第2話【幽霊の噂】
――××高校の敷地の片隅に、旧校舎がひっそりと存在している。
木造三階建ての校舎はいつ見ても不気味で、生徒はおろか教職員ですら誰も入れないと言われている。
お荷物とも呼べる建物がいつまでも残っていると邪魔なので、歴代の校長はこの旧校舎を処理しようと考えた。その週のうちに工事業者が旧校舎を解体しようとするが、何故か解体されずにそのまま残されていた。
理由は簡単だ。
旧校舎には、幽霊が出る。
それは女性だったり、男性だったり、少年だったり、少女だったり、様々な噂が錯綜していて定かではない。どれかが本当だったり、どれも嘘だったり、どれも本当だったりするらしい。
ただ、数え切れないほどある旧校舎の噂話の中で、最も確実なものがある。
銀髪の男子生徒の幽霊が、いる。
彼は教室だったり、屋上だったり、廊下だったり、まさに神出鬼没の幽霊だ。ふとした拍子に現れて、面白半分で旧校舎を訪れた生徒たちを食うという話である。
とはいえ、その男子生徒に遭遇しても頭からムシャムシャ食べられて生きて帰ってこないという話はない。誰も彼も、旧校舎の扉の前に気絶した状態で捨てられているのだとか。
そして、その男子生徒のお眼鏡に叶うと、願いが叶うと言われている。
「眉唾モノよ、そんなの」
女子トイレで手を洗いながら、鬼灯の友人である
艶やかな黒髪に銀縁の眼鏡をかけた、知的な印象を受ける少女である。××高校の制服である真っ黒なセーラー服を着崩すことなく着用している様は、彼女が如何に真面目か窺える。
青柳永遠子と
永遠子は柳眉を寄せると、濡れた手をハンカチで拭きながら問いかけてくる。
「鬼灯ちゃん、本当にそんな話を信じるの? 幽霊が願いを叶えてくれるなんて、そんな馬鹿げた話があると思う?」
「それでも、私は信じてみたい」
鬼灯は、永遠子の銀縁眼鏡の向こうにある瞳を真っ直ぐに見つめて言う。
「私、もう嫌なの。この体質で悩むのは嫌」
そう言って、鬼灯は鏡を見やった。
磨かれた鏡には、自分の姿が映り込んでいる。
短めの青みがかった黒髪に、黒い双眸。可もなく不可もないという顔立ちに、表情らしいものはない。ニコリとも笑えない。無理に唇を持ち上げてみれば、気味の悪い笑顔が作られるだけだ。
その後ろに、誰かがいた。
女子トイレの片隅――何かが蹲っている。黒い靄を纏ったそれは、セーラー服を着た女子生徒のようだ。
首が人間とは思えない方向に折れ曲がり、ボサボサの長い黒髪の隙間から鬼灯をじっと恨めしそうに見上げている。血の気の失せた顔には正気すらなく、カサカサに乾いた唇が蠢いて何かを呟いている。
明らかに人間ではなかった。生きている生徒でもなかった。
「もう嫌……」
鬼灯は呟く。
ずっとこうなのだ、生まれてからずっと。
小学校、中学校、そして高校と歳を重ねても幽霊を引き寄せる体質は改善されなかった。お祓いをしても無駄だった。
だから、もうこんな噂に縋るしかなかったのだ。幽霊に人生をめちゃくちゃにされるのは、もう沢山だ。
その悩みを知っているからこそ、永遠子も同情的だった。
「鬼灯ちゃんがそこまで悩んでいるなら、あたしはもう何も言わない。でも、幼馴染として心配していることだけは覚えておいて」
「うん、分かった。ありがとう永遠子」
鬼灯は永遠子に微笑みかける。
本当に、彼女は優しい幼馴染だ。自分にも何が起こるか分からないのに、ずっと付き合い続けてくれる優しい少女。
永遠子に余計な心配を与えるのは心苦しいが、それでも鬼灯は旧校舎に行くことを選んだ。
この自分の厄介な体質を、旧校舎の幽霊にどうにかしてもらう為に。
☆
放課後になり、鬼灯は××高校の片隅にひっそりと佇む旧校舎へ急ぐ。
放課後とはいえ、まだ明るい時間帯だ。鬼灯は部活動にも入っていないので、余計に。
永遠子も「付き合おうか?」と申し出てくれたが、辞退した。彼女を自分の事情に巻き込む訳にはいかない。
ズン、と目の前に聳える木造の校舎は不気味な空気を漂わせていて、他人を寄せ付けない雰囲気がある。
