「我思う、故に我有り」と云うこと

Black History

第1話 随筆と云うにはあまりに難く、評論と云うにはあまりに稚拙である。

「我思う、故に我有り」

昨今の多文化主義、多民族主義、ダイバーシティの促進、その根底にはこの言葉があるように思われる。

時流に掉さすこの言葉の意味を、多分皆様は特権的自己の保証とみているだろう。

しかし、僕が思うにそれは違う。

これには理由がもちろんある。






そもそも他者とは何だろうか。

それは自己に対立するものである。

では、自己とは何だろうか。

それは自己に同調するものである。

ここからも分かるように他人と他者は違う。

だが、ここで思い出してほしい。

我々はコギトをダイバーシティの促進の根底に置いているのだ。

つまり、ダイバーシティの促進という、本来は自己の中に含まれることができた些細な差異を絶対化するという行為の根底にコギトを置いたのだ。

ということは、我々はコギトの及ぶ範囲を無意識的に自己の中の自分へと限定しているのだ。

これすなわち、我々は自分がいかにして保証されるかという、いわばアイデンティティの向上へと問題が移っている。

アイデンティティの向上、それを目指す世界では他者などという言葉は必要ない。

なぜなら自分以外皆敵だと切り捨てるからである。

そして、他者と自己という概念を離れ赤裸々になった自分という存在は、絶え間ない個性埋没という魔の手から逃れるようにコギトに安息を求める。

コギトは一見、客観性を持って主観性を保証するという点で強力なよすがのように思えるのである。






ここで他人について考えてみよう。

一体我々は何に対して他人と言うのか。

端的に言えば、過程が分からないものに対してであろう。

例えば、ある人がAという事象からDという結果を出したとする。

これは、もちろん自分であればAからBになり、そしてCになってDになると分かる。

しかし、他人であったらどうか。

AからDになったことは分かるが、いったいCが先か、それとも自分と同じくBが先かがわからないのである。

確かに推察はできよう。

しかし、本当にそうかは分からないのである。

それが、自分にしかわからない「思う」ということである。







自分を構成するものと言ったら、この体と感情と、そして思うことだろう。

まず、体について話そう。

と言ってもこれは端的に終わる。

我々は確かに体を操っている。

しかし、その仕方は分からない。

どのくらいホルモンを出して、どのくらい電気を流せばどうなるのかなど到底わかった物じゃない。

だから他人と言えよう。







次に感情だ。

確かに我々は悲しいことがあったら悲しいと感じるし、楽しいことがあったら楽しいと感じる。

それを把握している。

しかし、それは果たして本当に正しいものなのだろうか。

実はそれは経験に基づく推量によるものなのだ。

我々の感情は我々が操作しているわけではない。

むしろ、操作されてさえいるだろう。

しかし、やはり感情はたまに考えと対立することがあるので、完璧な操作ではない。

そう、つまり感情でさえ言ってしまえば他人なのだ。

だから感情に左右される好き嫌いなどは「我思う、故に我あり」というよすがを得られないのだ。






ここまで来て、思うことのみとなった。

しかし、思うこととは先述したとおり、過程の一切が分かるものだ。

そう、デカルトが言った「我思う、故に我あり」の「我」とは思うことだったのだ。

つまり、ダイバーシティの促進の弊害である個性の埋没から逃れるための、コギトは何の拠り所でもなかったのである。

「我思う、故に我有り」とは「思うこと」しか保証しない。

しかし、僕が思うにダイバーシティの促進はいいことだと思うので続けてほしい。

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