第2話 昭島の歴史

 神尾は昭島の歴史について説明してくれた。

 952年、洪水により多摩川上流の日原村の日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が玉川花井の島(大神の中州)に流れ着き、打ち上げられた尊像は村人らに拝まれるようになり、村人らは後にお堂を建てて坐像を安置した。そのため、この地域に拝島という地名が起こった。その後、滝山城(現・八王子市)築城時に、滝山城の鬼門よけとなる現在の位置に大日堂を遷し、坐像を祀った。

 時は流れ、1521年に多摩川対岸に滝山城が築城されると、城下町としての様相を呈してきた。1569年には武田信玄軍が拝島大師に陣を構え、武田勝頼らにより滝山城の北条氏照を攻撃した。

 文禄年間に奥多摩街道と日光脇往還が交差するところに拝島宿が形成された。1652年より八王子千人同心が日光勤番の任務をする際に、拝島の渡しを通り往来をしていたため、拝島宿は人馬の継ぎたて役となり、次第に宿場町として栄えてきた。

 1685年には、多摩川右岸にあった作目村が洪水で流失し、村民が対岸の田中村(現在の田中町)付近に避難し、定着した。

 文政改革期、拝島宿周辺に寄場組合村が結成され、拝島は近隣地域の組合村の親村として機能していた。

 1811年、多摩川の洪水により築地村が全村流出。


 1866年6月、名栗村(現・飯能市)などで蜂起した武州世直し一揆の支隊が多摩川の河原に集結し、築地の渡しで日野農兵隊と交戦となったが、一揆は鎮圧された。


 この地域では明治時代末より製糸工場が相次いで操業を開始し、また大正時代に入ると市域一帯に桑が植えられるなど、養蚕業が特に盛んであった。当時この地域は蚕種(カイコの卵)の生産を中心として、東京府内の生産高の3割近くを占め、全国的に見てもかなりの規模を誇る養蚕村となっていた。しかし昭和時代に入ると、生糸価格が急激に下落していったために養蚕農家の戸数は減少し、この地域で養蚕業はほとんど行われなくなった。


 1922年に設置された立川飛行場が1933年に陸軍専用になったことを受け、立川飛行場に近かったこの地域は、航空機製造などの大規模な軍需工場が建設されるようになった。1938年に名古屋陸軍造兵廠の発動機・起動機部隊が立川に移転し、陸軍航空工廠が開設すると、合わせて大規模な従業員住宅建設が行われることとなった。特に近代化された八清住宅周辺では市場や映画館などが作られて商業が活性化し、繁華街が形成されることとなった。


 戦後は都心への通勤圏として近郊住宅地が発展し、大型団地建設などで人口がさらに増加し、ベッドタウンとなった。また、1957年に制定された工場誘致条例によって工業団地が造成され、近年では電子機器などのハイテク産業が発展した。


「それでは私はこれで」

 神尾は立ち去った。

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