第5話【食事】
かっ、かっ。
かっか、かっ。
顔の歪んだ教師が、今日も不気味な授業を始める。
蜘蛛の巣のかかった古ぼけた黒板に書く文字は、判別不可能な文字ばかりだ。どう見てもミミズがのたうち回ったような線として認識されてしまう。
どれだけ目を細めても、遠目から見ても、それが文字だとは思えない。こちらに背を向けた状態の教師は、あまりにも汚い文字まで気にしていない様子だった。
怖くて仕方がない。今も逃げ出したいぐらいだ。
(でも――――)
鬼灯はまっさらなノートを広げて、筆箱からシャーペンを取り出す。
そう、鬼灯は生徒だ。
今だけは彼女の生徒として、真面目に授業を受けなければならない。悲鳴を上げている場合ではない。
恐怖心を押し殺せ。授業から逃げるな。
(文字は判別できない。ノートへ書き写すフリをするしか)
鬼灯はシャーペンをノートに走らせるフリをしながら、黒板に線を引き続ける教師の背中を見やる。
「ッ」
悲鳴が喉まで出かかった。
ちょうど黒板に背を向けて、教卓に置いた皺くちゃの教科書を
顔面の中心から渦巻き、皮膚が引き攣って目や鼻が埋もれてしまった悍ましい様相。まさに悪夢を体現していると言ってもいいだろう。いや、悪夢もここまで酷いものではないか。
渦を巻いた顔面の中心に黒い穴がポッカリと開いているようだ。その顔を見て、悲鳴を上げなかった鬼灯を誰か褒めてほしい。
(だめ、怖いッ)
ノートを取るフリに徹して、鬼灯は教師の悪霊から視線を逸らした。
視線を逸らすな、と言われていたのに逸らしてしまった。
何か起こるだろうか、と心臓の鼓動が早くなる。シャーペンを握る手に汗が滲み出してきて、机の下にある足が恐怖でガタガタと震えてくる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
死ぬのだけは嫌だ。
がっ、がっか、がっ。
がっ、がっかっ、かっ。
恐怖で震える鬼灯を無視して、教師の悪霊は黒板に文字を書く作業を再開させる。
そうだ、鬼灯は生徒なのだ。役割とはいえ生徒としてこの教室にいる。
真面目にも彼女はノートを広げて筆記用具を持っていたので、黒板の文字を書き写していると認識されたのだ。まだ生徒役でいられる。
密かに安堵の息を吐き、鬼灯はもう一人の生徒へ視線をやる。
「ふん、ふふん♪」
呑気に鼻歌なんて奏でながら、ユーイルは何故か食器を取り出していた。
銀色のナイフにフォーク、お皿まで用意している。
まるで食事をする準備のようだ。恐怖を食べると本人は言っていたが、早弁の演技にしてはやり方が堂々としすぎている。
一体何をしているのか、と鬼灯は目を剥いた。
今はまだ授業中で、歪んだ顔面の教師はまだ黒板に意味不明な線を引き続けているだけで。教師の悪霊に食器を準備している姿がバレてしまったら、授業が無事に終わる成功率が下がる。
せめて幽霊教師がユーイルの用意する食器の存在に気が付かないことを心の中で祈りながら、鬼灯はノートに視線を落とす。
がり、がり、がり。
がりがり、がり、がり。
黒板に文字を書く音が変化する。
まるで、爪で引っ掻くような嫌な音だ。
見れば骨張った教師の指先が、埃に塗れた黒板の表面を懸命に引っ掻いていた。
ご、ごっ。
がりがりがり、がりがりがり。
がりがり、がりがりがりがり。
ご、ごっ。
爪で黒板を引っ掻きながら、額を黒板に叩きつけている。
おかしい、先程まで授業をしている様子だったのに。
教科書を捲って、チョークで黒板に文字らしきものを書き連ね、たった二人しかいないはずの生徒を相手に授業をしているはずだったのに。
どうして、こんなおかしな行動を?
ずっ、ずっ、ずりっ、ずりゅ。
がりがりがり、がりがりがりがり。
がりがり!
がりがりがりがりがりがり!!
額を黒板に擦り付け、教師の亡霊はさらに指先で強く黒板を引っ掻き始める。
がりがりがりがりがり!!
がりがりがりがりがりり、がりがりがりかりかりがり!!
がりがりがりがり!! がりがりがりがりかりかりがりがり!!
がりがりがりがりがりかりかりがり!!
執拗に、黒板を引っ掻いている。
がりがりがりがり!!
がりがりがりがりかりかりかりがりがり!!
