第85話 研究所のアシスタントのお仕事

 カタカタカタカタ。研究所のイメージに似合わぬ、暖色系の色合いの壁に囲まれた一室で俺はPCに向かってデータを打ち込んでいた。


「これ、Proof of Conceptらしいですけどよく出来てますよね」


 バイトの俺を雇ってくれた上司がいる右側の席に聞こえるように語りかける。Proof of Conceptというのは日本語で概念実証がいねんじっしょうと呼ぶこともあり、研究用に最低限の機能を持ったプログラムのことを指す。といっても俺自身、ここでバイトするようになってから初めて知ったことなんだけど。


「いやあ。デモをするにはいいけど、学会に論文として出すには全然だよ。それにプログラムだけだと論文にはならないからね」


 上司であり情報技術総合研究所の主任研究員という大層な肩書を持っている一杉洋二いちすぎようじさんは謙遜けんそんする。大学の教授をみていると研究者は服装や身綺麗さに無頓着な人が多いなというイメージがあったけど、一杉さんはジャケットを格好良く着込んだイケメンな男性だ。年齢は30代後半じゃないかと踏んでいる。


「そうなんですか?研究の世界は奥が深いですね」


 目の前にあるのは一杉さんが指揮して開発した教育用プログラミング環境「JustDoItジャストドゥーイット」。最近、一杉さんが所属している学会ではプログラミング環境についての研究が盛んらしい。


「ところで、Scratchに比べるとキーボードで操作しやすいですね」


 Scratchスクラッチは今や世界中で使われている教育用プログラミング環境だ。聞いたところによると小学校や中学・高校でも使っているところがあるらしい。そのScratchを俺も以前試したところがあるのだけど、マウスでの複雑な操作が必要なところがまどろっこしいと感じていた。


「そう。そうなんだよ。Scratchもなかなかいいのだけど、アレはマウスでの操作が前提になっているし、ブロックの操作が難しいから複雑なプログラミングをするには向いていないという欠点があるというのが僕の持論で、それを解決するために作っているのがJustDoItというわけさ」


 一杉さんが言うようにJustDoItはScratchほど初心者向けじゃないけどキーボードでサクサク書けるようになっていてタッチタイピングが出来る人間にはこちらの方がいいかもしれない。


「なるほど。でも、素人のいい加減な意見なんですが、教育用なら少し難しいような気が……。本格的に使うならCやJavaなんかが既にあると思うのですが。あ、もちろん専門家の一杉さんなら当然考えていますよね」


 出過ぎたことを言っただろうかと慌てて口をつぐむ。


「いやいや。バイトを始めてもらうときにも言ったけど思ったことは遠慮なく言ってくれた方が嬉しい。結局、論文で出すときには厳しい評価を受けるから早い内に適切なフィードバックをくれた方がよっぽど嬉しいよ」


 一杉さんはこういう風に、バイトを始めたばかりの俺にもかなり気を遣ってくれている。始めるときこそ緊張もしたものの、この人が面倒を見てくれているおかげでリラックスして作業できている。


「そうだといいんですけどね。俺みたいな素人の意見だと役に立つのか時々不安になるんですよ」


 あくまで俺はただの大学一年生。百合みたいな異能とも言える能力があれば別だけど、全般的には平均より多少できるくらいでしかない。


「いやいや。僕は色々大学生もみてきているけどね。一年で池波君みたいに優秀な学生は珍しいよ。バイトの面接でも即決で採用を決めたくらいだよ」


(お世辞、お世辞)


 そう思うけど褒められて悪い気はしない。


「とにかく、池波君の、キーボードを使うなら本格的な言語の方がいいんじゃないかっていうのは僕も悩んでいるところなんだよ。ScratchとCやJavaみたいな言語の橋渡しが出来るようなものを考えているのだけど、この歳になると逆に初心者の気持ちがわからなくなるからね。本当に助かるよ」


 情報技術総合研究所のバイトは、このように一杉さんが研究で作ったものを試しに使ってみたり、論文らしき紙の束をぽんと渡されて感想を言ったりするみたいな仕事が多い。不安もあるけど、一線でやっている研究者の下でバイトが出来るのは楽しくもある。


「ちょっとプライベートな話なんですけど、少し聞いてもいいですか?」

「うん?僕に答えられるなら何でも」

「一杉さんはご結婚されていましたよね。知っての通り、俺も学生結婚しているんですが、最近デートスポットを行き尽くしたような感じがあるんですよ。一応、所帯持ちの先輩として良いところを知ってたら教えてもらえないかなと」


 一杉さんは一回り程も歳が違うけど気さくな人で、こういうちょっとした相談をすることもある。


「また池波君も難しいことを聞くね……」

「やっぱり難しいですよね」

「僕も職業柄、インドアな方で妻はどっちかというとアウトドア派だから妻を我慢させてるんじゃないかとよく悩むことがあるんだよ。池波君の奥さんはアウトドアが好きな方かい?」


