第39話『凍える悪夢と伝達係』

 子供たちの無邪気な笑い声が こだましていた。

「ここは? 」

 キョロキョロ 見渡すリクだが、白い霧に目隠しされていた。しかし、すぐに、答えが返ってきた。

 真っ白に歪む向こう側から、歌が聞こえてきたからだ。


『砂の精とは手を繋ぎ 丘を目指して歩こうか』──……


 つややかな その歌声は、時として軽やかな笑い声を織り交ぜながら、続きを奏でた。


『おしゃべり少女は白紙の文字 運命握るは時の罠』──……


「歌詞が、違う」

 リクがそうつぶやくのと ほとんど同時に、目の前の霧が縦に裂けた。

 悲鳴を上げ損ねたリクが固まったままでいると、真っ黒な背景から ヌルリ、黄金色の瞳が現れた。“砂の精”のものだ。

「ひっ! 」

 口を開きかけたリクのあごを、“砂の精”は、純白の手袋をめる手で、鷲掴わしづかんだ。

 リクの視界いっぱいに、“カレ”の薄気味悪い微笑みが映し出された。


『君の存在は予見の外 ボクが選んだ運命の欠陥』


「いいかい、お嬢ちゃん。よおく聞くんだよ? 」


『君の存在は予見の外 ボクが選んだ運命の欠陥』


「君は、ここにいない方が、いい人間なんだ」


『君の存在は予見の外 ボクが選んだ運命の欠陥』


「実態を持ちつつあるボクは、いつだって君を呪うことができる。ポリーヌの様にはなりたくないだろう? 」


『君の存在は予見の外 ボクが選んだ運命の欠陥』


「だから、これ以上、ボクに近寄らないことだ」


 “砂の精”はそれだけ言うと、リクの顎から手を引きがした。寒気のする笑みを顔に張り付けたまま、暗闇の中に溶け込んでいった。

 また、目の前が霧で覆いつくされた。


 まぶたを開けても、そこは真っ暗闇だった。

「変な夢見ちゃった」

 リクは独り言をぼやいて、ベッドから起き上がった。ベッドの下から靴を引きり出して、サイドテーブルに乗せた丸眼鏡を装着した。そのまま、部屋の引き込み戸を開いた。

 まだリクが、小学校に上がりたてだった頃。集団行動に長けていなかったリクは、その緊張から、毎晩の様に怖い夢を見ていた。暗いうちに目が覚めてしまう。その度に、母親は優しい顔で、ホットミルクを作ってくれたのだった。「リクは良く考える子だから」と、温かい言葉を掛けてくれながら。

 ホットミルクを飲むと、気分が スッ と落ち着く。ソワソワ した気持ちが ポッカリ 晴れて、次に目を閉じるのも、怖くなくなるのだ。だからリクは、小学校を卒業し、中学へと進学し、念願のひとり部屋を持っても、その習慣を続けていた。

 食堂車の扉を開いて、リクは「あ」と声を出した。

「あら、リク。おはよう! 丁度、起こしに行こうかしらと思っていたのよ」

 そこには既に、煌々こうこうとした明かりが点けられ、めかし込んだレアが立っていたからだ。

「今、何時? 」

 リクが聞くと、ウェイトレスは調理室の方へ振り向いて、「ジェイ! 今何時ですっけ? 」と大声を出した。

「3時です、レアさん! 出発まで1時間しかありませんよ! っと、うわあっ! 」

 調理室から、ソジュンの情けない叫び声が聞こえてきた。きっと、また何かを ひっくり返したのだろう。ゾーイのなだめる様な低い声も聞こえてきた。

「市場って、そんなに早くから出掛けないといけないの? 」

 目を大きくしたリクが聞くと、美しいウェイトレスは華やかな笑顔でうなずいた。

「そうよ。きのうお茶の時間に、アディから地図を見せて貰ったの。それによると、私たちの汽車は、とんだ山奥に停車してしまったみたいなのよ。街までは、車でかなり掛かるわ。それに、市場が始まる時間は凄く早いのよ! 本当なら、今すぐ出て行かなければならないのだけれど、お腹が空いたまま行くなんて! 」

