第4話【さあ、授業を始めよう】

 こつ、こつ、こつ、こつ。

 こつ、こつ、こつ、こつ。



 夕暮れに染まる旧校舎に、ヒールの音が落ちる。



 こつ、こつ、こつ、こつ。

 こつ、こつ、こつ、こつ。



 埃っぽい廊下を不穏な足取りで歩くのは、顔の歪んだ女性だ。


 服には血が飛び散り、顔面は中心部分から渦巻いている影響で肌が引き攣っている。眼球や唇などの存在はなく、ただ悍ましい顔だけがそこにある。

 それでも女性自身は自分の顔の状態を理解していない。鏡を見ても自分の顔など映らないからだ。


 いいや、それよりも彼女は幽霊であると自覚しているのだろうか?



 こつ、こつ、こつ、こつ。

 こつ、こつ、こつ、こつ。



 授業に取り憑かれた彼女は、今日も教室に向かう。


 生徒を導かなければならない、という使命を空虚な胸に掲げて。

 彼女は一歩ずつ誰もいないはずの教室を目指す。


 そういえば、何故授業をしているのだっけ?



 ☆



「授業に大切なことは三つだ」



 ユーイルは丁寧に指を一本ずつ立てながら、授業に大切なことを鬼灯に教える。



「一つは『授業中、目を逸らさないこと』だ」


「目を逸らさない……」



 鬼灯はユーイルの言葉を反芻する。


 授業で目を逸らさないことは大切だ。きちんと授業を聞いている、という教師へのアピールにも繋がる。

 だが、あのおぞましい顔と睨めっこをしなければならないと思うと憂鬱になる。思い出しただけでも震えが止まらない。


 険しい表情をする鬼灯に何かを察知したユーイルは、



「案ずるな、目を合わせれば死ぬような類の幽霊ではない」


「そうかもしれないけど……」


「幽霊を見えなくする為の第一歩だ。この程度で怯えていては、今後に登場する幽霊では漏らすのではないのか?」


「誰が!!」



 鬼灯はユーイルに反論しようとするが、あまりに声が大きいのでユーイルに口を塞がれてしまった。当然と言えば当然か。



「さて二つ目だ」



 ユーイルはもう一本指を立て、



「『授業中の私語は厳禁』だな」


「当たり前でしょ」


「当然だが、叫ぶのもダメだぞ。あくまでオレ達は授業を受ける生徒役に徹するのだ。じっと座って授業が終わる瞬間を待ち、瞬き以外でミサコ先生から視線を逸らすことはまずいからな」


「う……」



 鬼灯は承諾しかねた。


 あの顔の歪んだ女教師と視線を合わせることだって悍ましいと思うのに、叫ぶことすら許されないのは厳しい。

 下手をすれば視線が合うたびに叫んでもおかしくない。記憶にあるあのミサコ先生の顔面は、悪夢と呼ぶに相応しいほど崩れている。


 難しそうな表情をする鬼灯の肩を叩くユーイルは、彼なりに鬼灯を励まそうとする。



「いいか、鬼灯よ。オレ達は生徒なのだ」


「分かってるわよ」


「ならば、幽霊が相手でも教師は教師だ。ミサコ先生を弱らせるには、オレ達は生徒であることに徹しなければならないのだ」



 そう、あのミサコ先生は授業に取り憑かれた悪霊だ。


 少しでも弱らせる為には、彼女の執り行う意味のない授業を終わらせなければならない。どれほど恐ろしく感じていようが、終わらせなければ鬼灯の幽霊を引き寄せる体質すらどうにも出来なくなってしまう。