 百合がインドア派かアウトドア派か……。ゲームが好きな部分はインドア派とも言えるし、花火大会みたいなイベントが好きなのはアウトドア派とも言える。


「正直、どっちでも行ける口です。俺がどっちかというとアウトドア派よりもインドア派なところがありますけどね」

「ふむ。近場に最近、VR体験施設がオープンしたのを知っているかい?」

「いえ。初耳ですね」


 VR施設か……好奇心旺盛な百合にもぴったりかもしれない。


「妻を連れてったんだけど好評だったよ。奥さんが好きそうなら結構ありだね」

「ありがとうございます。リンク送ってもらえますか?」

「もちろん。それにしても、新婚さんしてるねえ」


 何やら急に生暖かい目線で見つめてくる上司さん。


「どういう意味ですか?」

「いや、池波君は奥さんのことが本当に好きなんだね。好きなデートスポットを考えて僕にまで相談してくる程だし」

「う……ま、まあ好きなのは確かです」


 優たちならともかく、大人って感じの人にそう言われると照れる。


「照れなくてもいいじゃないか。新婚さんはそれくらいの方がいいよ。と、そろそろ18時だね。帰らなくていいのかい?」


 確かに時計を確認するともう18時だ。バイトはいつも17時30分までだから話し込んでいて30分オーバーしていたようだ。


「あ。ならお先に失礼します。30分の分は俺が勝手にオーバーしただけなので……」


 気にしないでください、と言おうとしたのだけど。


「いやいや。さすがにそこはちゃんとつけといてね。バイトでも無給で働かせてたなんてことになったら、かえってややこしいから」

「そういうものですか。俺が辞退する分にはいいと思ってたんですが」

「研究所の正社員も残業抑制とか有給をしっかり取るようにって上からもお達しが来てるしね。バイトならなおさらだよ。といっても、研究者なんてのは家に居ても研究してるような人種が多いから、家で気がついたら研究のことを考えてることも多いけどね」

「研究者って大変なんですね」

「国からの予算も削減されてるからね。でも、承知の上で選んだ道だからね。後悔はしていないよ」


 そんな会話を交わして研究所を後にした俺。自宅までは自転車を走らせて30分といったところで多少遠いけど通えなくもない。そんな距離だ。


(奥さんのことが本当に好きなんだね)


 一杉さんの言葉を思い出しながらすっかり暗くなった道路を自転車でひた走る。


(考えてみると結婚してから百合のことを考える時間が増えたかもしれない)


 こうしてあげればアイツは喜んでくれるだろうかとか。そんなことをふとした時に考えてしまう。


(と、帰る連絡をしとかないと)


 自転車を停めてからスマホを取り出す。


【さっきバイト終わって今帰ってる途中】


 返事はすぐだった。


【寒いだろうし、先にお風呂沸かしておくね】

【サンキュ。助かるよ】


 こんなやり取りをすることも最近は普通になってきた。


(百合も色々変わってきてるんだよな)


 こんな気遣いだって結婚してから……新婚旅行から帰ってきてからの変化だ。

 

(きっと帰ったら玄関で待ってるんだろうな)


 理想的な「お嫁さん」を実践しようとあれこれ考えている百合。

 最近は、帰宅の連絡をすると玄関で待ってくれていることも多い。


(あー、ニヤついてる俺も俺だな)


 益々百合が可愛くなってる。いや、それだけじゃなくて甲斐甲斐しくもなってる。

 そんなことを素で思うようになってしまっている。


 百合のことを考えながら自転車を走らせているとあっという間に自宅前。

 自転車を停めて、いつものように玄関の扉を開けると、


「お帰りなさい。旦那様?」


 何故か、今日は三つ指ついてそんな挨拶をしてきたのだった。


「また変なもんに影響を受けただろ」

「結婚もののお話であったからちょっと真似してみたんだけど、どう?」

「悔しいけど……可愛い」

「やった♪」


 百合なりのちょっとした悪戯だけど可愛すぎる。


「あ。お風呂沸かしてあるから夕ご飯の前に入ってね」

「りょーかい」

「それと、着てるコート、クリーニングに出しちゃいたいから」

「ほい」


 そこまでしなくても……とは思うけど。

 でも、百合はこういうことに憧れがあるのだ。


「ふふーん……すんすん」


 と思ったら何やらコートの匂いを嗅ぎ始めた。


「何匂い嗅いでるんだよ」

「んー。修ちゃんの体臭だなって」

「体臭って……言い方!」

「冗談だよ。でも、匂いは嫌いじゃないよ?」

「それはそれで百合が匂いフェチになったみたいで複雑だけど」

「もう。細かいことを気にする旦那様だなあ」


 はあ。ま、寸劇はこれくらいにして。


「ただいま、百合」


 たまには俺からと、ぎゅっと愛しい伴侶を抱きしめたのだった。


「なんか新婚さんしてるよね、私たち」

「だな」


 抱き合いながら言い合う俺たち。


(バカ夫婦って言われても否定できないな)


 百合だけじゃなくて俺自身も。

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