手のひらを太陽に

文月あや

手のひらを太陽に

「てのひらをたいように すかしてみれば」

 私たちの庭でサナが歌っている。小さな両手を日にかざして。

「まっかにながれる ぼくのちーしーお」

 そこまで歌って、華奢な頚を傾げて私の方へ走ってきた。

「ユキちゃん、ちしおって何?」

「血潮っていうのはね、血ってことよ」

「ち? サナ、よくわからない」

 小さな手を引いて、彼女の薄い手の甲に透ける緑色の血管をなぞる。

「そうね、サナにはまだ難しいね」


 私たちの家には、他所の家にはないようなものが二つある。

 血液バッグの保存用の冷凍庫、それを繋げる〈ボタン〉を右胸に隠している私。

 朝起きてコーヒーメーカーを仕掛けたら、その特別な冷凍庫から緑色の血液バッグを取り出し湯煎するのが私の日課だ。さながらジェノベーゼのパスタソースを解凍するかのように、血液バッグ用の湯煎機をキッチンのコンセントに繋いで三十七度に解凍すること十二分。

 コーヒーができるころに、夫のタカシが起きてくる。

「おはよう」

 タカシは湯煎機と同じコンセントにトースターを繋いでパンを焼く。

 そのころには血液は体温と同じに解凍されていて、私は右胸のボタンに針を刺して点滴ラインとつなげて緑色を体内に入れる。

 三十七度の緑色の血液は私の中心静脈からじわじわと心臓に染み出し、どす黒い静脈血と混ざり合いながら体をめぐり、私の肺から呼気となって甦る。

 食卓には食パンとバター、そして私の呼気から染み出る焼きトウモロコシの香りが漂う。

 タカシが出勤し食卓からすっかりトウモロコシの香りが換気されたことを確認して、二階のサナを起こしに行く。

 ハンガーラックに掛けてあった点滴ラインはとうに廃棄し、湯煎機は調理器具の一種のように行儀よくキッチンに収まっている。ボタンは私の右胸で、まるで乳房を隠すように密やかに仕舞われている。

 これが、私たちの家の風景だ。


「ユキ。サナがもう少し早く起きるようになったら、どうするつもり」

「どうするって、何が」

「輸血をする様子を見せるのかってこと」

 会社から帰ってきたタカシが背中を向けたまま私に問いかける。

「小さいときは何度か見せてたけど、怖がってたから辞めた」

「これからも見せないの」

「朝早く起きるなら、夜にやるよ」

「……そうやっていつまで隠しておくつもり」

 クローゼットの鏡越しに合うタカシの視線には特に棘はないはずなのに、それにうしろめたさを感じるとしたら、私の気持ちの問題なのだ。



 十九のとき、成長期などとうに終わっているはずなのに、太ももの骨がひどく痛んだ。それも両方の足。生理用の痛み止めを飲んでものたうち回るくらいの痛みに、半狂乱になりながら近くの内科に行った。疑い深い顔で採血をした医師から、翌日慌てたように電話が来た。今すぐ大きな病院を受診するように、と。

「急性リンパ性白血病です」

 主治医は、むしろ意外なほどに晴れやかな表情でそう語った。

「この時代に生まれていてラッキーですよ。今の時代は効果的な治療法の選択肢がたくさんあります」

 そんなセール時期の家電屋さんみたいなセールストークをされても。というかこの時代に生まれてない私って私なのか。私じゃないんじゃないか。そしたらそもそも病気になんかならなかったんじゃないか。

 そんなことばかり考えていたら、あれよあれよという間に胸に中心静脈ポートを埋め込まれて(痛かった)、毎日毎日点滴をされては採血をされる日々が始まった。

 といっても、これまた意外なことに無菌室は古いドラマで見たようなビニールカーテンのかかった部屋ではなくて、少し音がうるさい換気システムがついただけのただの病室だった。

 大学のサークルが一緒で、当時から交際をしていたタカシは、時々面会に来た。碌に話もせずに、タカシのオススメの、自分一人では絶対読まないような漫画を一つの画面でむさぼるように読んだ。

 タカシは病気については何も聞いてこなかった。ある一点を除いては。

「これ、痛くないの?」

 ある日いつものように漫画を読んでいると、個室なのを良いことに、タカシが私の胸元に手を突っ込んでボタンの周りをまさぐった。右の乳首に手が当たったくせに、気づかないふりをしていたのが可笑しかった。

「別に、痛くない」

「なら、よかった」

 痛いか痛くないか。タカシが聞いてくるのは後にも先にもそれだけだ。

 

