第84話 家庭教師のお仕事

 11月に入って、夕方になるとだいぶ寒くなってくる今日この頃。

 私は十畳程もある大きめな個室の、なにやら高級そうな木製の椅子に座って、教え子である春日雪かすがゆきちゃんが問題を解いている様をじっと見つめていた。


「出来ました!これでうまく解けてますか?」


 やっと出来たーと両手を上げて伸びをする姿になんだか微笑ましくなる。

 そして、雪ちゃんの回答はというと……うん、ちゃんと解けてる。


「うんうん。ちゃんと数学的帰納法を飲み込めてるね。基底段階も帰納段階も問題なし。最後の問題で一箇所だけケアレスミスがあるけど、このくらいはよくあるしね。雪ちゃんは飲み込みやっぱり早いね」


 数Bの中でも数学的帰納法は高校時代、同じクラスの子もよく詰まっていた箇所なので、スムーズに解けるのは感心する。


「もう。いっつもそうやって褒めるんですから。おだてて伸ばそうって言う方針なのかもしれませんけど、ちょっと照れますよ」


 最初に会ったときは開けっ広げな子だなって思ったけど、教える側の教育方針までわざわざ考えてる辺り、利発な子なんだろう。それに、数学的帰納法の重要な箇所を直感的に理解している辺りも、単なる暗記力だけに留まらない頭の良さがわかる。


「私はそこまで深く考えてないよ。変なお世辞を言っても雪ちゃんみたいな賢い子は見抜いちゃうしね。だから、これは教える側の素朴な本音だよ」


 確かに雪ちゃんが言うように、とにかく良いところを見つけて褒めることで伸ばすという方針の先生だって多いんだろう。でも、私は単なる大学生だから、そこまで器用じゃない。単純に褒めるべきところを褒めているだけのつもり。


「百合先生ってやっぱりちょっと独特ですよね。なんて言っていいのかよくわからないですけど、何かをじっと観察してるっていえばいいんでしょうか。確かにお世辞って言われる方は露骨にわかったりするものですけど……ちょっと不思議です」


 じっと私を見つめる二つ年下の女の子も人のことは言えないと思うけど。


「不思議って……まあいいか。とにかく、とりあえず今日はこれで終わり!宿題は後でメールで送っておくから見ておいてね」


 雪ちゃんはパソコンも得意なので、宿題のプリントは印刷するのじゃなくて、私が文書作成ソフトで作ったものをメールで送る方式でやっている。教材も電子書籍と私が独自に作ったものの合わせ技なので、この子の家に分厚い紙の束を持ってこなくて良くて助かっている。高校では教科書かプリントアウトした資料が圧倒的だったけど、こっちの方が無駄がなくていい。


「はい!じゃあ、私はお茶を入れてきますね。百合先生は紅茶とコーヒー、どっちにしますか?」


 立ち上がって部屋から出ていく前に振り向いてそんなことを聞いてくる雪ちゃん。


「いつもの通り紅茶でお願いしていいかな?」


 コーヒーの苦味は大丈夫なのだけど、酸味は少しだけ苦手。

 だから、雪ちゃんからの問いかけにはいつもこう返すのだ。


「はい。じゃあ、少し待っててくださいね」


 教えてもらう立場だからだろうか。もう学校は終わっているのに冬用のセーラー服を着た少女はトン、トン、と軽やかな音を立てて一階に降りていく。


(なんていうか、お嬢様って感じだよね)


 大事に育てられたんだろうな。そんな人の良さが滲み出ていると雪ちゃんと接していてよく思う。初対面でコンドームのことを聞かれたときはびっくりしたものだけど、それも初めての彼氏さんで色々考えてしまった故なんだろう。


 マンツーマンの授業が終わった後、決まって30分くらいはお茶をしながら雪ちゃんとちょっとした雑談をするのが家庭教師としての日課。それで、今日の話題はといえば。


「彼氏の……白兎はくと君のことなんですが、ちょっと相談聞いてもらっていいですか?」

 

 雪ちゃんの彼氏さんは白兎はくと君と言うらしい。小学校の頃に彼が転校して来て以来の付き合いで、今年になって彼女から勇気を出して告白したところ、彼の方もOKだったとか。


「もちろん、いくらでも聞くよ。ひょっとして喧嘩でもした?」


 交際を始めて数ヶ月も経っていないわけだから、きっと色々あるだろうとそんな見当をつけたのだけど。


「喧嘩なんてぜんっぜんないですよ。昔から白兎君は優しくしてくれますし、デート先だって私の行きたいところちゃんと考えてくれてます。いつも大事にされてるなーって思っちゃいますよ」


 えーと。


惚気のろけ?雪ちゃんが話したいのなら別にいいけど……」


 優ちゃんに惚気惚気とよく言われる私だけど、実際に言われる立場になるとなんていうか胸焼けがするというのが率直な感想。という私も修ちゃんに大事にされてるなーっていつも思っちゃうのだけど。


