第3話【夕暮れの授業の噂】

「絶対に嘘だと思う」



 親友の青柳永遠子あおやぎとわこは、やたら真剣な表情で言う。


 時刻は昼休み、生徒たちは賑やかに弁当をつつき合っている頃合いだ。

 鬼灯も例外ではなく、永遠子と一緒に屋上へ続く階段に座ってひっそりと食べるのが日課だった。ここなら誰も来ないし、痛いほど浴びる冷たい視線に晒されずに済む。


 幽霊を引き寄せてしまう体質のせいで、常日頃から他人には遠巻きに見られていた。「大きな独り言……」とか「何言ってんだろ」とかヒソヒソと声を潜められた。

 その度に青柳永遠子が励まして、慰めてくれる。彼女には助けられてばかりだ。



「絶対に嘘だよ。大体、何を根拠に鬼灯ちゃんの体質を改善しようと言ってんだろ。霊媒師でも何でもなく、ただの悪霊のくせに」


「……でもね、永遠子」



 鬼灯は食べかけの弁当に視線を落とし、



「私、信じてみたい。神社にも寺にも霊媒師にも頼って全部ダメだったけど、あの幽霊の言葉は信じてみたいの」


「鬼灯ちゃん……」



 永遠子は小さくため息を吐いて、



「分かったわ、そこまで鬼灯ちゃんが言うなら何も言わないであげる。あたしも出来る限りは協力するから」


「ありがとう、永遠子」



 親友には心配をかけてしまうかもしれないが、鬼灯は自分の体質を改善できるのであれば挑戦してみたい。

 神社も、寺も、霊媒師にも匙を投げられた。それでもあの悪霊は、一度諦めかけたけれど改善策を提案してきたのだ。その可能性とやらにかけてみたい。


 鬼灯は砂糖で甘く作られた卵焼きを口に運び、



「それでね、永遠子。ちょっと聞きたいんだけど」


「何かな、鬼灯ちゃん」


「ミサコ先生って知ってる?」



 鬼灯も聞いたことのない名前の女教師だった。


 でもあの悪霊――ユーイル・エネンは知っていた。

 謎めいた女性の教師、顔が歪んだあの悍ましい姿の怪物。可能であれば二度と見たくのない幽霊だが、何か解決策があるのかもしれない。


 鬼灯が知らないだけで、この××高校では有名な怪談なのかもしれないのだ。



「知ってるわ」



 青柳永遠子の回答は、非常にあっさりとしていた。



「何年か前に事故で亡くなった先生でしょ。ほら、歩道橋から突き落とされて死んだって」


「あ、あの時の」



 鬼灯もその事件の内容は覚えている。


 この××高校の近くには、割と大きな歩道橋がある。『夢乃大橋ゆめのおおはし』と名付けられたメルヘンな歩道橋だが、この歩道橋で転落事故が発生した。

 相手は学校の教師で、当時お付き合いされていた男性と揉めた結果に歩道橋から突き落とされて死んでしまった。男性は殺人事件の容疑者として逮捕されたが、留置所で謎の死を遂げた。


 曰く「顔の歪んだ女が、教科書を片手に授業をしてきた。おぞましかった」と。


 あの事件の被害者が、悪霊となって旧校舎に現れるのか。そして意味のない授業を繰り広げ、特に聞いてもいなさそうな男子生徒を相手に勉強を教えているのか。

 とても悲しい幽霊である。まさか死んでもなお、授業に取り憑かれているとは。



「……授業を終わらせてあげた方がいいのかも」


「え?」


「ミサコ先生の授業。あの人の授業を終わらせて成仏させなきゃ……」



 いつまでも旧校舎で、伽藍とした教室を相手に授業を続けなければならないなんて悲しすぎるではないか。



「……鬼灯ちゃんは優しいね」



 永遠子は鬼灯の頭を撫でて、優しそうに微笑んだ。



「うん、鬼灯ちゃんがやりたいようにやるといいよ。多分、絶対に間違っていないから」


「ありがとう、永遠子。私の背中を押してくれて」



 いつ何時でも寄り添ってくれる優しい友人に微笑み返した鬼灯は、



「ところで永遠子」


「何かしら?」


「お昼はどうしたの? 今日はないの?」


「あー…………」



 青柳永遠子の膝上には弁当の包みの存在はなく、コンビニで購入した弁当らしき影もない。完全に無の状態だ。


 彼女は照れ臭そうに頬を指で掻きながら、小さな声で囁いた。



「間食が多くて太っちゃったの。今日からダイエット」


「え、でもお昼は食べないと……」


「いいの。朝と夜にいっぱい食べるから」



 ほら、気にしないで食べて。


 永遠子に食事を促されて、鬼灯は「そう? ごめんね」と申し訳なさそうに謝りながら弁当を順調に消費していく。

 それほど太っているようには見えないのに、ダイエットの必要はあるのだろうか。――そう小さな疑問を抱いたが、永遠子に指摘すればきっと怒ると思うので、鬼灯は口を噤むことにした。



