第41話『水の市場とおおきな荷物』

 “水上の市場”と言われて、リクは、運転席に身を乗り出して外の景色を見た。

 森の美しき妖精、パックに案内されて出たのは、川に面した林の中だった。

「ほら」とゾーイが指差す茶色い川には、色取り取りの物を乗せた手漕ぎの小舟が、数えきれないほど浮かんでいて、その上には、か細い木の吊り橋が揺れていた。時々、モーターボートが行き来する。その周囲を、えさを待ち望むこいごとく、小舟が囲んでいる様子を見ると、ボートに乗っているのが、街を訪れた観光者たちなのだろう。小舟を操る、めかし込んだ女性たちの活気のある笑い声が、車の分厚い窓を突き破って聞こえてきそうだった。

「凄いね」

 リクがつぶやくと、隣に座るソジュンがうなずいた。

「世界は、まだまだ知らないことで溢れているんだ」

 一方で、前の席に座る ふたりは、慣れた様子で車のドアを開くと、口を開いたままの新人たちに、「さあ、行くわよ」と声を掛けた。

「行くって、どこに? 」

 ぼんやりしたリクがたずねると、美しいウェイトレスのレアは、「信じられない! 」とでも言いたげな表情を見せて、「市場に決まっているでしょう! 」と叫んだ。

「でも、どうやってです? 」

 今度はソジュンが、間の抜けた声で尋ねる番だった。

 その質問に答えたのは、つややかな褐色かっしょくの肌を持つ、ゾーイだ。

「船を借りるの」

 ゾーイは簡単に言うと、リクたちも下車する様にうながした。

 車の後ろには、先程リクたちが通ってきた木の輪が、大きく口を開いていた。

「ここから出てきたんですね。不思議だ」

 木の幹がけて作り出された輪を観察して、ソジュンが呟いた。

「本当よね」レアも、パックに導かれた、《妖精の近道トンネル》の出口に視線をやった。「不思議なことでいっぱいだわ」そう感想を漏らして、歩を進めた。


 人が集まるモーターボートの発着場に着いても、国籍様々なリクたちを怪しむ者は誰もいなかった。それどころか、船尾に座る白髪交じりの男性が手を振ってきた。このボートの運転手なのだろう。

「お姉さんたち! 乗ってかないか? 」

 ボートの船長が手を上げたまま、リクたちを誘った。

「ええ、いいの? 」

 リクが聞くと、船長が、困った様な表情をして、首を傾げた。

「日本人? ごめんね、言葉は分からないや」

 そう返されて、リクは「あ」と翻訳機をつけた耳に手を当てた。「そうだ、こっちからの言葉は訳されないんだった! 」

 「どうしよう」とまゆを下げるリクに、ゾーイが「任せてよ」と微笑んだ。

 聡明そうめいなウェイトレスは、一歩進み出ると、船長に愛嬌あいきょうたっぷりの笑顔を見せた。

「こんにちは、お兄さん。英語は話せる? 」

「こんにちは。ああ、流暢りゅうちょうではないけど、話せるよ」

 リクの言葉は さっぱりだったボートの船長は、ゾーイにそう返した。

「良かった」ゾーイは、胸をでおろす仕草を見せると、「これ、乗れるの? 」と聞いた。

「ああ、乗れるよ。ただ、無料って訳じゃないけどねえ。こっちも、ほら、仕事だからさ」

「勿論! お金は構わないから、お願いしてもいい? 」

 ゾーイの交渉のお陰で、リクたちは、しばらくもしない内に、水上マーケットに集う小舟に取り囲まれていた。

「それにしてもさ」

 リクは、次々と会計を済ませていくゾーイに、違和感を覚えていた。

「その赤い モジャモジャ した果物いくら? 5千ルピアだね。ねえ、5千ルピアって、どういうのだったっけ? ちょっと見せてくれる?」

 芥子色からしいろの革のボロ財布を手に持ったゾーイは、会計の度に、こんなことを、いちいち尋ねるのだった。

「はいはい、これだよ。この茶色いのが、5千ルピアね」

 船長は、もう懲り懲りと言った表情で、お札を取り出して見せた。

「分かった。ありがとう。ごめんね、何度も聞いちゃって」

 ゾーイは、輝く様な笑みを目元に浮かべて、財布を漁った。「はい、これ」と小舟の商売夫人に伸ばした指先には、先程、船長が見せてくれたお札が挟まっていた。

「あとこれ、全部貰うには、いくら払えばいいの? 15万ルピアね! ええっと……」

 ゾーイはまた、船長に視線を向けた。黒曜石こくようせきの様な瞳に射抜かれた船長は、やれやれ と首を振ると、10万ルピアと5万ルピアを、この困った客に確認させた。

 リクは首を傾げた。

「ゾーイってば、さっきも10万ルピアのお札の柄を聞いてなかったっけ? 」

 リクが聞くと、船の縁に ゲッソリ ともたれ掛かるレアが答えた。

「“メリーの革財布”のせいよ」

「“メリーの革財布”? 」

「そうよ。ゾーイが持っている、あの お財布。あれは、メリーの物なのよ」

「メリーって、衣装係のメルのことだよね。財布なんて大切な物。どうしてゾーイが持ってる訳? 」

 リクが聞いている間に、ゾーイは向かいの小舟に積まれていたランブータンという紅色の果物を、すっかり自分たちの物にしていた。小舟の夫人を手伝って、ソジュンとモーターボートに商品を移しているところだった。

