第46話『真紅のドレスと無上の愛』
目の前に現れたのは、小さな、木目の目立つテーブルの上に重ねられた、ふたつの白い腕だった。その腕は、紅色のドレスの
紅色のドレスの主は、落ち着かない様子だった。手を寒そうに擦り合わせて見たり、袖を何度も
「派手じゃないかしら? 」
ドレスの主が言った。その声は、朝の空気の様に澄んだものだった。
視線が高くなった。どうやら、ドレスの主が、椅子から立ち上がったらしい。キシキシ と床を鳴らして、粗末な全身鏡の前で止まった。
「なんだか、奇妙ね」
ドレスの主が言った。焦げ茶色の、ゆったりとした巻き毛を後ろで ひとつに結わえた、茶色い瞳の、可愛らしい小柄な女性が映っていた。年齢は、30代後半、といったところだろうか。女性は、スカートの片方を持ち上げてポーズを取ると、愛らしく首を傾げて、眉を下げた。
「私には、派手すぎるわ」
「確かに、そうかも」と、リクは思った。挑発的なドレスに比べ、この女性の顔は優しすぎるのだ。しかし、このドレスを送った人物が、この女性をどれだけ大切に思っているのか、そのことは、鈍感なリクにでも分かった。
「これは、特別な日に着ることにしましょうか。けれど──」
瞬間、目の前に、アントワーヌの姿が浮かんだ。リクが はっとした時には、また鏡に映された女性の姿があったのだったが。
「折角、あの子がくれたんだもの。一度は、着た姿を見せてあげないと」
そう言って、女性は、はにかんで、首を振った。
「もしかして」リクは思った。「この人が、トニのお母さん? 」
リクの予想は合っていた。リクが、彼女の視線で見ている彼女こそ、アントワーヌの母親、ポリーヌであった。
「はあ、それにしても、遅いわ、あの子」
ポリーヌは、もう一度首を横に振ると、先程のテーブルへと歩き出した。
「また、お友達と遊んでいるのかしら。それとも、女の子とかしら。どちらにしても、いいことだわ。あの子ったら、いっつも私のことばかり。あの子も、そろそろ自分の人生を歩まなくちゃ」
スカートを引き寄せ、椅子に腰を落とそうとして、視界が クラリ と歪んだ。床に倒れ込んでいた。
「あら、どうしちゃったのかしら──」
立ち上がろうとして、短い
「どうしちゃったの? 」リクは、やはり、声が出なかった。代わりに、ポリーヌの悲鳴だけが
「トニ、トニはどこにいるの⁉ 」リクは心の中で叫んだ。が、その名前は、ポリーヌの口からも漏れていた。
「アントワーヌ! アントワーヌ! アントワーヌ! 」
閉ざされつつある世界に、彼女は必死に、息子を求めた。
伸ばした手が、玄関を開けた。目の前の階段を、転がる様にして降りて行った。その時には、彼女は、視力を完全に失っていた。
「ああ! アントワーヌ! 」
胸を引き裂かれている様なその声が、あちこちに響き渡って聞こえた。周囲が、
「あっ、あっ……」
ポリーヌの息の音が、微弱になってゆく──その時、急に、
すると、次の時には、彼は一丁前にジャケットを羽織って、街灯に立っていた。彼は、木のお手玉を地面に落下させる度に、道行く人々から
また場面は変わった。髪を撫で付け、上質な、紺色のジャケットに袖を通した彼が、何やら
「母さんを思って選んだんだ! 」
リクが今までに見たことがなかった彼が、そこにいた。
キラキラ と瞳を輝かせる彼は、
「気に入ってくれるといいんだけど」
ポリーヌは、箱の中を
「素敵ね」
彼女が顔を上げると、彼の、太陽の様な笑顔が待っていた。
「今度、これを着て街を歩こうよ。ふたりでさ。きっと、皆、
リクには、その時の彼女の表情は見えなかった。しかし、彼女が微笑んでいるのは分かった。
「トニ。いい子ね。でもね、母さんは、街の主役になんてならなくていい。お前が心から笑顔でさえいてくれるなら、片隅だって、地獄の底でだって、何でだって、幸せなんですもの──」
彼女は、そばかすが散る彼の頬を、優しく撫でた。
アントワーヌが静かに微笑む。
そこで、全てが途絶えた。
暑さも寒さも感じない、何も聞こえない、何も
