第3話【ユーイル・エネン】
鬼灯が目覚めた場所は、夕陽が差し込む教室だった。
それも、ただの教室ではない。
机はひっくり返り、椅子も横倒しになっている。黒板は埃を被り、上部には蜘蛛の巣が張ってしまっている。教室の隅に飾られた時計は針がすでに止まり、壊れたまま放置されていた。
鬼灯はそんな教室の椅子に腰掛け、眠っていたようだ。
「どうして……?」
こんな教室まで来た覚えはない。
鬼灯が記憶にあるのは、職員室までだ。
何かを叩くような音が聞こえて、部屋の中を覗き込んだら銀髪の男子生徒が背後に立っていて――――。
――そういえば、彼はどこへ行った?
「よお、お目覚めか」
唐突に声がかけられる。
埃を被った教卓に、あの銀髪の男子生徒が腰掛けていたのだ。
夕焼けを反射する銀髪に、色鮮やかな赤い双眸。精悍な顔立ちは同級生にいれば女子が放っておかなさそうなほど整い、ゴミや埃一つない真っ黒な詰襟を着用している。
××高校の生徒だろうか?
いや、それにしては見たことのない顔だ。
「貴方は誰?」
「お、驚かねえとは恐れ入るな。一体どんな度胸をしてんだ?」
銀髪の生徒は不思議そうに首を傾げるが、肝の据わった鬼灯の態度を「面白え」と笑い飛ばす。
「オレはユーイル・エネン。この旧校舎に住み着く、まあ幽霊だな」
「幽霊……!!」
椅子を跳ね飛ばして立ち上がった鬼灯は、ようやく目当ての人物に出会えたことに対して興奮する。
そう、ようやくだ。
生まれてから悩まされていたこの幽霊を引き寄せる体質を、どうにか出来る。
「ねえ、貴方は本当に誰かの願いを叶えてくれるの?」
「何それ」
銀髪の男子生徒――ユーイル・エネンは、
「オレが誰かの願いを叶えるだって? そんなのやる訳ねえだろ。根も葉もない噂話を信じてきたってのか、オマエは?」
「そんな……」
鬼灯は愕然と呟く。
この幽霊を引き寄せる体質をどうにか出来る手がかりを見つけたと思ったのに、これでは何の為に旧校舎まで来たのか分からない。
途端に疲れが押し寄せてきて、鬼灯は今まで自分が座っていた椅子に腰を下ろす。制服のスカートを握りしめて、深々とため息を吐いた。
明らかに何か悩んでいますと言わんばかりの態度を取る鬼灯に罪悪感でも覚えたのか、ユーイルがバツが悪そうに問いかけてくる。
「あー、その、何だ。まあ、話ぐらいなら聞いてやるよ。それぐらいしか出来なくて悪いけどな」
教卓から飛び降りたユーイルは、わざわざ手近にあった椅子を引き摺って鬼灯の元までやってくる。自分もいそいそと椅子に座ると「どうぞ」と話の内容を促した。
こんな幽霊を相手に話をしたって、と鬼灯は思う。
相手は一応、話を聞いてくれる姿勢ではいるようだ。上から目線なのが少し気になるところだが、話を聞いてくれるだけありがたいと思うべきなのか?