 普通の抗がん剤を使っても私の白血球はビクともしなくて、二十歳の誕生日を迎えても私はまだ病院にいた。

「お話があります」

 例の主治医が、今度は少し渋い顔で現れた。

 私のリンパ球を体外に取り出してどこかの国の製薬会社に送り、「がん細胞を攻撃するトゲ」を生やしてもらう話を聞かされた。

「トゲが生えたユキさんのリンパ球は、貴方の体中の白血病細胞を殺して回ります。この十年で確立された、最新の治療法です」

 嫌だと断れる気力も知識も持ち合わせていなかった。何枚にもわたる同意書を読み、頭が痛くなって投げやりにサインした。

 そこから十年、私は毎日自分のリンパ球を体内に注いでいる。

 緑は、特別に強化されたリンパ球の色、サイボーグの証。焼きトウモロコシは、リンパ球を保存するための混ぜ物の匂い。

 毎朝解凍されるトゲ付きのリンパ球は、私の体を一巡して、私のどこかの細胞の裏に潜んでいるがん細胞を攻撃する。



 トウモロコシを換気して、二階のサナを起こしに行く。階段を上ると、寝室から唸るような声が聞こえた。

「サナ?」

 常より勢いよくドアを押し開けると、布団の上でサナが白目を剥いてガタガタと震えていた。

 舌を嚙みちぎりそうな勢いに思わず自分の指を咥えさせると、人差し指がガリっと噛まれて血が出た。指を咥えさせたままサナを小脇に抱えて携帯端末のもとへと走る。

 救急車は流れるように私たちの家までやってきて、跳ぶように病院に到達する。車内で痙攣が収まったサナは、私の胸にすがって泣いていた。

 救急外来につくなりサナはバスタオルでぐるぐる巻きにされた。

「点滴と採血をします。お子さんはお預かりするんで、お母さんは席を外してください」

 泣き叫ぶサナを後目に待合室に戻ると、

「お母さん、血が出てますよ」

 看護師が、私に白い三角巾を手渡した。

「いえ、お構いなく」

 サナに噛まれた右手の人差し指をズボンでこすった。

 しばらくして小児科医が柔和な笑みを浮かべてやってきた。

「サナちゃんの母子手帳はお持ちですか?」

 私は携帯端末から母子手帳を起動、病院の端末に転送する。

「では、念のため今晩は入院になります。お母さまも付き添いの入院をお願いしますね」

 小児病棟では、かつての私の病棟のような換気の音はしなかった。

 病室の入り口には、サナの名前の下に「リカ」と書かれたネームプレートが掛けられる。

 私の姉の名前だ。



『私、妊娠できなくなるんだって』

 あの夜、カーテンを閉めきった個室で、一人布団の中でタカシにメールを打った。

『リンパ球にトゲをつけると、妊娠にどんな影響があるか科学的に証明されていないからって』

『そんなの証明してから人間に使いなよって思わない? 私、実験動物じゃないのに』

 まくし立てるように連続でメールを打つと、すぐに返事が返ってきた。

『そのリンパ球を入れるのって痛いのかな』

『またタカシはそういうことばっかり』

『ユキが痛くないか、生きてられるかが一番大事だと思ってる』

 少しの間があって送られてきたメールに、視界が滲んだ。

 まだ二十歳だった。妊娠も、出産も先のことだと思っていた。

『私だって、そう思うよ』

 選択肢が多いのはつらい。人生は選ぶとも選ばずとも進んでいくものだと思っていた。

 緑色のリンパ球がはじめて空送されてきたころに、タカシから指輪をもらった。

「もっといいヤツ、いつかちゃんと買うから」

 ゴールドの輪に小さい赤い石がついていたその指輪は、どんな値段だか全然わからなかったけど、タカシの神妙な顔がちょっと笑えた。

 初めて入れる緑色は、少し胸が痛んだ。



 病室のベッドでサナの横に寝そべり、熱が徐々に下がってきた小さな頭をなでる。

 小さな右手の甲には針が刺さっていて、毎朝の私のように点滴のボトルにつながっている。細い針からポタ、ポタと透明な液体が垂れてはサナの血管に流れていく。

 もしも、私がサナを産んでいたら。

 サナを姉から預かってから、何度も考えたことだ。

 私のお腹が膨らんで、サナが羊水に浮いている様子を思い浮かべる。サナのお腹から出た臍の緒が、私の胎盤につながる。サナの青い静脈が──本には静脈は青色で描かれていたのだ──胎盤に網目状に広がっていく。

 私の緑色をした血液がサナの青い血液を囲い込み、酸素が送られ老廃物が回収される。

 私のトゲのついたリンパ球が、サナの血管を傷つけるだろうか。サナの血管は胎盤から抜け落ちてしまうだろうか。私の想像は、いつもそこで止まってしまう。私も、できることならサナと混じりあいたかった。


 サナの左手の甲をなでていると、サナがむずがる。

「サナ、起きた?」

 サナは瞼を眠そうにこすってから、その大きな瞳を見開く。点滴が入っている右手を眼前で動かして、顔をゆがませた。

「ほら、もう痛くないでしょ」

 点滴を撫でると、サナは大きく首を横に振り、私の胸元に抱き着いた。

「サナ、痛かった」

「痛かったね。点滴、よく頑張ってたよ」

 背中をたたいてやると、小さな頭を私の右肩に押し付け、私のボタンをなぞる。

「ユキちゃんも、痛いでしょう」

 思わず顔を覗き込むと、サナは泣きたいような、笑いたいようなチグハグな顔をしていた。

「サナ、ユキちゃんとおんなじになったね」


 点滴を抜いてもらい病院から出ると、もう日が高く昇っていた。

 あの日のサナを真似して、私も手を太陽にかざす。どんなに緑色に染まった私の血液も、日の光の元では黒い流れでしかない。ふとズボンを見下ろせば、乱暴に拭った血液の染みは、すでに黒く変色していた。

 すっかり眠りこけてしまったサナを背に負って、二人で私たちの家へ歩き始めた。

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手のひらを太陽に 文月あや @fudukiaya

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