りで捜査一課長室から戻ってきたところだった。
「でかい声出すな。こっちにも無線は聞こえてるんだよ。今、現場資料班でいないのは?」
「
「角田と夏目は非番で官舎にいる。現場に行く途中で夏目と角田を拾っていけ。現場資料班全員を本郷に参集させろ」
「わかりました」
覆面パトカーで現場に乗り付けると、司馬たちは車内で白手袋、靴カバー、マスク、そして髪の毛の脱落を防ぐビニールのヘアキャップをつけた。DNA捜査が主流となった現代では、捜査員の脱毛や唾液が捜査の障害になるため、こうした装備をしていなければ現場には入れない。
車から降りると、7月の猛暑が襲い掛かってきた。
「暑いな。遺体の腐敗も早いだろうな、こりゃ」と
武甲学園本郷女子高校は、明治期に創立した名門校だった。事件現場は学園の文芸部室で、武甲会館の3階にあった。渡り廊下で校舎とも繋がる武甲会館は1階と2階が吹き抜けの小ホール、3階が部室スペースとなっていた。文芸部は3階の奥から数えて2つ目にあり、6畳ほどの広さだった。部屋は奥が窓、残る三面が本棚となっていた。
鑑識作業は警視庁鑑識課現場鑑識第二係が行っている。司馬は顔なじみの鑑識に声をかけた。
「
現場の見取り図を作っていた現場鑑識第二係・
「
鑑識作業では写真撮影のほかに、現場の位置関係を見取り図の形で記録しておかなければならない。製図はもっぱら山岡の仕事となっている。
「今作ってる現場の図面、見せて」
「遺体の位置は発見時から動かしてない。それと凶器は見つかってない。あと現場には複数の足跡があったけど、被害者のすぐ近くにあって、今日ついたばかりの新しいものは、この2種類。両方とも学校指定の上履きで、一つは被害者のものだった。2つ目は血だまりに、靴底の溝や模様がくっきりと刻み込まれた形になってた」
「被害者の死因は?」
「検視官によれば、被害者の発見時刻は午後6時ごろ。死後硬直の状態から見て、犯行推定時刻は本日午後5時~5時半の間。死因は頸動脈を損傷したことによる失血死。傷口が細いことから凶器はカミソリ状のもの。また出血量から犯行現場はここ。被害者に抵抗した形跡はほとんどなし、以上」
「分かった。ありがとう」
それから、司馬はまわりにいた捜査員に指示を下した。
「
「もうやってるよ」という答えが返って来た。
「だとさ。どうする? 警部補殿」
中神はニヤニヤしていた。司馬は落ち着きをなくしかけたが、とにかく深呼吸した。口元を覆うマスクが無様に膨らんだ。
「特別捜査本部の設置が妥当と判断いたします。凶器は犯人によって、持ち去られたと推測されます。被害者の周りにある犯人らしき足跡は、生徒の上履きと思われます。犯人は生徒、生徒間のトラブルによって生じた事件の可能性があります」
中神は容赦がない。
「それなら、俺たちだけで犯人を捕まえることも可能だろう。ここには現場資料班、機捜、SSBC、所轄もいる。戦力に不足はない。犯人が遠くへ逃げる前に確保することも可能だろう」
司馬は、懸命になって言い返す。
「希望的観測は禁物です」
「ま、いいだろ。本庁に殺人犯捜査係の出動を要請する。第一発見者の訊問はお前がやれ。女子生徒だ。有益な情報を五つ引出せ。ホラ、行け」
廊下の隅で、一人の女子生徒がうずくまっていた。身長150センチ弱の小柄な少女。事件のショックで体調を崩したらしく、生徒のそばで、女性教諭が
「ちょっと、いいですか?」
マスクを少しずらして、司馬は微笑みを作った。女性教諭が咎めるような視線を送って来たが、司馬は無視して、
「何があったか話してもらっていい? まず、あなたの名前から」
と尋ねた。
少女は、
「清原すず。高等部2年生」彼女の唇は乾燥し、表面がかさついている。
「あなたがこうなっているのを見つけたのは午後6時。その前、どうしてたのかな?」
彼女は皮膚病を患った猫のように、ひっきりなしに唇を舐めている。
「……私を疑うんですか?」
「ごめんなさい。事件に関係する人、みんなに訊くことなんです。まず、第一発見者のあなたから詳しい話を訊きたいの。本当にごめんね」
「私、文芸部員です。5時半まで校内の図書室にいました。そこで本を借りた後、文芸部に私の本を置きっぱなしにしていたことを思い出して、6時に文芸部室に寄ったら、あんなことに」
「あなたが取ろうとした本は?」
「ミヒャエル・エンデの『モモ』です」
鑑識課員に確認すると、確かにその本は部室にあった。
「文芸部の部員数は?」
「秋吉さんを含めて、5名です」
「部室に、鍵はかかっていませんでしたか?」
「はい」
「倒れている秋吉さんを見つけた時、部室に入ったり、中の物を動かしたりしましたか?」
「いえ。中に入らないで、あわてて職員室に行って、顧問の三輪(みわ)先生に警察を呼んでもらいました」
清原は、そばにいる女性教諭の顔を見上げた。この女性教諭が通報者の
経験値の浅い教師は重大事件にぶつかったせいで、さっきから視線が落ち着かない。
「清原さん。入ってても、大丈夫ですよ。現場の足跡は、こちらでちゃんと識別しますから」
「絶対、入ってません! 私、犯人じゃない!」
司馬はそっと、彼女の足元を見た。彼女の上履きの靴底に血はついていなかった。三輪の足元も観察したが、白のスニーカーはまっさらだった。
「分かりました。部室から無くなっているものとか、ありますか?」
清原は、小首をかしげた。
「分かりません。部室に入ってないので」
「分かりました。ありがとうございます。後で、指紋を採らせてもらってもいいですか? 警察の捜査では、犯人の指紋と関係者の指紋とを区別しなければならないのです」
三輪が先に頷いた。そして、噛んで含めるように清原を説得し始めた。
「清原さん、こうなったら仕方がないから、警察に協力しましょう」
清原は、沈黙で異議がないことを示した。
その時、司馬の肩を誰かが強く叩いた。少しむっとして振り返ると、通話状態のスマホを手にした中神がいた。
「今、八王子署管内で転落死があった。事件性の疑いがある。俺たちは八王子へ転進するが、おまえは連絡担当として、ここの捜査本部に合流しろ」
「ちょっと待ってください。……初動捜査終了後、事件は殺人犯捜査係に引き継ぐのが原則では?」
司馬が所属する現場資料班は、捜査一課の偵察部隊だった。現場での情報収集と初動捜査の補助、主力部隊・殺人犯捜査係への引継ぎを管轄するのみだ。つまり、本格的な捜査活動には参加しないはず……だった。
しかし、中神はこともなげに言う。
「現場資料班の任務には、特捜本部の捜査結果をまとめて、上層部に報告することも含まれるから、お前が特捜本部に合流しても、なんら問題はない。それに、事件現場の問題もある。女子生徒の訊問には女性刑事が必須だが、女性刑事はいまだに数が少ない。そして、現場は東大と隣接する学校だから、地取り(目撃情報収集)には東大敷地が含まれる。お前は東大文学部卒。このあたり一帯の地理には詳しいはずだ」
司馬は唖然としていた。偵察隊員が本格的戦闘のど真ん中に投げ込まれたら、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
「管理官……。それは命令ですか?」
「もちろんだ。司馬警部補、”残留捜査官”として特別捜査本部に合流。引き続き本事件の捜査に当たれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます