第2怪:ミサコ先生

第1話【夕暮れの授業】

 こつ、こつ。



 誰もいないはずの旧校舎に、足音が響く。



 こつ、こつ。

 こつ、こつ。



 その足音は、徐々に大きくなっていく。

 鬼灯のいる教室に近づいている証拠だ。



 こつ、こつ。

 ――――こつ。



 立ち止まる。


 鬼灯がゆっくりと顔を上げれば、扉に嵌め込まれた曇りガラスに人影が映っている。

 やけに身長が高く、首が人間とは思えないほど細い。それなのに頭だけは大きく、その細い首で大きな頭を支えられるのか疑問に思えてしまう。


 ガクガクと全身を震わせるその人影は、勢いよく扉を開いた。



「…………ッ」



 鬼灯は悲鳴を上げそうになる。


 教室に足を踏み入れたのは、女性の教師だった。綺麗な衣服に身を包んでいるものの、布地には赤いシミのようなものが浮かび、それで何が起きたのか想像したくない。

 ただし、彼女の顔面は見るに耐えない酷い有様だった。顔面の中心が陥没していて、さながら渦を巻いているように顔中の皮膚が引っ張られている。目鼻立ちもハッキリせず、化け物そのものと言ってもいいだろう。


 喉元まで迫り上がった悲鳴を無理やり飲み込んで、鬼灯は慌てて女教師から視線を逸らす。あの男子生徒に言われて起こした傷だらけの机の上に視線を落とし、ガタガタと震える手を握りしめて恐怖心を押し殺す。



 こつ、こつ。

 こつ、こつ。



 女教師は教室を横切り、教卓の前に立つ。

 その陥没した顔面で、荒れ果てた様子の教室を見渡した。何かを言う訳でもなく、呻き声すらも漏らさない。それが非常に恐ろしく感じる。


 それなのに、あの男子生徒は普通にしていた。



「起立」



 銀髪の男子生徒――ユーイル・エネンの号令。


 鬼灯は本能的に、その号令に従わなければならないと思った。

 今すぐに逃げ出したい衝動を抑え込み、ガタンと椅子から立ち上がる。けれど視線は決して上げない。あの女教師と視線を合わせたら終わりだ。



「礼」



 ユーイルの動きに合わせて、鬼灯もゆっくりと一礼。



「着席」



 ゆっくりと椅子に座る。


 これから何が始まるのだろうか。まさか見覚えのない生徒を頭からバリバリと食らうのか?

 不用意に旧校舎なんか訪れるべきではなかった、と鬼灯は過去の出来事を悔いる。もし自分の身が危なくなったら、走ってここから逃げ出そう。


 顔が陥没した女教師は、くるりと鬼灯に背を向けると黒板に設置されたチョークを手に取る。



 ごつ、ごつ。

 ごつ、ごっ。



 チョークが黒板に叩きつけられる鈍い音が、鬼灯の耳朶を打つ。


 おそるおそる視線を上げれば、女教師はこちらを見ていない代わりに黒板へ文字らしきものを書き込んでいた。

 それは文字として識別できないほど汚く、ミミズがのたうち回ったかのような線が幾本も引かれている。一体何を書いているのか分からない。



 が、がっ。

 がっ、がつ。



 女教師はチョークを黒板に叩きつける手を止めて、教卓に向き直る。


 教卓に置かれているのは、教科書だろうか。何の科目か検討もつかないが、彼女はペラペラと教科書をやたら長い指先で捲っている。

 教科書を捲る手を止めて、顔が凹んだ女教師はぐるりと教室内を見渡す。顔の中心に埋め込まれた彼女の眼球には何が見えているのか、どれだけ見渡してもこの教室には鬼灯とユーイル以外の生徒はいない。


 チョークを片手に握る女教師は、くるりと再び鬼灯に背を向けた。



 がっ、がっ。

 がっ、がっ。



 何を思い始めたのか、女教師はチョークを黒板に滑らせて意味不明な文字を書き始める。


 もしかして、授業をしているつもりなのだろうか。

 彼女は古びた黒板に書かれた文字を眺めて、それから隅にある黒板消しで文字を消す。そして同じようにミミズがのたうち回った文字を書き始めて、納得したように頷いた。文字の配列が気に入らなかったのだろうか。



「ね、ねえ。これって授業……?」


「ほほーう、授業中なのにお喋りをしてくるとは。オマエもなかなか芸が細かいな」



 ユーイルはニヤリと笑うと、



「そうだとも、これは彼女にとっての授業だ。意味の分からん文字を書いて、教科書を捲って、また黒板に文字を書く作業に戻る。その際に生徒は何も言わず、黙って俯きながら授業を終わることを祈っているだけだ。まあまあつまらんだろう」


