【俺の妻が殺しにくる】
王都に帰ってきてから、俺の生活は良くも悪くも忙しい。だって、新居に戻ればクララベルがいる。
身も忙しいが、大半は俺の心情的な忙しさだ。
気を抜くとすぐに目が光りそうになる。
今日も今日とて、クララベルが俺を殺しにくる。
よくわからない祝賀会に参列させられて疲れた俺は、中庭でたそがれていた。
一日の仕事を終え、女官たちも出て行って、やっとクララベルと二人きりだ。
中庭は花盛りで、春と夏の花が絡まり合って薫って、幻想的だ。香りを絵に描いたらどんなだろうと、おかしなことを考えながらぼんやりと星を眺めていた。すると、クララベルがこっちに来る気配がする。
クララベルは俺の前に来ると、仁王立ちになって腰に手を当てて難しい顔をしている。
なんだろう。今日の祝賀会で何か失敗でもしただろうか。文句を言いに来たのかと身構えていると、俺の妻はおかしなことを言い始めた。
「ねえ、ちょっとキスをしてみて」
「え? やだよ」
クララベルが俺の様子を
「なんでよ、いつもは不必要にするじゃない」
「そんなの仕事だよ、仕事。したけりゃ、そっちがすればいいだろ」
とてもではないが、友好的なキスをする場面ではなさそうだ。
キスをするのに否やはないが、今日に限っては何を企んでいるのか分からない。
なんだってこんなことを始めたのやら。
「ええ? 私がするの?」
「ほら」
中庭に置かれたベンチにふんぞり返って、どうとでもしろと体を投げ出す。
キスはしたいが言いなりは嫌だ。
しかし、クララベルがしてくれるなら断る理由がない。むしろされたい。
クララベルが数日前にバロッキー家に行っていたのは知っている。
誰かに余計なことを吹き込まれてきたのは明白だ。
相変わらず俺と恋愛するつもりがないお姫様は、犬に芸をさせるくらいの気持ちで俺にキスをしろと迫るのだ。
(誰の指図だよ、まったく……)
そう思うのに、完全に浮かれている俺は、ベンチに寄りかかって
期待はあったが、どうせ、こうやって投げやりな態度を取れば引き下がってしまうだろう。
「じゃ、じゃぁ、するわよ」
(は? するのかよ!)
いつもとは違う反応に、俺は耳をうたがった。
俺は堪え性がないから、隙あらばクララベルを貪るのに余念がない。だが、クララベルからされたキスは数えるほどだ。しかも、あいさつ程度のものばかりで、こんな改まってというのはほとんどない。
「はい、どうぞ。お手並み拝見だな」
クララベルの挑むような表情が気になる。
じっと俺の顔を見ながらモゾモゾと俺の膝の上に跨ってきて、悲鳴を上げそうになった。
全然そんな雰囲気ではないのに、クララベルのおかしな行動にめまいがする。
(……なんだ? いったいなにがおきてるんだ?)
すっかり寝支度で、結っていない髪が俺の鎖骨あたりに垂れて、身震いしそうだ。
目を閉じているので、クララベルの気配や香りばかりが際立って俺を甘く苦しめる。
クララベルの少し体温の低い手が絹の肌触りで俺の頬に触れて、ふわりと一瞬唇に唇が押し当てられて、離れていく。
離れて行って、戻ってくる様子はない。
「……え? それだけ?」
俺は思わず目を開けて抗議した。
「ち、ちがうわよ、ここから本番なの! ちょっと黙ってて」
本番と聞いて期待値を上げてクララベルを見上げると、何とも微妙な表情をしたクララベルがぎこちなく近づいてくる。機械仕掛けのようだ。もう少しロマンティックな動きができないのだろうか。
もう一度、唇に甘い感触があって、慌てて目を閉じる。うっかり目が光ったら言い訳を考えるのに苦労する。
打算的に薄く唇を開けば、おずおずと唇を割って温かい舌が口腔に侵入してきた。正直、大歓迎だ。
(自分からこんなことするの初めてのくせに、なかなか大胆だな。もっとがんばれ!)
心の中で応援しながら、どうするつもりなのかとほくそ笑んでいると、そのうちに、ぞくりと背筋に甘い快感が走る。
初め探るように彷徨っていたクララベルの舌は、不慣れな動きの割に的確に俺の弱いところを刺激していく。
(いや、ちょっと待て、弱い所なんてもんじゃない――こいつ俺を殺す気だ!)