見ず知らずの相手に事情を語るのも気が引けるが、鬼灯はゆっくりと口を開く。
「幽霊が見えるんです」
「まあ、オレと会話してるぐらいだしな」
「昔から幽霊は見えるし……幽霊を引き寄せてしまう体質みたいなんです。だから昔から、私の周りには幽霊が寄ってきて……」
「ほう」
ユーイルは赤い瞳を瞬かせると、
「それは興味深い、実に興味深い」
「な、何がですか」
無遠慮に距離を詰めてくるユーイルから、背筋を退け反らせて距離を取ろうとする鬼灯。やや興奮気味な相手が怖い。
「オマエの近くには常に恐怖が渦巻いているのだろう? 得体の知れない『怖い』が転がっているのだろう?」
「な、何なんですか。幽霊を引き寄せる体質がそんなに面白いですか」
「いいや、羨ましい!!」
椅子を跳ね飛ばして立ち上がったユーイルは、興奮気味に叫んだ。
「常日頃から恐怖に囲まれて生活しているとは、とても羨ましい。恐怖が向こうからやってくるとは、何と親切な!! これでオレの食事も捗るという訳だ」
「しょ、食事?」
「そうだ、食事だ」
目を剥いて驚く鬼灯に、ユーイルはニンマリと笑いかける。
「なるほど、ちょうどいい。オレは信心深い訳ではないが、神は何という最高の下僕を遣わしたのか」
「げ、下僕って何ですか」
「それはもちろん、オマエのことだ」
ユーイルは鬼灯の頬を冷たい指先で突くと、
「オマエ、今日からオレの為に食事を運んでこい。オマエの幽霊を引き寄せるという体質、このオレが有効的に使ってやろう」
「はあ!?」
これには鬼灯も寝耳に水の出来事だった。
幽霊を相手に食事だと? 何を考えているのだろうか。
大体、幽霊に食事を提供したところで、何も食べられない身体になっているはずだ。もしかしてお供物でも欲しているのだろうか。
すると、ユーイルが不満げに唇を尖らせると、鬼灯の頬を
「失礼なことを考えているな、下僕。幽霊が普通に飯を食うと思ってんのか、オマエは」
「いひゃい、いひゃいれす!!」
「それにしても、さすが幽霊を引き寄せる体質だな。まさか触れるとは思わなんだ」
びよーん、びよーんとユーイルはしばらく鬼灯の頬を抓って遊んでから、パッと唐突に解放する。おかげで頬がめちゃくちゃ痛い。
ヒリヒリと痛みを訴える頬をさすりながらユーイルを睨みつければ、彼はクスクスと声を押し殺して笑っていた。
鬼灯も驚いたが、まさか幽霊に触れるとは思わなかった。これでは生きている人間と見分けがつかない幽霊は危ない。
ユーイルは「さて、話を戻すが」と言い、
「オレは恐怖を食らって生きる。人間の『恐ろしい』『怖い』といった感情を食って生きるのだ」
なのに最近の若者は、とユーイルは自分自身を棚に上げて唇を尖らせる。
「全く恐怖を感じなくなったではないか。非常につまらん」
「それで、私と貴方の食事にどう関係が……」
「決まっているだろう」
さも当然とばかりに鬼灯へ指を突きつけたユーイルは、
「オマエを餌にして幽霊を誘き寄せ、その幽霊に怖がったオマエの感情を食らう。どうだ、素晴らしい提案だろう」
「お断りします」
「何故ッ!?」
まさか断られるとは想定していなかったユーイルが、今度は目を剥いて驚く番だった。
鬼灯は当然ながら、その話を受け入れるつもりはない。
自分に利点がないし、第一、悩んでいる体質を利用されるのは御免だ。鬼灯はもう幽霊を見たくないし、引き寄せたくないのに。
ユーイルは「そんなぁ」とガッカリしたような声を上げ、
「何故だ、非日常感を味わえるぞ。最近の若者はそういうのを好むのだろう?」
「幽霊で見飽きてます」
「有名なお化けに会えるぞ。花子さんとか」
「小学生の時に散々会いました」
どうにかこうにか頷かせようとするユーイルの誘いを振り切り、鬼灯は教室の隅に追いやられていた自分の鞄を手に取った。
幽霊を引き寄せる体質がどうにかならないのならば、この場所に留まる意味はない。
さっさと帰って宿題でもしていた方が有意義だ。もうすぐ夕方になるし。
「なあ、オマエ」
教室から立ち去ろうとする鬼灯の背中に、ユーイルが問いかけてくる。
「今、何時だ?」
そんな問いを投げかけられた、その時だ。
――がらーん、ごろーん。
鳴るはずのない旧校舎のチャイムが、古びた校舎全体を揺るがすかのように鳴り響く。
そのチャイムの音は、不気味なぐらいに歪んでいた。
明らかに正常な鳴り方ではない。そもそも、何度も解体を決められた校舎なのに、チャイムだけが生きているとは思えない。
硬直する鬼灯の腕を引き、ユーイルが「急げ」と言う。
「もうすぐ授業が始まるぞ。早く机を直して席に着け」
「どういうこと……?」
「彼女は厳しいぞ。当てられたくなければ下を向いているんだな」
ユーイルは悪戯が成功した子供のように笑うと、
「オマエは本当に美味そうだなぁ、あそこで走って逃げていればよかったものを」
――嗚呼、どうやら鬼灯は嵌められてしまったようだ。
それも、逃げきれないところまで。
さあ、間もなく授業が始まる。
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