 しかし、すっかり船の揺れに負けてしまっていたレアは、それどころでは無いらしく、「手伝うよ」と立ち上がりかけたリクの服の袖を引っ張って止めた。大好きなリクとお喋りしていないと、今にも人生最大の恥を見せてしまいそう、と言わんばかりだった。

「私たちの汽車は、どういう性質をしているのか、もう分かっているわよね? 」

 レアは震える声で聞いた。

「うん。世界中、色々な時代に止まるんでしょ? 」

「そうよ」リクが、再び自分の前に腰を落としたのを、嬉しそうに見つめながらレアは頷いた。「そこで、困ったことってないかしら? 」そして質問を続けた。

「困ったこと? 」リクは、うーんとうなる。「車が使えないとか? 」

「違うわ。勿論、そういうこともあるけれど、いちばんはお金よ。ほら、あんまりにも古い時代に止まったりなんかしたら、どうやって、お金を両替すればいいのかしら? 」

「あ、本当だ! 」

 レアの言葉に、リクは目を大きくして言った。しかし、すぐに目を細めると、顎にしわを寄せ、「でも、それと、メルの財布と、どう関係があるの? 」と尋ねた。

 リクの問いに、若いウェイトレスは、青ざめながらも、ゆっくりと説明を始めた。

「メリーたち、レプラホーンと呼ばれる妖精は、本当に守銭奴しゅせんどなの。ケチで、ずる賢くって。カレらは、能力を持っているのよ。そうやって、自分たちが持っている お金を守ってきたの。ゾーイが持っている革財布はね、物をお金に化けさせる、メリーの能力を宿したお財布なの」

 リクは、ゾーイを振り返って見た。快活なウェイトレスは、再び、大胆な買い物に徹していた。お札の確認を、何度も何度も行いながら。

「実物を見せて貰うことで、財布の中に入っている物を、そっくりそのまま、そのお金の形に変えるのよ。夢の様なお財布よね。面倒なことといったら、見せて貰って直ぐにしか、変えることができないってことかしら。その為に、ああやって、何度も見せて貰っているのだし」

「え、でも、それってさ」と、リクがさえぎる様にして言った。「詐欺、じゃない? だって、物をお金にって──」

「もう、リクったら、人聞きが悪いんだから! 私たちは、しっかり対価を払っているのよ?ただの紙っ切れとは全然違うんだから! 」

 リクの言葉に、レアは可愛くっぺたを膨らませた。

「あのお財布の中に入っている“物”っていうのは、本物のきんなの。丁度、板チョコレートの、ひとかけら分の大きさの物よ。それを、お札や、硬貨に変えているの。だってほら、突然、きんを出されても、現地の人も困るじゃない? それに、私たちが危ないもの! お金持ちだって思われて、襲われたりでもしたなら大変よ」

 レプラホーンの偽造の能力は、2時間程度で切れてしまうのだと言う。

「それまでには、引き上げないとだわ! 」

 ゾーイによる大盤振る舞いに、噂を聞きつけた小舟たちが、次々集まってくる様子を横目で見ながら、レアは、独り言を言う様に、話を続けた。

「アディがね、以前、2時間もあるんなら、本当のきんを渡さなくてもいいんじゃないのかって提案したことがあるの。つまり、そこら辺に落ちている砂とか、適当な物をお財布に入れて、お金に変えればいいんじゃないかって。でも、トニがそれを許さなかったの。“お前は、食うのに困るという経験をしたことがないから、そう言えるんだ”って。本当に怖い顔をして怒っていたわ」レアは、当時のことを思い出しているかの様に、目をつむり、ささやく様に言った。「本当に、恐ろしかったわ。あの頃は、どうしてトニが、そんなに怒っていたのか、分からなかった。けれど、今なら分かるわ」

