シュシュラの毒

 王都に帰って来て、やっと落ち着いた生活が始まった。

 離れに住居を移してからは、公務の煩わしさは少し軽減されたように思う。

 仕事の量が変わったわけではないけれど、新居に帰ればミスティがいる。誰かが待っているという生活は悪くない。食事も一人きりで食べなくていいし、たわいもないことを話す相手にも困らない。食事に苦手なものが出たら、ミスティに押し付ければいい。

 最近では、給仕の女官の目を盗んで、苦手な野菜をミスティの皿に移すのが小さな楽しみだ。

 

「今日の展覧会は散々だったのよ」


 帰って来て早々、夕食を食べながら展覧会の愚痴をミスティに語って聞かせる。

 来賓として招待された展覧会だったが、何から何まで気に入らないことばかりだった。


 出資者がパトロンをしている駄画家の絵が、わざとらしく中央に飾られていたのはまだ我慢できた。しかし、見込みある画家の絵を人の来ない会場の暗がりに置くのはどういう事だろう。

 不当な扱いに不満を言いそうになって、何かで気を紛らわせなければならなかった。

 

 来ていた客もひどかった。

 明らかに絵を価格だけでしか見ない商人や、腕が良いわけでもないのに絵を評価してくれと私に擦り寄ってくる画家、王家との繋がりを欲して商品を売りつけようとする輩まで――そんなことよりも、絵をじっくりと見る時間が欲しかったのに。


「――ってことがあったのよ! もう、あそこで我儘姫を引っ張り出して、絵の配置換えを命令しなかっただけでも、偉いと思わない?」


 ミスティは私の話を聞きながら、先に食事を進めている。

 普段は絵を描いて過ごしているようだが、今日は仕事でダグラスに会ってきたそうだ。

 ダグラスも最近は私に挨拶に来るよりも先にミスティと会っているようで、王都に来ていたこともミスティから聞いた。


「はいはい、えらいえらい。少し落ち着けって。絵を飾り直すほどって、有望な画家でも発見したの?」


 食事に手を付けない私にあきれて、ミスティは自分のフォークに乗っている付け合わせの野菜を私の口に押し込んだ。ミスティはあまり根菜類が好きではない。

 

 私は行儀の悪いミスティを目で叱って、焦がした砂糖で味付けされた角切りの根菜を咀嚼して飲み込み、話を続ける。


「そう。小さな静物画だったのだけど、琴線に触れるものがあったの。才能があるのに評価されないのはもったいないと思ったから、私が買うわって言ったのよ。でも、その画家は絵を売るために展覧会に出したのではないって言うから、しぶしぶそのままにしてきたんだけど――」

「ふぅん、その画家、俺よりも有望?」

「ミスティとは比べられないわよ。この国にミスティ以上の画家はいないの」


 それを聞いてミスティは両手の平を私に向けて挙げて、さも驚いたという顔をした。


「はっ! 夫のミスティは八つ当たり用クッション並みの扱いなのに、画家のミスティだけは手放しで褒めるんだもんな」


 そう言われてみれば、褒めすぎたかもしれない。自分の発言を思い出すと、ちょっと恥ずかしい。

 

「だって、夫のミスティは気に入らないと人を噛んだりするのよ。犬みたいな扱いをされても仕方ないわ」 

「画家が贔屓されてずるい」

「何に対しての不満よ。ミスティを褒めたんだからいいでしょ。……でも、結婚て便利ね。なんだか身構えて損したわ。帰ってきて、こうやって愚痴が言えるのってすごく発散になるのね」

「八つ当たりされた俺の鬱屈はどうすればいいわけ?」


 ミスティは拗ねたように言うけれど、今日の愚痴を吐き出してしまわないと、夕食がのどを通りそうにない。


「だって、今日はそれだけじゃなかったの! ええと、ニゲイラ商会の、何て名前だったかしら――あいつ、手を握るにしても挨拶にしては長すぎるし、あのキスったら――」

「……キ、キス?!」


 ミスティがぎょっとしてフォークを置いた。何かいかがわしいことを想像しているようで、慌てて説明を加える。


「やだ、もちろん手の甲にするやつよ」

「それだって、ぶちゅっとするだろうが。手、ちゃんと洗ったか? わけのわからない商家の息子なんかと間接キスするの、俺は御免だからな」

「失礼ね、ちゃんと洗ったわ!」


 実際、あの後、気分が悪くなって、しばらく手洗いにこもってごしごしと洗った。

 レトが気を利かせて先に帰るように取り計らってくれなかったら、一緒に食事をしなければならなかったかもしれない。

 