 もうこの体質に悩まない為に、ユーイルの作戦に乗ることを選んだのだ。怖い思いをしたくない。


 鬼灯はキュッと唇を引き結ぶと、



「……最後の三つ目は?」


「決まっているだろう」



 ユーイルは自慢げに胸を張ると、



「生徒ならば誰でもやったことのあることだ」


「何よそれ」


「オマエ、授業は消極的だな? テストの点数がよければいい、という訳ではないぞ」



 ユーイルは呆れたように肩を竦めると、



「生徒であれば質問ぐらいしたことがあるだろうに。ないのか、オマエ」


「…………ないわね。先生の質問の時はいつも外を眺めてるから」


「それでよくもまあ注意されないものだ。オレの時代は容赦がなかったぞ、教科書で殴られることなど当たり前だった」



 ユーイルは「懐かしいなぁ」などと言いながら、過去を振り返っている。


 どうやら彼の言う三つ目の大切なことは『分からないことは質問しろ』ということらしい。確かに、生徒であれば誰でも経験することだ。

 あの教師に質問をしたところでまともな返答があるとは思えないが、それでも鬼灯は生徒役に徹しなければならない。生きるには必要なことだ。


 問題があるとすれば、ミサコ先生の黒板に書く字が大変汚いということだろうか。



「あの文字、読めないんだけど」


「安心しろ、オレも全く読めん」



 ユーイルが自慢げに言う。自慢するような内容ではないと思う。



「何を書いているのか予想しろってことなの?」


「オマエにそれが出来るのか?」


「で、出来ないけど……」


「ならば無理にやろうとするな。授業を終わらせる成功率が下がるだろう、余計な真似をすればオレは助けんぞ」



 悪霊のくせに、意外と酷いことを言うものだ。もう死んでいるのだから、肉壁ぐらいにはなってほしい。


 とはいえ、ユーイルほど頼りにならない人物はいない。

 もしこの場に親友である青柳永遠子がいたら、きっと彼に噛み付いていただろう。昔から気が強い彼女に、ユーイルはタジタジになるかもしれない。それはそれで見てみたい気もある。



 ――がらーん、ごろーん。



 その時、旧校舎全体を揺るがすかのように歪んだ鐘の音が響き渡る。


 鬼灯の心臓がドキリと飛び跳ねた。

 まるで死刑台に上がったような気分である。これからあの恐怖の授業を再び受けなければならないのか。



「ではな、鬼灯よ。オレも適当に生徒役として徹するが故に、オマエも自分なりの生徒役を演じるがいい」



 ユーイルはすでに用意された自分の座席に腰掛けると、



「いいか。あくまでオレ達は生徒だ。生徒ならば何をするか、よく考えて行動するのだな」


「分かってるわ」



 鬼灯もまた、自分の為に用意した座席に座る。


 椅子はどこか古ぼけていて、机の天板には落書きがされてある。もう埃を被っているせいで認識できないが、この机の持ち主は落書きをする癖があったのだろうか。

 いいや、こんなことをしている場合ではない。授業を始める準備をしなければ。


 鬼灯は机の横にかけた自分の鞄を開くと、筆箱とノートを取り出す。そして最後に現代国語の教科書を置いて、準備は完了だ。



(私は生徒、私は生徒、私は生徒)



 自分に言い聞かせるように、鬼灯は胸中で何度も言葉を繰り返す。


 ガタガタと震える手を机の下に隠し、ギュッと力強く握りしめる。

 怯えているのがバレてはいけない。自分はミサコ先生の生徒であり、これから授業を受けるのだ。


 彼女を成仏させる為に。



 こつ、こつ、こつ。



 遠くから足音が聞こえてくる。



 こつこつ、こつ、こつ。



 それは徐々に早まり、近づいて。



 ――――こつ。



 とうとう、鬼灯とユーイルのいる教室の前で立ち止まる。


 次いでガラリと教室の扉が開くと、見覚えのある悍ましい姿の女教師が教室内に足を踏み入れた。

 血が飛び散った衣服を身につける、顔の中心から歪んだ女性。目や鼻や口といった概念は引き攣った皮膚の下に隠され、それはまさに悪夢を体現していると言ってもいいだろう。


 来た、ついに来たのだ。

 ミサコ先生が、授業をしに来たのだ。



「…………」



 ミサコ先生は教卓の前に立つと、ガタガタと全身を不自然に揺らしながら号令を待つ。



「起立」



 ユーイルの号令により、鬼灯は席から立ち上がる。


 ドキドキと脈打つ心臓を深呼吸で落ち着かせ、思考回路を切り替える、

 これは授業だ。決して変な儀式ではない、ただの授業。



「礼」


「よろしくお願いします」



 生徒ならば、挨拶も欠かせない。それは当然のことだ。



「着席」



 号令が終わり、鬼灯とユーイルは椅子に座る。


 ミサコ先生は古ぼけたチョークを手に取って、意味のない文字を黒板に書き込み始めた。

 さあ、授業の始まりである。

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