「本当に入れるのかな……」
鬼灯は、ピッタリと閉ざされた旧校舎の扉に手をかける。
ぎぃー。
少し押しただけで開いた。
ほんの僅かに開いた扉から、埃っぽい臭いが鼻を突く。
校舎内を覗き込んでみるが、手前しか見ることが出来ない。どこまでも続く廊下の奥は闇に沈み、まだ明るい時間帯だと言うのに校舎内には陽の光すら差し込まない。
「行くしかない……」
自分の体質を改善する為にも、噂の銀髪の男子生徒とやらに会わなければならない。
鬼灯は意を決して扉を開け、校舎内に足を踏み入れる。
腐った床板が嫌な音を立て、錆びた蝶番が軋んだ音を響かせながら閉ざされる。
ぎぃー、ばたん。
ぎし、ぎし。
ぎし、ぎしっ。
校舎内に漂う埃っぽい臭い。
壁には黄ばんだ標語が掲げられ、いつに貼られたものなのか分からない。
床板も腐っているのか、穴が開いている部分がチラホラと見受けられる。あの穴に足を取られれば最後、幽霊に追いかけられでもすればタダでは済まない。
鬼灯はスマホのライトで前方を照らしながら、校舎内を歩く。
ぎし、ぎしっ。
ぎぃ、ぎしっ。
肌を撫でる空気が冷たい。まるで真冬みたいだ。
今の時期は初夏に差し掛かった時期だと言うのに、何故こんなに寒いのか。窓があるのに陽の光が一切入らないのが疑問だ。
それと、不思議なことに幽霊がいない。鬼灯の視界には、必ずと言っていいほど幽霊がいるのに。
ぎぃ、ぎしっ。
ぎっ、ぎしっ。
――――――――ぎしっ。
「ひッ」
鬼灯は上擦った声を漏らす。
背後から音が聞こえた。
この校舎内には、鬼灯以外の人間はいないはずなのに。
「だ、誰」
弾かれたように振り返った鬼灯は、スマホのライトで背後を照らす。
入ってきたばかりの廊下が伸びているだけで、そこには誰もいなかった。
ただ、埃が落ちた廊下には鬼灯が残した足跡以外のものが存在していた。
手だ。
誰かの手形。
「――手?」
鬼灯は目を凝らして、床の手形を観察する。
彼女が残した足跡の隣に、何故か手形がある。そこだけ手の形に埃がなくなっている。
どうして手形が? 理由はもちろん、不明だ。
「どうして手形なんかが……」
この汚い床で逆立ちでもしなければ、つかないはずなのに。
――ぎぃ、ぎしっ。
音が聞こえてくる。
何かの音が、確かに聞こえてくる。
――ぎ、ぎしっ。
近づいてくる。
――ぎし、ぎぃ。
すぐそこまで。
「――――誰かいるのッ!?」
スマホのライトを音のする方向に突きつければ、そこには誰もいなかった。
でも、確かに聞こえていたのだ。
空耳でも家鳴りでも、何でもない。誰かが歩み寄ってくる音が。
鬼灯は近づいてきた人物を探して周囲を見渡すと、
ばぁん!!
すぐ近くの部屋で、壁か何かが叩かれる音が耳朶を打つ。
それまで聞こえていた音とは違って、かなり大きい。誰かが悪戯で叩いているのだろうか。
音が聞こえてきた部屋には『職員室』とある。元々は職員室だったのか、張り紙には連絡事項が多いし掲げられた札も取れかかっている。
鬼灯は、閉ざされた職員室の扉の前に立った。
「…………」
覚悟を決めて、職員室の扉を開く。
ガラリと何の障害もなく開かれる扉。
その向こうには、荒れ果てた様子の職員室が広がっていた。
横倒しになった事務机がいくつも並び、教室二つ分の広さを有する職員室の奥には予定表という文字があらかじめ印字された黒板があった。黒板の上部には蜘蛛の巣がかけられ、全体的に埃っぽい。
窓にはカーテンすらないのに、陽の光が一切差し込まない。薄暗い部屋がどこまでも広がっていた。
音源らしいものはないし、音を鳴らした人物すらいない。
「どこに行ったの……?」
その時だ。
「ほおーう、オマエは随分と美味そうな匂いがするな」
声が、した。
「今日の晩餐はオマエにしよう」
――振り返った鬼灯が見たものは、ニヤリと悪魔のように微笑む銀髪赤眼の男子生徒だった。
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