 閉じていた彼女の青い瞳が、リクを真っ直ぐに見つめた。

「リクも、そうよね? 」

 静かに、そう問われて、リクは無言で頷いた。


 満足な買い物を終えたリクたちは、モーターボートから荷物を下ろしていた。

「無理言っちゃって、ごめんね。車の前まで送ってくれ、なんてさ」

「いいや、いいんですよ」

 ポケットから溢れるほどのチップを受け取っていたボートの船長は、消えて無くなってしまいそうなくらいに目を細めて、荷下ろしを一緒に手伝ってくれていた。

 ボートの上にうず高く積まれた、果物が ぎっしり 入ったかごを、それぞれが手分けをして運び出している最中、レアは ぐったり と、車体に寄り掛かっていた。

「レア、大丈夫? 」

 「よいしょ」と籠を地面に着地させながらリクが聞くと、頭に乗せたヘッドドレスの様に真っ青になっていたウェイトレスは、「ええ、なんとか、ここで留めているわ」と自分の喉元を擦って言った。

「酔い止めなら、持ってますよ」

 人の良い船長が、見かねて薬を持って来てくれた。バンの前まで近付いて、全体の大きさを目で測る様に眺めた。

「ところで、こんなに大きな荷物、どうやって持って帰るんですかい? それに、お客さん方、こんなところに車を停車なさるとは、随分と変わったところからおいでな様だし」

 中年の船長は、自分でそう喋りながら、「あれ」と気がついた。

「そういえば、どうやったら、こんなに大きな車を ここに持ってこれるんだろう? 車も、周りの木も、全く傷ついている様子も無いし。それにだ。はて、車の頭が向いている方向を考えると──あの先に旅館なんて、あったか? 」

 リクたちの翻訳機のことを知らない船長は、母国語でそう呟いたのだった。が、ギラギラ と探る、人を怪しむ目は、隠し切れないでいた。

 ボートの中から、最後の籠を拾い上げたゾーイは、急いで財布を取り出すと、そのままのきん欠片ピースを取り出して、船長に握らせた。

「本当に、お世話になったね。ありがとう。これ、きんだよ。これをお金に変えるなり、取っておくなりしてよ。ここまでしてくれたお礼。ね? 」

 早口にそうまくしし立てたウェイトレスは、男性を強引にボートに乗せた。戸惑いながらも、エンジン音を高らかに響かせながら遠退とおのいていく船に、「ありがとねえ! 」と、笑顔で手を振っていた。が、警戒の眼差しは緩めようとはしなかった。

「やっと行ったわね」朝の景色の中に、ボートの影が吸い込まれていったのを見て、うずくまるレアが言った。「私たちも、そろそろ準備しなくちゃだわ」立ち上がろうとして、フラフラ と尻餅をついた。

「ちょっとお、平気なのお? 」

 語尾を引き伸ばす様な喋り方で、ゾーイがレアに声を掛けた。

「レアは運転があるんだし、荷物は私たちに任せて、車の中で少し寝てたら? 」

 そう言って、後部座席のドアを開いた。と、思ったら、「わっ! 」と後ろに飛び退いた。

「ゾーイ⁉ どうしたの? あっ! 」

 口を パックリ 開いたままのゾーイに駆け寄ったリクも、バンの中を見て、 ギョッ と固まった。

「な、な、何⁉ 」

 ドアを開けた先に、黒茶色の小人が、ギッチリ と詰まっていたのだ!

「なんと! チーズさんがいっぱいですね」

 リクとゾーイの間から、顔を覗かせたソジュンが言った。新米料理長の言う通り、バンの隅から隅までを埋め尽くしている小人たちは、アントワーヌの部屋で会った、チーズと同じ種類の妖精だったのだ。

「どういうことよ」

 ドアまで這いつくばってきて、レアが小さな声で言った。

 外の光に照らし出されたホブゴブリンたちは、赤い目で、リクたちを じっと見つめると、ふごっ と鼻を鳴らした。椅子の上に立っていた1匹が、真剣な面持ちで口を開いた。

「ふごっ! ふごっ! 」

「な、何? 何て言ってるの? 」

 リクは、片方の眉だけを器用にひそめて、頬をいた。すると、いつもなら頼りないソジュンが、前に出てきて頷いた。

「ふんふん、やはり、チーズさんでしたか! この度は、うちの指揮官のことで、お世話になっております」

 そう言って、首だけでお辞儀をすると、椅子の上から話し掛けてきた妖精は、嬉しそうに ふごっ と鳴いた。

「え、ジェイは、妖精の言葉が分かるの? 」

 リクが聞くと、ソジュンは首を傾げるでも縦に振るでも無い、不思議な仕草をして、「いろいろあってね。正確に、ではないけど、なんとなくなら分かるんだよ」と答えた。

「いろいろって? 」と聞きそうになっていたリクの心を読んだかの様に、チーズが再び鼻を鳴らした。

「何て? 」

 ゾーイが、ソジュンに顔を向ける。

「お手伝いに来たって言ってます」

「ふごっ! 」

「頼まれたって」

「誰に? 」と、レア。

「ふごっ! 」

「アタシによ」

 すると、聞き覚えのある声が、チーズの背後から響いてきた。

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