 ニゲイラなにがしは主催者の息子だそうだ。

 始終私の隣に立ち、会場を案内したり、芸術論をぶつけてきたりした。

 近代と古代の絵画の変遷について聞くのは面白かったけれど、手を取ってエスコートされる頃には面白さも吹き飛んだ。

 どうにも距離感のおかしいのだ。別れの挨拶の間、両手で手を握られて、ものすごい違和感で足指までもぞもぞと悪寒がして我慢するのが大変だった。


「だいたいさ、新婚のお姫様の手に口付けするか? 気持ち悪いやつだな」


 ミスティが鼻に皺を寄せて嫌そうにしている。よほど他人の気配が嫌らしい。

 理由はどうあれ、ミスティが私の気持ちに同意してくれるのが嬉しい。


「ほんと、人妻にする挨拶だとは思えなかったわ! 話をしながら悪寒がしてて、途中から何を言われたか全然覚えてないもの。――はぁ、分かりやすく指輪でもつけておこうかしら」


 異国の習慣で、婚姻した男女や恋人同士が揃いの指輪を身に着けるというものがあるが、わが国では国境に近いところに住む若い世代にしか浸透していない。

 ちゃらちゃらした遊びだと思っていたが、こんなことがあると真剣に導入を考えてしまう。


「なんだ、台座に岩塩でも嵌めるのか?」

「思い出させないで。岩塩のこと、まだ根に持っているんだからね……岩塩か……そうよ! いいことを思いついたわ」


 私が竜であることが原因で、異性に触れられると気分が悪くなるのはレトだけしか知らない。

 今日はどうにか我慢したけれど、今後うっかり触れられて、違和感で相手の手を振り払ってしまう事もあるかもしれない。

 どんな滑稽な事でも、試してみる価値はある。


「ねぇ、ミスティ、水晶で混ざり物のある石があるでしょう?」


 以前、バロッキーの宝石の鑑定所を見せてもらったときに、透明な水晶と、中に何か混じってしまった水晶を分けていたのを思い出したのだ。

 不透明な物は宝石にはならない。どうするのかと職人に尋ねたら、小さく削って髪飾りや家具の装飾にするのだと説明してくれた。


「まあ、水晶っていったら透明のものが好まれるから、金が入ってるもの以外はビーズとかにするよ。そういうのがいいのか?」

「ちがうのよ。あのね、赤い混じり物がある石がいいの。いくらか青みがあれば完璧だけど」

「おい、おまえ、それって……」


 私がにやりと笑って見せると、意図が分かったのか、ミスティはバリバリと後頭部を掻く。


「そうよ! そんな石のついている手に口付けできる度胸のある商人がいるかしら? バロッキーに喧嘩を売ることになるわよね」

「馬鹿夫婦だと思われるぞ」

「いいのよ、世間的にはとっくに馬鹿夫婦なんだから。気持ち悪い装飾品を身に着けるのも、サリの計画した私たち像に相応しいわ」




 今日は疲れてしまって、本を読んで夜更かしする気にもなれない。早々に湯浴みをして、部屋着に着替え、寝支度をしてしまおう。


 睡魔がそこまできている。

 嫌なことがあった日は怖い夢を見ることもあったが、寝台にミスティがいる時はぐっすり眠れる。

 そんなことでも番いの存在の大きさを感じる。


 むず痒い甘い気持ちになりながら、肌を整えていると、かすかな違和感を感じた。肌につける乳液の陶器の瓶を開けた時に、嗅いだことのない匂いがしたのだ。


「ねえ、レト、これ、いつもと違う?」

「新しい瓶ですね。昼頃に新しいものと取り換えたようです」

「配合が変わったのかしら、なんだかいつもと匂いが違うのよね」

「そうですか? 私にはいつもと同じように感じますが。材料が変わったのかどうか聞いてまいりましょう」

 