「これっていつ終わるの?」


「さてなぁ。まあ普通の授業が終わる時間ぐらいだろうな」



 そうなると、五〇分近くも俯いていなければならないのか。


 その間、あの女教師が近くに来ないことを祈りながら俯いていなければならない。

 意外と苦しいことだが、それでも確実に生き残るにはそうするしかない。あの女教師に対抗する方法がないのだから。


 口裂け女や花子さんみたいに対抗策を講じることが出来ればいいのだが、この女教師への対抗策は皆無だ。



「ほら、オマエ」


「え?」



 ユーイルは楽しそうにニヤニヤと笑い、



「授業中に喋ったらダメだろう。『先生』にバレてしまったではないか」


「え――――」



 鬼灯の背筋に冷たいものが伝い落ちる。



 こつ、こつ。



 足音がした。


 それは女教師が履くヒールのもので、鬼灯は慌てて黒板へと向き直り、机に視線を落として動かずにじっと息を潜める。

 見てはいけない、見てはいけない、と自分に強く言い聞かせる。あの顔が陥没した女教師と目を合わせれば、何が起きるか分かったものではない。



 こつ、こつ。



 足音は徐々に近づいてくる。


 傷ついた机の盤面をじっと見つめている鬼灯の視界の端に、ボロボロのヒールが映り込んだ。

 すぐ側まで感じる冷気に「ひッ」と悲鳴を漏らす。慌てて口元を押さえて、ギュッと目を瞑る。



 じー。



 女教師が、自分の顔を覗き込んでいるのが分かる。

 目を瞑っているのに、容赦なく突き刺さってくる視線。目を開けたくなるが、理性で押さえ込んだ。あんな悍ましい顔面をした奴の顔など、まともに見れるはずがない。


 頼むからどこかに行ってくれ――必死にそう願いながら、短くも長い時間をやり過ごした。



 こつ、こつ。

 こつ、こつ。



 ガクガクと全身を揺らしながら、女教師は目を瞑って俯く鬼灯から距離を取る。どうやら上手くやり過ごせたようだ。


 安堵の息を漏らす鬼灯は、ジロリとユーイルを睨みつける。

 この男子生徒のせいで、あの悍ましい女性教師にバレてしまったのではないのか。そう言わんばかりの鋭い視線を突き刺すが、相手は知らん顔だった。



「オマエが悪いんだろ」



 ユーイルは心底楽しそうに言うと、



「オマエが大人しくしていればよかったのに、どうして喋りかけちまうかな。これは『授業』なんだから、待っていれば終わるだろう?」


「…………」



 今度は、鬼灯は取り合おうとしなかった。この会話に返したら、おそらくまたあの女教師の餌食になってしまう。


 フイと視線を逸らし、鬼灯はただひたすらに女教師の授業が終わる瞬間を待った。無事に終わってくれ、と壊れた時計を確認しながら祈った。

 女教師のチョークの音は絶えず教室中に響き渡り、古びた黒板に無数のミミズがのたうち回ったような意味不明な文字を並べていく。



 がつ、がつ。

 がつ、ごつ。



 時折、教卓に置いた教科書をペラペラと捲っては、また黒板にチョークを滑らせる。



 ごつ、ごつ。

 ごつ、ごつ。


 ――べら、ぺら。



 ごつ、ごつ。

 ごつ、ごつ。



 女教師が数え切れないほど線を引いた時、ようやく鬼灯が待ち望んだ時間が訪れる。



 がらーん、ごろーん。



 歪んだ鐘の音が、旧校舎全体に鳴り響く。


 女教師は夢中で黒板に線を引き続けていたが、鐘の音が鳴った瞬間にピタリとその手を止める。欠けたチョークを元の場所に戻すと、教卓へ向き直った。

 顔面が凹んだ状態の悍ましい面でぐるりと教室を見渡して、それから動かなくなる。ユーイルの号令を待っているのだ。



「起立」



 ユーイルと鬼灯は、号令と同時に立ち上がる。



「礼」



 静かに一礼すれば、女教師は古びた教科書を抱えて教室から出て行った。


 こつこつ、という不気味な足音が遠ざかっていく。

 あの緊張感のある授業は、無事に終わったようだ。



「よかった……」



 鬼灯は椅子に腰掛けて、安堵の息を吐く。


 とりあえず、やるべきことがある。

 未だにあのニヤニヤした笑みを絶やさない、あの銀髪の男子生徒をぶん殴ることだ。

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