「ん……」
思わず媚びるような甘い呻き声を漏らしてしまうと、クララベルが息だけで笑った。何だか非常に悔しい。
「ミスティ、目を開けてみて」
(む、無理、無理だろ……今はヤバい)
俺は咄嗟にマルスのことを考えた。
あの死臭の漂う、ぬめるような質感の商人を必死で思い浮かべる。
今のキスの相手がクララベルではなくて、マルスに舐めまわされて、押し倒されてベタベタと触られていたのだと自分に言い聞かせる。恐ろしい情景を思い浮かべると、すこし熱が冷えた。
「ほんと、お前おかしいからな」
なるべく時間を稼ぎながら、ゆっくりと目を開ける。
クララベルの深い青色の目が俺を観察している。大丈夫だ、目は光っていないはずだ。
「……なるほどね」
「な、何がだよ……」
「黙ってて」
何をつかんだのか、今度は俺の髪に指を挿し入れ、わしゃわしゃと撫でながら頬や瞼にもキスが降る。
唇がもどかしくて、強請るように口を開ければ笑みの形に引き上げられた唇が、優しく俺の唇に押し当てられる。
(ちょっ……なにこれ、何だこの多幸感。これで目を光らせるなとか、地獄だ……)
ぎゅっと目をつぶり、思わずしがみつくと、気を良くしたのか、口付けはより深くなる。
(なんだ、こいつやけに上手いな……俺としかキスしたことないくせに)
自分で思ったことに、ぶるりと身震いする。
番を独占している状況が竜の感性に刺さりまくって、熱がぶり返す。
(俺としかって……夫婦だし、そりゃそうか。俺の妻だもんな。ヤバい、これ以上は血が暴れる。本当にヤバい……)
今は絶対に目を開けるわけにはいかない。
完全に目が光ってる。
(なんだってこんなキスをくれるのだろう)
そっちがすれば、なんて突き放して言ったことも忘れて、もっと欲しいとキスに応える。
俺が求めたのと同じ分、クララベルから与えられるのが嬉しい。
この完璧な時間で時が止まってしまえばいいのに。
(でも、俺が好きだって言ったら、びっくりするんだろな……)
――好きだ。
そう思うと、やっぱり、クララベルの何もかもが好きだ。
暴走しそうで鼓動が速い。全部放り出して、クララベルに愛してくれと請いたい。
仔犬のように腹を出して、俺の負けだと泣いてしまえたらいいのに。
俺は乱された心音を隠せもしないで、ギリギリの理性でクララベルの肩に頭を乗せて「続きはベッドで」と告げた。
クララベルをぎゅっと胸に抱く。今はどうしても中庭の北側の方を見せるわけにはいかない。
肩越しに夕闇におかしな物を見てしまったのだ。
夜行性じゃない蝶が飛んでいる。
一匹ではない、ちょっとした群れだ。どう考えても、浮かれた俺が呼んでしまったのだ。
旋回してオーロラのように踊る群れは、俺の心情を表しているようだ……ほっとけよ。
あれをクララベルに気づかれるのはまずい。
俺はクララベルを抱えて、そそくさと室内にひっこんだ。
*
「いったい、なんだったんだよ」
クララベルの目隠しをとれば、気まずそうに目を泳がしている。
クララベルが俺を煽りに煽りまくったせいで、二人ともくたくただ。
夜の勤めが奨励されている契約結婚なんて、役得すぎる。
「この間、バロッキー家に行ったじゃない?」
「やっぱりそれか。何を指示されてきたんだよ」
クララベルは、ばつが悪そうにガウンの前を合わせて肌を隠す。
「ええと――あのね。ミスティは私が番じゃないっていうじゃない? でも、気が付かないだけで、本当は私が番だったとしたら、離れた時にミスティが狂って死んでしまうから、ちゃんと確認しておけって――サリが」
「なっ……あいつ……」
竜同士では番のことは口にしない。そんなの本人たちだけが知っていればいいと、分かっているからだ。それに、どうせ竜同士では誰に懸想しているかなんて筒抜けだ。
竜の恋は人の恋とは違う。番だという事実が相手にとって負担にならないとは限らない。
その辺の事情がとても繊細なことだと竜の誰もが理解しているし、恐れている。
設定上、外では番だと嘯くことにしているし、結婚までしてしまったから、俺の思いが一方通行なのを知っているのはサリとヒースくらいなものだ。レトさんはどう思っているのかわからない。バレているとは思う。
クララベルは俺の気持ちを知らない。それをわざわざ教える竜はバロッキーにはいない。
事情を知っているのにクララベルをけしかけるようなことをするのは、竜を無神経に引っ搔き回すサリくらいなものだ。
まぁ、それでも、直接ミスティの番はクララベルだと告げなかったのだけは評価しようとおもう。
今回もどうにか、ギリギリ耐えきった。ギリギリすぎるだろ……。
「あいつ、本当におせっかいババァだな。それで、サリに
「襲ってないじゃない。もし番ならキスすれば目が光るからって言われたから、ちょっと念入りに確かめただけよ」
「アレが確かめるためのキスかよ?! やり過ぎだ。それに、目が光るのなんて当てにならないんだぜ? 怒りや興奮でも光ることがあるんだから」