「このまま私、ここにいたい──」そう、思いかけた時だった。彼女の脳味噌が、奥底から、重大な記憶を引き
白い髪の毛、白い肌、金色の瞳。“砂の精”の存在を! “カレ”は、そう、リクを、攻撃したのだ! 「その後、私、どうなったんだっけ? 」記憶が無い──
「まさか」
リクは暗闇の中、気がついた。
「これが、アダムの言っていた状態? 自分を失い、抜け殻の様になるって──これが……」
それなら、今の私は、このままでは不味い! そう思うのと同時に、解決の方法は、既に分かっていた。
「アダムが言ってた! この状況を脱するには、“いちばん大切なものを、決して忘れないこと”を忘れないことだって! ──私の、大切なもの……」
リクは、目を閉じた。「大切な、もの──」
暗闇が、少し和らいだ気がした。
リクは、続けて思い出した。
次に現れたのは、汽車の中の様子だった。リクはオーバーオールを着て、モップを肩に担いでいる。前には、リクと同じ衣装を着たアダムが偉そうに歩いていて、後ろには、温厚なニックが、やはり同じ格好をしてついてきている。
「いいか、きょうは客が多いからな。モタモタ してねえで、さっさと終わらせるぞ」
後ろを歩く ふたりを振り返りもせず、アダムが言った。それでも、リクとニックは笑っていた。
「了解! 頑張ろう! 」
扉を開いた。
そこには、コリンとミハイルの姿があった。
「やっと来てくれた! きょうも大変なんだよ。ボガートが部屋を滅茶苦茶にしちゃってさ──」
そう訴えるコリンの横で、ミハイルは、いつもの様に、ぼんやりしている。
掃除道具を手に歩き出した彼らは、食堂に続く扉を開いた。そこには、レアとゾーイとソジュンがいた。
「頑張ってるね、リク。ところで、昼食のメニューを考えてるんだけど、いいアイディアある? 」
ゾーイが、小さく手を振って言った。
「アディったら、またリクをこき使っているんじゃないでしょうね? 」
眉を吊り上げたレアが、アダムに文句を言った。
「レアさん! アダムさんたちは お仕事をされているだけですよ。すみません、皆さん。また、昼食の時に! 」
礼儀正しいソジュンが、皆のことを見送った。
また扉を開いた。
廊下を通り過ぎてゆく途中、ロバ頭のメル=ファブリの部屋の中から、彼の重たい足音が聞こえた。リクたちは そこで、
「仕事中じゃ。邪魔するでないぞ」
穏やかな口調で叱られ、リクたちは そそくさと退散した。
「全く、うるさいロバね! 」
アダムのシャツの袖が白く光り、リーレルたちピクシーのキョウダイが現れた。
1号車へ続く扉を開くと、人形の石炭士、マリアとマルコが、相変わらずの騒がしさで登場した。
「ポッドの
「ボクたちが運ばなきゃ! ひひひ、ひひひ! 」
笑い合って去っていく ふたつを見送った。
リクたちの背後の貫通扉が閉じるのと ほとんど同時に、ロイヤルスイートの扉が開いた。向こうから、アントワーヌが現れた。
「じゃあ、また夕食の時に」
指揮官は部屋の中に向かって声を掛けて、振り返った。リクたちを見つけて、「しっかりやっているだろうなあ? 」と疑わし気な表情になった。
「誰かいるの? 」と後に続いたのは、汽車のオーナーのシンイチで、彼はアントワーヌの肩越しにリクたちを見つけると、「仕事なんて、大変な事をよくやるよ」と溜息を吐いた。
「そうでもないよ! 」リクは笑った。「何かを一生懸命にやるのは楽しいし、それが、大好きな皆の為になるなんて。それって、一石二鳥じゃない? 」
その言葉に、アントワーヌが、ホッ と笑った。
「お前を、この職に就かせて正解だったな──リク」
「リク」
その名前が、リクの闇の中に反響した。
「リク」
「リク」
「リク! 」
視界が焼ける様に白く、明るく、光を増してゆく。
「リク──! 」
リクは、目を覚ました。そこには、リクが、暗闇の中で思い浮かべた顔があった。
膝の上に、リクの頭を乗せていたレアの涙が、額に降ってきた。「リク! 目を覚まして頂戴! 私、私──! 」また大粒の涙がリクの額に流れた。
「レア! リクが目を覚ましたぞ! リク! おい、平気か⁉ 」