 竜が金気かなけに反応するのは知っていたが、どうやら匂いで感知するようで、私も少しなら分かるようになってきた。

 これは鉄や銅などの分かりやすい匂いではない。いつもの乳液の香りの他に、初めて嗅ぐ匂いが混ざっている。


「特に変わったことは無いようでしたけれど、姫様が何か気がかりなのでしたら使うのはやめておいたほうがよさそうですね。別のものをお持ちします」

 女官に仔細を訊きに行っていたレトが首を傾げながら別の瓶を持って戻ってくる。

 開けてみると、こちらからはいつもの薬草のような香りのほかに変わった所はない。


「これはいつもと変わらないわ」


 久しくこういったことが無かったが、なんとなく胸騒ぎがする。


「ねぇ、レト、ちょっとミスティを呼んできてくれない?」


 すぐにミスティが部屋にやって来た。

 すっかり寝支度をしていて、髪油も落ち、毛並みがふわふわだ。

 思わず手を伸ばしたい衝動に駆られて、慌てて両手を組み合わせる。


「なに? どうしたの?」

「ねぇ、ミスティ、これどう思う?」


 私が疑惑の乳液をミスティに手渡せば、陶器製の蓋を開けて鼻を近づけて眉を寄せる。


「これ……どこで手に入れた?」

「どこでって、いつもと変わらない品物のはずなんだけど。やっぱり、何か混ざっているわよね」


 ミスティが難しい顔をしている。


「よくわかったな……シュシュラの油が混ざってる。だいぶ濃いな」

「それって、鉛とか毒とか、そういうもの?」


 昔、化粧品の色付けに毒になる鉱物の粉が入っていて中毒を起こしたという話は知っている。

 しかし、今の時代にそんな粗悪な品が流通しているはずはない――誰かが意図をもって作り出さない限りは。


「いや、シュシュラっていうのは魚の油だよ。金属ならもっと分かりやすい匂いがするけどな」

「魚? 何でそんなものが」

「シュシュラっていう魚は食用じゃない。油にする以外は使いようのない魚でさ。海が無いこの国では容易には手に入らないはずなんだけどな。シュシュラの油は乾くのに時間がかかるけど、油の臭いが薄いから注文によっては絵具に混ぜて使われる」

「油絵に使うのね。初めて聞いたわ。もしこれ、気が付かないで使っていたらどうなっていたの?」

「命に別条はないけど、かぶれる。赤く腫れるから、絵描きだってこれを使う時は手袋をする。魚の肉は美味いらしいけど、うっかり食べたら口の周りが爛れるから、地元の漁師は絶対に食べないで油にして商人に売るって聞いた。それで化粧品を作るなんておかしなことを考えるやつはいないと思うけどね」


 嫌な予感はどんどん確信に変わる。

 どうやら、私を害したい何者かによって作られたもののようだ。

 諦めにも似たため息がもれる。


「それじゃ、間違いで混ぜられたものではないのね……」

「クララベルの顔を醜くしたい愉快犯がいるようだな。それで、これ誰が交換したの?」

「わからないわ、朝に掃除に来た者が替えたのかしら?」

「女官に訊いてまいります」


 私の使うものは女官が必ず異常が無いか確かめる。

 ただ、このクリームは女官が確かめたところで異常が分からなかったと思う。

 私が竜でなかったら、とても気がつかなかっただろう。

 

 収穫もなく帰ってきたレトと顔を見合わせる。


「こういうのも久しぶりね」

「久しく合いませんでしたね」


 こういうのは巧妙で、なかなか犯人を割り出せないことが多い。


「これはバロッキーを通して仕入れたものではないわよね。だって、竜が確認すればすぐに分かるのでしょう?」

「どうだろう、シュシュラの油が入っているかどうかなんて、分家の者が確認してもわからないかもしれない」

 

 私に起きるこういったことは大事にされないことが多い。

 レトも腕を組んで首を傾げている。


「どうやって持ち込まれたのでしょう。いつもと変わりないところから仕入れていたようですが」

「レト、一応出所を探してちょうだい。仕入れ先にも聞いた方がいいかもね」


 私が邪魔だと思われていたのは、バロッキーとの婚姻が決まる前までだったはずだ。今更、また自分が狙われるとは思わなかった。


「今日はもう寝ましょう」


 疲れてしまってミスティに寄り掛かると、当たり前のようにぎゅっと抱き寄せられる。

 

 こんな夜は、今までに何度もあった。

 でも、そんなに怖いとは思わない夜は初めてだ。


「結婚て便利ね……」

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