第3話【夕暮れ交差点】
覚束ない足取りで鬼灯が向かった先は、夕陽に染まる旧校舎だった。
ほとんど何も考えていなかった。
考えていたくなかった。
どうしてあんな重要な事故を忘れていたのだろう。
鬼灯はあの凄惨な現場を目の前で見ていたのに、その記憶が丸ごと書き換えられていた。すっぽりと忘れていたのだ。
旧校舎の扉を開けて、埃っぽい校舎内へと足を踏み入れる。
ぎぃー、ぱたん。
ぎぃ、ぎぃ。
ぎしっ、ぎぃ。
腐りかけた床板が軋む。
ぎぃ、ぎしっ。
ぎぃ、ぎしっ。
――ぎぃっ。
「ほう、随分と意気消沈しているではないか」
聞き覚えのある男子生徒の声がして、鬼灯は足を止めた。
振り返れば、薄暗い校舎内でもやたら目立つ銀髪赤眼の男子生徒が立っていた。
普通に幽霊を見ることが出来る女子生徒がいれば、間違いなく放っておかない端正な顔立ちに歪んだ笑みを浮かべて、銀髪赤眼の男子生徒――ユーイル・エネンは言う。
「ようやく自分の間違いに気がついたか」
「…………」
最初から知っていた、とばかりの口振りで言うユーイルを睨みつけて、鬼灯は彼に詰め寄る。
「知っていたの?」
「何が?」
「
「知っていると言えば知っている、知らんと言えば知らん」
ひどく曖昧な答えを提示するユーイルは、
「オマエの言う
「そう……」
力なく応じる鬼灯。
現実を受け入れたくなかった。
それでも、
鬼灯の成長に合わせて彼女もまた成長し、幽霊としてずっと側にいたのか。
「事故の現場に行く」
「ほう?」
「
メッセージアプリに受信したメッセージ。
全てが平仮名で構成された、意味不明な文章。
わたしはここにる。
交差点で起きた大規模な交通事故。凄惨なあの現場に、取り残されてしまっているのだろうか。
それなら、彼女を助けなきゃ。
「自分の間違いに気づいてもなお、親友を助けようという心意気は買おう。素晴らしいことだな」
薄暗い旧校舎の廊下に佇む銀髪赤眼の男子生徒は、歪んだ笑みを見せた。
「だが助けられるかな。もう遅いかもしれないのに」
「それでも行く」
鬼灯は学生鞄の紐を握りしめ、ユーイルを真っ向から睨みつけた。
「
「ならば何も言うまい。せいぜい足掻け」
ユーイルは鬼灯に背を向けると、
「まあ、助けられなければオレが食べるだけだがな」
☆
事故が起きたのは、
鬼灯も帰り道に利用する交差点は、不思議と車通りが少ない。
歩行者用の信号機が物寂しい明かりを点灯させ、交差点を利用する通行者は信号の指示に従って道路を渡る。そこに突っ込むような車の影は見えない。
交差点を全体的に見渡す鬼灯は、消えた親友の姿を探す。
「
「ほうほう。ここの交差点も随分と綺麗になったものだな」
ガードレールに腰掛けるユーイルは、すぐ側を過ぎ去った自転車に乗った若者を視線で追いかけて「あれは現代の自転車か!?」と驚いている様子だった。何時代の人間だろうか。
真面目に親友を探すつもりのなさそうな悪霊など放置して、鬼灯は交差点に親友がいないか目を凝らす。
どこにいるのだろう。通行者もほとんどおらず、車もそれほど多くない。それなのに青柳永遠子はどこにもいない。
懸命に親友の姿を捜索する鬼灯を嘲笑うかのように時間は過ぎ去り、空の色が変わっていく。
「おお」
ガードレールに腰掛けたユーイルが、空を見上げて言う。
「今日は夕暮れが綺麗だな」
「夕暮れ……」
鬼灯はつられて空を見上げた。
頭上に広がる空は紅蓮の色に染まり、山の向こうに夕陽が沈んでいく。
その茜色の空は、青柳永遠子が交通事故に巻き込まれたあの時と同じもので。
ジジ、ザザザ。
「鬼灯ちゃん」
ジジジ、ザザザ。
「鬼灯ちゃん」
――――ザザザッ、ジ、ジジ。
「ずっと一緒って言ったよね?」
冷たい何かが、鬼灯の手に触れる。
「え?」
振り返った先にいたのは、どこかで見たことのある幼い少女だった。
赤いランドセルを背負い、少し時代遅れなアニメキャラクターのトレーナーを着ている。ランドセルで揺れるのは少し汚れたキーホルダー。
真冬の水で濡らしたのかとばかりに少女の手は冷たく、銀縁眼鏡の向こう側にある黒曜石の瞳は血走っていた。鬼灯よりも幼いはずなのに、逃がすまいと手を強く握りしめてくる。
ああ、彼女は。
「
「鬼灯ちゃん」
あの時と変わらぬ子供特有の甲高い声で、少女は言う。
「ずっと一緒だよって言ったよね?」
――――――――ザザザザザザザッ。
雑音、雑音、雑音。
――――――――ぴーぽー、ぴーぽー。
救急車のサイレンが耳朶に触れる。
「鬼灯ちゃん」
いつのまにか世界が書き換えられて、空は茜色を通り越して不気味な紫色に染まっていた。
何台も車が潰れてひしゃげて転がって、だけど中には誰も乗っていない。
交差点に積み上げられた、数え切れないほどの車のスクラップの山。到着したらしい救急車の赤いランプが明滅し、けたたましいサイレンの音を響かせる。
ああ、この交差点は覚えている。この光景を見たことがある。
××高校の制服を着たまま大人になった鬼灯は、ようやく自分のなすべきことを理解した。
親友は「ずっと一緒」を望んでいる。
彼女はこの場に置き去りとなってしまった。だから、ずっと一緒にいるなら後を追いかけないと。
「
鬼灯は、スクラップとなった車の山に呼びかける。
「いるよ、鬼灯ちゃん」
交差点の中心に、いつのまにか見慣れた少女が立っていた。
黒髪に銀縁眼鏡をかけた、知的な印象を受ける少女。着崩すことなく××高校の黒いセーラー服を着こなす彼女は、鬼灯の親友だった。
青柳永遠子が手を伸ばしてくる。柔らかな笑みを浮かべて。
「ほら、鬼灯ちゃん」
鬼灯は、伸びてくる永遠子の手を取ろうとした。
だって自分は親友だから。
永遠子の側にいなければならないから。
「引き摺られるとは情けんなぁ、鬼灯よ」
親友めがけて伸ばされた鬼灯の手を取ったのは、銀髪赤眼の男子生徒だった。
「オマエはオレに食事を提供する下僕だ。勝手なことをされては困る」
親友から鬼灯を引き剥がしながら、銀髪赤眼の男子生徒――ユーイル・エネンは
「鬼灯を取り込もうとしたようだが、残念だな。今宵の食事はオマエだぞ」
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