一方で、リクの両の手を痛い程きつく握り締めていたのがアダムで、彼は目を開いたリクに気がつくと、更にきつく、手を握った。
「やっと気がついたわ! トニだけでも大変なのに、手こずらせないでよねっ! 」
腹の上には、白く輝くリーレルたちの姿があった。どうやらリクに、例の“とっておきのお
左手にはニックがいて、この優しき男は、リクの肩を大きな手で覆いながら、「よかった、よかった」と呟いていた。
大男の後ろに見えるコリンは泣き出しそうな笑顔を見せ、その隣で、木でできた双子を抱きかかえるミハイルは、リクが目覚めたのを確認すると、不器用に口角を持ち上げた。
「ニックが気がついてくれたんだぜ。丁度、運転室に向かう途中でさ。良かったぜ、本当に」
アダムが状況を説明してくれている間に、リクは、ほとんど無意識に、視線を巡らせていた。どうやらここは、リクが向かっていた、食堂車の中らしい。
「あ……」
リクは、短く声を発した。空気を震わせる自分の声が、新鮮に感じた。
シンイチとメル、そして、ゾーイとソジュンに支えられた、アントワーヌの姿があったのだ。
今にも後ろへ転げてしまいそうな、
「リク──」
彼はただそれだけの言葉を、絞り出す様に言った。懸命に立っていたアントワーヌであったが、その一言を言い終えると、床に膝をつけた。苦しそうに肩を上下させている。
「トニ」
未だ夢見心地のリクは、レアとアダムが抑えるのも振り払って起き上がると、ワインレッドの服を着る、指揮官の元へと
「すまない、俺は──」
言いかけるアントワーヌに、そっと首を振ると、リクは、彼に微笑み掛けた。
「あのね、トニ。聞いて欲しいことがあるの。あのね、信じられないかも知れないけどね、私、トニのお母さんの記憶を夢見てたんだよ」
アントワーヌの深く青い目が、リクに向いた。リクは、その澄んだ美しい瞳に話し掛ける。
「トニのお母さんはね、紅色のドレスを着てたよ。トニが、お母さんにあげた洋服だよね? それを着てお母さん、焦げ茶色のテーブルと、リビングの奥にある全身鏡を行き来してた。鏡の前で、嬉しそうに、ドレスを見つめてた──」
リクは、唇を少し噛んだ。
「またテーブルに戻ろうとして、突然視界が眩んだの。苦しみだして、それからは、すぐだった──トニのお母さんは、何度も何度も、トニの名前を繰り返していた。叫びながら、何度も、何度も……」
「何度も──」
アントワーヌが、呟いた。その目は、ジっ と、リクを見つめたままだった。リクは頷いた。
「何度も。聞こえてくる音も、ずっと遠くになっていった。それからね、あれは、走馬灯っていうのかな? トニのお母さんが、夢を見始めたの」
「夢──」
「その夢はね、トニの記憶でいっぱいだった。お母さんの腕の中で、スヤスヤ 眠ってるトニ。お母さんの為に、無理して笑っているトニ。お母さんに、紅色のドレスを買って帰ってきたトニ。ねえ、トニ。あの時、トニがお母さんから言われたこと覚えてる? トニが、“俺たちは片隅の人間じゃない”って言った時。お母さんが、何て答えたのか──」
アントワーヌの、こけた
「トニのお母さんはね、こう答えたんだよ。“トニが、心から笑顔でさえいてくれるなら、何処にいたって、幸せだ”って。そう言ったんだよ」
「母さん──……」
「トニのお母さんの記憶はね、トニの笑顔で終わってた。お母さんは、こんなトニの顔、見たくないと思うよ。こんなに苦しそうな顔、しないで欲しいんじゃないのかな。ね、トニ──トニ? 」
リクは手の甲が濡れる感覚に、はっとして、目の前の男を見た。
どんなに苦しいことがあっても、決して流さないと誓った涙が、溢れて 溢れて止まらなかったのだ。沢山の愛で包まれた、その男は、ボロボロ と大粒の涙を伝わせながら、ケラケラ と笑っていた。目を閉じて、リクに そっと頷いた。「本当、変な奴」
「今、生きたいと、思えたよ」
言い終えて、彼は、糸が切れた様に意識を失った。
「トニ⁉ 」
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