「つまり、感情が昂ったときってことよね」
「感情とも限らないっていうか、ほら……性的にイイ時とか?」
クララベルは、さっきまでされていた目隠しの布をつまみ上げる。
「……それじゃ、目隠しされるのって、そういう様子を見られたくないからってこと?」
クララベルは不満げに口を尖らすが、そう解釈してくれるのなら都合がいい。
「まあ,人に見られて楽しいものじゃないよな。まして番じゃないやつに見られるのはな」
意地の悪い言い方をすると、クララベルはつんと窓の方にそっぽを向く。
良かった、蝶の群れがいる窓とは逆の窓の方だ。
「それで、つまり、違う……のよね? 私が番じゃないってことでしょ」
そんなふうに言われると、番だったほうが良かったと言われているみたいで心が揺れる。
「ヒースを見てみろよ、ヒースがサリにこんなことされたらどうなると思う?」
クララベルは少し考えて、げんなりとした。
「山が爆発したり、天気が変わったりしそうね」
「さすがにそこまではないだろうけどさ」
竜の力が弱い俺でさえ蝶の群れを呼んでしまった。
こんなに浮かれているのを知られるわけにはいかない。
「心配してくれたのはありがたいけどさ。取り越し苦労だったな。だいたい、番と離れて死ぬっていうのは比喩だからな。たとえ番と離れたからって、それが原因で死んだりしない」
(――体はな)
俺は正直どうなるかわからない。今それを考えるのは無理だ。
嫌な考えを振り払うように、仰向けにベッドに倒れこむ。
「クララベルはさ、俺がいなくなったら、少しは寂しい?」
「ぜんぜん」
やけに返事が速かったが、全然大丈夫だという顔はしていない。
家族や友人のような仲になってしまった俺が、居なくなるのは寂しいらしい。いい気味だ。
「なんだよ、可愛くないな。少しは寂しいくせにさ」
「ぜんぜん、ちっとも。かえってすっきりするわ」
無理をしているのが分かって可愛い。
俺は調子に乗って、本心をにじませた質問をふざけている振りをしてぶつけてみる。
「俺の番が自分じゃなくて、残念だとか?」
一瞬空間に緊張が走り、部屋はしんと静まり返る。
クララベルは大きく目を開けて、瞬きをしている。
「……わからないわ」
「へ、へぇ」
クララベルの気配が一瞬、大きくなったように感じた。見知った気配なのに、何か引っかかりのあるような……。俺が違和感を追う前にクララベルが続ける。
「でも、もしそうだったら、私、どうしたかしら。私がいないと死ぬっていうなら、可哀そうだからここにおいてあげてもいいわよ。ミスティはどうするの? もしそうだったら、番の為に亡命するのを止めて絵を諦めるの?」
その質問にはもう答えが出来上がっている。
「俺は、どうあっても絵を諦めない」
「そう。それでこそ私のミスティよ」
そういうと、クララベルは満面の笑みを浮かべる。
薄闇の中でも光を放つような慈愛に満ちた美しさは俺の心を殺した。
(――ひどい)
俺は虚勢も何もかも壊されて、心が萎んでいくのを感じた。
こんな時に、クララベルと離れ離れになることを想像してしまった。
どうにか取り繕おうとしても、冷や汗が背を這うばかりで二の句が継げない。
流石に隠しきれなかったのか、クララベルが俺に近づいて頬をつねる。
「なんだ、ミスティもちゃんと寂しいんじゃない」
言い返そうとしたが、口を開いたら今は嗚咽が出そうで動けない。
俺とは反対にクララベルは上機嫌だ。
「いい気味だわ。私が大嫌いなのに、離れるとなると寂しいわけね。仕方のないことだわ。番ではないけれど、私たち結婚してるし、わりと仲良しだし。家族が独り立ちするのは清々しい寂しさがあるものよ。大丈夫、ミスティだけじゃないわ。私だってミスティの憎憎しい顔が見られなくなるとなったら、ちょっとは泣いちゃうわ」
喉に何かを詰まらせたようで、うまく言葉が出ない。
「……べつに」
酷くかすれた声しか出なかった。
「ふっ、ふふっ……馬鹿ね。まだ意地を張るの?」
「……ってない」
クララベルは何だかとても上機嫌に俺に覆いかぶさって、わしゃわしゃと俺の髪を掻きまわす。
馴れたもので、嫌がる俺の鼻先にキスまでする。
「ミッシーちゃん、今日は手を繋いで寝てあげましょうね。夜泣きしても大丈夫よ、お姉さまがついていますからね」
「ああ、もう!」
俺は上掛けを頭からかぶってクララベルから距離を置く。
毎日ずっと一緒にいるとなると、情緒が忙しすぎるのだ。
「はいはい、おやすみなさい。手はいいの?」
クララベルも眠くなったようで衣擦れが聞こえる。
もぞもぞと布団から手だけを出すと、クララベルの細い指が絡められる。
俺はクララベルが好きだってことだけで、もうずっとくたくただ。
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