ずっ、ずっ、ずりゅっ、ずりぃ。
黒板に顔面を擦り付け、引っ掻き、何かを訴えるように。
「な、何……」
「授業がまともに進んだのだから、ミサコ先生は恐れているのだろうよ」
怯えた様子の鬼灯とは対照的に、ユーイルは楽しそうに暴走する幽霊教師の姿を眺めている。
銀髪赤眼の男子生徒は、さながら品定めするかのように瞳を眇める。
薄い唇を真っ赤な舌で舐め、それはそれは楽しそうにクツクツと声を押し殺して笑っていた。何をそんなに楽しんでいるのか、鬼灯には到底理解できない。
「死にたくない、消えたくない、一人になりたくない。誰にだってある感情だろう。幽霊とてそうだ。終わりたくない、ここで消えたくないと願うからこそ抗うのだ」
ユーイルは心底楽しそうに、
「だからああやって、無意味な抵抗に出る。人間の恐怖はよく食らって飽き飽きしていたが、幽霊の恐怖心もなかなか食べ応えのあるものよ」
「…………それが、目的だったの?」
「幽霊が見えなくなればいいのだろう?」
ユーイルは炯々と輝く赤い瞳で鬼灯を見つめ、
「それがオマエの願いだろう。――ほら、よく聞いてみろ。ミサコ先生の悲鳴は酷いものだぞ」
銀髪赤眼の美しき悪霊が言うので、鬼灯は彼に倣って奇行に走る女教師に耳を澄ませてみる。
黒板を引っ掻く音と共に、金切り声のようなものが混ざっていた。
それは思わず耳を塞ぎたくなるような、彼女の心の底からの悲鳴だった。
いやあああああああ、いやああああああああ。
いやあああああああ、いやあああああああああああ。
この世から消えたくない、この世から消えたくないという心からの叫びだ。
それが恐ろしくて堪らない。
あの状態になってまで、未だ現世に留まろうとする執念が考えられない。何故そこまでして授業を終わらせたくないのか。
呆然と座ったまま黒板を引っ掻き続ける女教師の背中を見据え、鬼灯は「どうして……」と呟く。
「どうしてよ……何でそこまでして現世にしがみつくの……?」
「まだ未練があるのだろうなぁ」
ユーイルは綺麗に磨き上げた銀色のナイフを眺めながら、ふぅと息を吐いて制服の裾で曇りを拭う。
「未練があれば成仏したくない。まだこの世界にいたい。授業が終わればミサコ先生は用無しだからなぁ、授業を終わらせない為にオマエには逃げ出してほしいんだろうなぁ」
そこで、ユーイルはとうとう席から立ち上がった。
綺麗に磨き上げた銀色のナイフとフォーク、それから真っ白なお皿を机に放置したままだ。
お皿の上に食材はなく、それらしい影すらどこにも見えない。机の周りにパンの一つでもあるのかと思ったが、そんなものはなかった。
彼の食事は恐怖――あとは一体何を食う?
「ああ、とても素晴らしい恐怖だな」
その手に握られた銀色のナイフが、窓から差し込む夕陽を反射する。
「いつか食ってやりたいとは思っていたが、まさかここで出番が回ってくるとはなぁ。人間の恐怖だけでは足りなくて、ずっと腹が減っていたところだ」
ニィ、と裂けるように笑ったユーイルは、黒板に額を擦り付けて現世に抗おうとする幽霊教師に歩み寄る。
「い た だ き ま す」
食事が始まる挨拶。
ユーイルは握りしめた銀色のナイフで、幽霊教師の肩の部分を突き刺した。
ナイフが突き刺さった部分から噴き出したのは血液ではなく、黒い
あああああああ、あああああああああ。
あああああああああああ、ああああああああああああ。
幽霊教師は暴れる。
ジタバタと暴れて、抵抗する。
ナイフで肩をグリグリと抉るユーイルは、何を思ったのか唐突に幽霊教師の腕に齧り付いた。
「うむ、うむ」
黒い
「やはり幽霊の方が美味いな!!」
そのままナイフで丁寧に幽霊教師を切り分けながら、ユーイルは教師の幽霊を食らっていく。
決して綺麗な食事作法とは思えない、それでもユーイルは心底美味そうに幽霊を食べていく。
その光景は想像を絶したものであり、呆然と食事風景を眺める鬼灯の常識外の出来事だった。
想像がつくだろうか?
幽霊が、幽霊を共食いしている光景など。
「美味、美味だな」
銀色のナイフを引き抜き、口元を乱暴に制服の袖で拭ったユーイルは、脱げたヒールと折れたチョークに向かって両手を合わせた。
「ご ち そ う さ ま で し た」
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