「惚気とはちょっと違ってですね……。いつも私の希望を優先してくれるから嬉しくて考えなかったんですけど、白兎君の行きたいところってあんまり聞いてなかったなって最近反省したんです。でも「行きたいところ、どこかある?」って聞いてみても、雪ちゃんが行きたいところが僕の行きたいところだよ。って言って、あんまり希望を言ってくれないんです。私ばっかりが我儘言ってるみたいで何か嫌なんですけど、いい方法ないでしょうか」

「……」

 

 それを聞いて私は少し考え込んでしまった。白兎君ほどじゃないにしても、修ちゃんも私の希望を優先してくれるところがあるから、同じようなことを考えたことはあったりするのだ。


 ただ、修ちゃんは単に気を遣ってるのじゃなくて、私の我儘に付き合うのも嬉しいらしくて、だから難しいのだけど。


「うーん。白兎君がどんな人か私は知らないけど、なかなか難しいね……」

「結婚してる百合先生でも、ですか?」

「修ちゃんも私の希望を優先しちゃう方だから、意外に自分の行きたいところ言ってくれないところがあるんだよね。最近はそれもちょっと変わってきたのかなって思うけど」


 今年の花火大会の時を思い出す。花火大会は長丁場だから、暑いのが苦手な自分に気を遣わせるのも、と言っていた。ただ、もう夫婦だから変に気を遣っても仕方がないと思ったと。


「変わった、っていうのは?修二さんが行きたいところ言ってくれたってことですよね。きっかけがあるなら聞きたいです」


 そんな問いを発する雪ちゃんの目は真剣で、声色も真面目そのもの。


(本当に彼氏さんのことが大事なんだろうな)


 でも、彼女の場合はどうすればいいんだろう?


「そういえば、雪ちゃんは彼氏さんにちゃんと言ってみた?」

「もちろんです。でも、行きたいところを聞いても言ってくれないから悩んでるんですよ……」

「そうじゃなくて。行きたいところを言ってくれないのが寂しいってちゃんと伝えてみた?」


 たぶんだけど、彼氏さんだって雪ちゃんを喜ばせたい一心なんだろう。そんなところに「行きたいところがない?」って聞いても、逆に彼の方も相手に気を遣わせていると思って遠慮してしまうに違いない。


「それは……言われてみればなかったです。言われて初めて白兎君が希望を言ってくれないのが寂しいんだって気づいた感じです」

「自分が何を思っているかなんて、案外自分でもわかってなかったりするからね。一度、その気持ちを伝えてみたらどうかな?」


 なんて偉そうなことを言う私だけど、今だって全然出来ているとは思わない。


「そうですね。ちゃんと伝えてみます!でも、やっぱり大学生になると違うんですね。ちゃんとそんなところまで考えてるの尊敬します」

「私もまだまだだけどね。でも、役に立てたのなら良かった」

「すっごく役に立ちましたよー。彼氏の悩みって友達だってあるんですけど、私みたいな悩みは意外に少ないみたいで困ってたんですよ。でも、本当にいい旦那様なんですね」


 え?今の流れでなんでそうなるの?


「だって、さっきも修二さんのことを思い出しながら話してたじゃないですか。花火大会のこととか。すっごく大好きなんだなーって聞いてるだけで伝わってきましたよ」

「……それはそうだけど、ね」

「やっぱり羨ましいです」


 付き合いの深い優ちゃんに茶化されるのならともかく。ちょっと年下の子にそういう目で見られるのはなんだか照れくさくてむずむずしてしまう。


「じゃあ、そろそろ帰るから。雪ちゃんも夜更かししないようにね?」

「百合先生はよく夜更かししてるじゃないですか。深夜にLINEしてもよく返事返って来ますし」

「それとこれとは別。やっぱり夜更かしは健康に良くないから」

「じゃあ、そういうことにしておいてあげます」


 そんな風に教え子にドヤ顔をされて、とても微妙な気持ちになりながら、夜道を自転車を走らせて家路にづいた私だったけど。


「ただいまー。ちょっと疲れたかも」


 なんだかんだと言って教えるのは普段と違う頭を使う。玄関の扉を開けてそんな弱音を吐いてみれば、


「お疲れ。寒いだろうしお風呂入れてあるぞ」


 玄関の内側で出迎えてくれる旦那様。

 さっきLINEで送った【家庭教師終わったから、帰るね】

 を見てくれてたんだろう。


「ありがと。大好き」


 寒くなって来た夜にちょっとした心遣いが嬉しくて、心の赴くままにぎゅっと旦那様に抱きついて頭をこすりつけてみると。


「これくらいで言われるとちょっと照れるんだけどな」

「嬉しいんだから受け取って?」

「うん。まあ、気持ちはわかってる」


 髪をポリポリと掻く旦那様はやっぱりちょっと可愛らしくて。

 

(やっぱり大好き)


 そんな気持ちに浸るのだった。

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