 レアはそこまで言って、リクを席へと案内した。

「だから、今から、朝食を食べましょう! 」


 この日の朝ご飯は、野菜のたっぷり入ったスープとパンだった。「冷めたらまた温めればいいし、一度にたくさん作れるから楽なんだよ」と、ゾーイは言った。

「それにしても、リクは本当にグッドタイミングで起きて来てくれたね。お陰で、予定よりも早く出発できそうだよ」

 スプーンにすくったスープを冷ましながら、ゾーイが言った。

「市場に行くのが、楽しみだったんじゃないかしら? 」

 ピンク色のマニュキュアが丁寧に塗られた指で、パンを可愛く千切るレアが言った。

「僕も楽しみで、予定の時間の30分も前に起きてしまいましたよ」

 ソジュンが、レアに微笑み掛けた。

 リクは、楽しそうに笑い合う3人を上目遣いで見つめたまま、首を横に振った。

「変な夢を見ちゃったんだよね」

「変な夢? 」

 ゾーイが首を傾げた。

「うん」

 リクは頷き、夢で見たことを全部話した。白い霧、現れた“砂の精”、歌詞が変えられていた歌のこと、忠告──

「“リクのことを呪うことができる”。本当に、そう言ったの? 」

「そう。“ボクにこれ以上近付くな”。そう言われて、目が覚めたの」

「なんだか、不気味な夢ね」

 レアが実際に凍えているかの様なジェスチュアをして見せた。

 一方でソジュンは、難しい顔で腕を組んで、「それにしても、書き換えられていた歌の歌詞が気になるね。『運命の欠陥』とは、何なんだろうか? 」と首をひねった。

 ソジュンの疑問に、視線を落としていたゾーイは、ようやくスープを口に流し込むと、静かに言った。

「とにかく、アディの言う通りなのかも知れないね。これ以上、トニに関わるなって、いうこと。“砂の精”が直々に、私たちに忠告してきてるんだから。きっと、大変なことになる」

「その通りなのかも、知れないわね」

 それには、皆が頷いた。ただひとり、リクを除いて。


 食堂車のメンバーが、食器を片付けている間、リクはお遣いを頼まれていた。

 1号車、スイートルーム。丸いステンドグラスが嵌め込まれた部屋の扉を、リクは慎重にノックした。

「お邪魔します」

 そう言って、ソロソロ と扉を開いた。

「よ」

 そこには、汽車の若い炭鉱夫、アダムと、スチュワートのミハイルの姿があった。

 ベッドの上のアントワーヌは、きのうと同様、気持ちの良さそうな寝息を立てている。ミハイルの おまじないが、不安定な光の輪を描きながら、周囲を照らしていた。

「あれ? ニックは? 」

 たずねられた炭鉱夫は、手に持っていた本を、音を立てて閉じると、椅子の上で伸びをした。

「もうそろそろ出発だろ? だから、車出しに行ってんだよ。もしかして、その用事で来たのか? 」

 そう問い返され、リクは頷いた。

「出してくれてるんなら、いいや。ありがとう」

背を向けようとして、アダムに引き留められた。

「これ、持って行けよ」

「何? これ」

 リクは、アダムが差し出してきた、四つ折りにされた小さな紙に視線を落とした。

「ここの地図。わざわざ用意してやったんだから、感謝しろよ」

「ありがとう」

 そう言って、早速 地図を開きかけたリクを、アダムが、「あ、それ、車の中に入るまでは開くなよ」と制止した。

「どうして? 」

 急いで紙を閉じ合わせたリクが尋ねると、アダムは小さく笑い声を立てた。

「どうしても。じゃあな、頼んだぜ」

 眠たそうな表情を見せるアダムは、そう言うと、小さく手を振りながら扉を閉めた。

「何なの? 」

 閉められた扉に、リクは ぶつくさと言ったが、「アダムの意地悪は、今に始まったことじゃなかったね」と気を取り直して、再び、食堂車へと歩き出した。


 扉にもたれ掛かり、遠退とおのいてゆくリクの足音に、耳を澄ませていたアダムを、ミハイルは、振り向いて見ていた。

「アダム、疲れてる。寝る? 」

 その問い掛けに、炭鉱夫は静かに首を横に振った。

「トニは? 」

「あんまり、良くない」ミハイルは、声をしぼめて言った。「汽車、の、出発、もたない、かも」

「そうか」

ミハイルの返答に、アダムは視線を墜落させた。

「悲しい? 」

 扉の反対側に位置する、窓に移動するアダムを目で追いながら、ミハイルが聞いた。手元の光が、パチパチ と瞬いた。

「悲しい……ちげえな」

 窓を上に押し上げて、アダムは答えた。

 涼しい夜の空気が、室内を満たした。ミハイルは、気持ち良さそうに目を細めた。

「悲しい、と、違う」マッチを擦る音に、耳を ピクピク させながら、ミハイルはささやいた。「人間、難しい。ね? 」

 《入れ替わりの精チェンジリング》のスチュワートは、そう微笑んで、枕に埋もれるアントワーヌの、赤い髪の毛に触れた。すると、不思議なことに、触れたところが薄っすらと金色こんじきに灯った。

 しかし、その様子を、若い炭鉱夫は見ていない。窓の外に、煙草の煙を吐き捨てていた。

 車のエンジン音が、微かに聞こえてくる。

「人間は、難しい。そうだな。俺も、俺の気持ちに整理がつかねえよ。俺は、トニ──聞かねえでくれ」暗闇に溶け込んでゆく煙の様な、微かな声で、アダムは続けた。「死んで欲しくなかった。なんとしてでも救い出したかった。それが俺の本心なんだ……」

 輝きを失ったアントワーヌの髪の毛を、華奢きゃしゃな指でかしながら、ミハイルは頷いた。

「ちゃんと、分かった」

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