 ☆



 放課後。


 まだ明るい時間帯なのに、旧校舎の周辺はどこか薄暗い。

 旧校舎近辺だけは、どこか世界から隔絶されたような気配がある。近づいただけでも鳥肌が立つが、ここで立ち止まっていては問題は解決できない。


 鬼灯は自分の鞄の紐を握りしめると、意を決して旧校舎の扉の前に立つ。



「授業……授業があるから……そうよ、授業。授業を受けなきゃ」



 せっかく自分の本当の授業が終わって帰れるというのに、鬼灯は深々とため息を吐いた。


 面倒な体質のせいで、こんな事件に巻き込まれるとは思わなかった。完全に想定外である。

 本当なら今すぐにでも引き返して家に帰りたいところだが、そうは出来ない理由がある。あのミサコ先生が執り行う授業を受けて、彼女にはさっさと成仏してもらわなければならないのだ。


 それが、鬼灯が幽霊を引き寄せなくなる方法。



「幽霊の数を減らせば見える幽霊も減るって……何でそんなことを思いついたんだろ」


「それはオレだけしか出来んからな。オマエでは到底無理だ」


「そんなこと誰が決めて……」



 背後から声が聞こえてきた。


 鬼灯はゆっくりと後ろを振り向くと、そこには俯き加減で立つ男子生徒がいた。

 透き通るような銀髪と長い前髪の隙間から覗く赤い双眸、××高校の制服である黒い詰襟には着古した様子や乱れは一切ない。それなのに足元には影はなく、不気味な出立ちは幽霊そのものだ。


 ユーイル・エネン。

 この旧校舎を根城とする悪霊だ。



「で、出たわね!!」


「おっと、これぐらいでは驚かんか。残念、残念」



 ユーイルはやれやれと肩を竦めると、



「で? 性懲りもなく旧校舎を訪れるということは、幽霊を減らすというオレの提案に乗るということだな?」


「……ええ」



 鬼灯は頷いた。


 この月無町には幽霊が多すぎる。この町に蔓延る幽霊がいなくなれば、きっと鬼灯もこの幽霊を引き寄せてしまう体質から解放される。

 自分では出来なかった。でも、この悪霊となら可能かもしれない。



「やるわ。幽霊を減らせばいいんでしょ?」


「そうだとも」



 ユーイルはニヤリと笑うと、



「まずはミサコ先生で試す。それから順当にこの町に蔓延る幽霊を消していく。まあ、その過程でオマエの幽霊を引き寄せる体質が改善される方法があれば、その方向に進むとしよう。――何か異論はあるか?」


「ないわ」


「ならば重畳」



 鷹揚に頷いたユーイルは、



「ところで、授業を受ける準備はしてきたのか?」


「もちろんよ」



 鬼灯は自分の鞄を一瞥する。


 鞄の中には、自分が現在使っている現代国語の教科書とノートが入っている。あのミサコ先生の担当教科は現代国語と聞いたので、その授業の準備はちゃんと持ってきた。

 これからあの訳の分からない恐怖の授業を受けなければならない!と考えると足が震えてくる。それでも、この体質を改善する為だ。



「ならば行こうか、下僕よ」


「鬼灯よ」



 下僕と呼ばれ続けることに嫌悪感がある鬼灯は、



幽ヶ谷鬼灯かすがだにほおずき、それが私の名前。いつまでも下僕と呼ばないで」


「ほう、幽ヶ谷かすがだにとな。――はて、どこかで聞き覚えのある名前だな? ううむ、思い出すことが出来んとは惜しい。実に惜しい」



 ユーイルは仕切りに首を傾げて幽ヶ谷という名字をどこで聞いたのか思い出そうとしているようだが、結局、思い出せずに諦めた様子だった。


 幽ヶ谷という名字など珍しいことこの上なく、月無町つきなしちょうでも鬼灯以外にそんな珍妙な名字はいない。

 それなのに聞き覚えがあるとは、親戚の中で知り合いがいるのだろうか。


 ――幽霊の? 知り合いが?



「いやいやいやいや……」


「何だ、その反応は」


「親戚に幽霊の知り合いがいるとか聞いたことなくて」


「何を言うか、鬼灯。オレは元々人間で、ちゃんと生きていたぞ。ウッカリ死んでしまっただけだ」


「ウッカリって……死因を覚えていないの?」


「覚えていないなぁ」



 ユーイルは「まあ、死因など思い出す必要もないだろう」とバッサリ切り捨てる。意外と重要そうなのに、彼にとってはそうでもないらしい。


 その時だ。

 昨日聞いたあの歪んだ鐘の音が、やや茜色に染まりつつある空に響き渡る。



 がらーん、ごろーん。



 とうとう授業が始まる時間だ。



「それでは行こうか、鬼灯よ。我々の手で授業を終わらせよう」


「ええ、そうね」



 あの恐怖の授業を終わらせる。


 鬼灯は薄暗く埃っぽい旧校舎内に足を踏み入れる。

 授業熱心なあの女教師を、この世から成仏させる為に。



 ぎぃー、ぱたん。

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