第32話『頭でっかちとくらやみ当番』
リクは、ステンドグラスの
「レア、お疲れ様。来たよ」
あの後、アダムは、ある紙をテーブルの上に広げた。
「何、これ? 」
その横長に敷かれた用紙は、縦線と横線とで区切られた表になっていた。縦線の左側には、従業員たちの名前が羅列され、横線の上部には、3時間毎に数字が振ってあった。縦線と横線が交差してできる箱の中が、チェス
「シフト表ってやつだね? 」
用紙をまじまじ見たゾーイが、リクからの質問をアダムに繋いだ。
アダムは「シフト表? 」と首を
「まあ、簡単に言うと、皆のスケジュールを管理した表だ。リーレルやミカ、他に、トニを助けたいと言ってくれた妖精たちとは別に、
俺って、準備がいいだろ? と、アダムは得意気に鼻を鳴らした。
「アディにしては、いいアイディアね」レアは明るい表情でそう言うと、「それで、行動はいつから始めるの? 」と質問した。
アダムは、「“俺にしては”って何だよ」と、ぼやきつつも、レアの問いに口角を クッ と持ち上げ、「当たり前だろ。今からだよ」と答えた。
「今は午後の3時。ということは──」
「僕からだね! 」
コリンはそう言って、立ち上がった。
「ああ。6時までがコリンで、その後がレアだ。皆、予定表通りに、頼むぜ」
アダムのその言葉を合図に、話し合いは お開きになった。
部屋に入って、まず目に入ったのは、やはり、ベッドに横たわっているアントワーヌだった。
「ぐっすり眠ってるね」
規則正しい寝息を立てているアントワーヌの横には、マリアとマルコくらいの背丈の、全身が黒茶色の小太りの妖精と、フリルの服に身を包んだ、美しいウェイトレスのレアがいた。
「こんばんは、リク。私の次がリクだったのね。しっかり仮眠は取って来たかしら? 」
リクの登場に目を輝かせたレアは、ベッドの向こう側から、リクにそう
リクは ほっとして、レアに微笑み掛けながら、首を横に振った。
「食堂での話し合いの後、アダムからも、よく寝ておく様にって言われてたんだけどね。緊張しちゃって、全然眠れなくって」
リクの返答を聞いて、レアは ふふふ と
「私も、よく眠れなさそうだわ」
そう言って、レアは、アントワーヌを見下ろした。
「今は大人しく寝ているけどね。時々、本当に苦しそうに顔を
リクは、「そうだね」と
レアもその視線に気がついたらしい。「あっ! 」と声を上げると、トニの腹部に手を
「ありがとう。よろしく、チーズ」
リクは、床の色と全く同じ色をした妖精に握手を求めたが、レアの、「ああ、その子、人間の言葉がさっぱりなのよ」という説明に、手を引っ込めた。
レアは、リクに自分が座っていた椅子を譲ると、アダムからの伝言を早口に説明し始めた。
「私たちがここでトニの様子を見る、いちばんの目的は、万が一、容態が悪化した時に、すぐに気が付ける為よ。食堂でも言っていた通り、こうして、チーズたちが掛けてくれているお
「うん」
「私たちがトニの番をする中で、最も
「分かった」
リクが頷くと、レアは、「その他の細かいことは、この紙に書いてあるから、困ったことがあれば、これを参考にして頂戴」と言って、椅子の横に置かれた、サイドテーブルの上に置かれたコピー用紙を指差した。
その用紙には──アダムの文字だろうか──黒いインクで長々と、何行にも渡り文字が書かれていた。が、リクにはそれを、全く読むことができなかった。というのも、そのメモには、日本語が一切存在していなかったのだ。
「何か質問があるかしら? 私が答えられるものなら、何でもいいわよ」
ボリュームのあるスカートの
「あのさ、レア。これ、何語で書かれてるの? 」
「あら」
レアは、リクからそれを受け取って、「ええっと」と、白い
「たぶんだけれど、いくつかの言語で書いてあるわねえ。いちばん上が、フランス語なの。それで、次が英語ね。私、ほとんどフランス語しか分からないの。英語も、人並みには分かるのだけれど、優秀っていう訳では無くてね。少ししか読み取れないの。けれど、フランス語で書かれた文と、同じことが書いてあるんだと思うわ」
それで、と、レア。
「英語の下に書いてあるのが、これは……ドイツ語かしら。これも、少しなら読めるわ。何故かってことは、聞かないで頂戴ね。それで、その下が、恐らく、ロシア語ね! それで、その下が──」
レアの解説に、リクは思わず立ち上がった。
「ま、待って 待って! 」
突然声を張り上げたリクに、「どうしたのよ」と、目を丸くして、レアが言った。
ベッドの向こう側で、アントワーヌの看病にあたるチーズも、小さな赤い瞳を大きく開いて、ふごふご と鼻を鳴らした。どうやら、静かにするように注意をしているらしい。
リクは、「ごめんなさい」と、チーズに小さな声で謝ると、再度、文字がびっしり書かれた用紙に、視線を落とした。
そして、顔を近付けてきたレアに、「アダムって、何者なの? 」と囁いた。
「知らないわよ! 何ヵ国語か話せるってことは言っていたけれど、これを見て、私も驚いていたんだから! 」
リクの質問に、レアもそう囁き返した。
「それじゃあ、トニをよろしくね」と言い残して、レアが退室してから、リクは、ずっと心臓を バクバク させていた。
アントワーヌの睡眠を邪魔しないようにと、電気が消された部屋には、窓と扉に嵌められたステンドグラスから差し込む月明りと、チーズの手の平から溢れる不思議な光のみが、灯されていた。
「その光って、どこから出てるの? 」
沈黙に耐えきれなくなったリクが、チーズにそう問い掛けたが、カノジョが人間の言葉を理解できないことを思い出して、眉を寄せた。
「呪文のせい……なのかな」
そして、そう自分で解釈すると、深い溜息を吐いた。
チーズは、話し掛けられたことも気づかずに、目線を上げないままでいる。
サイドテーブルに置かれた、
「本当に、ただ、のんびり眠っているみたい」
リクは
アントワーヌの様子は、相変わらず落ち着いていた。整えられていない、豊かな赤い
「“いつ、何が起きるのか分からない状況”って言うけど、全然、そういう風には見えないよね。でも──」リクは、自分の胸が、ドキン と脈打つのを感じた。「もし、本当に“何か”があったとして、私は、何かできるのかな? 」
その時、チーズが ふごっ と鼻を鳴らした。きっとそれは、カノジョにとっては、咳払いの様な、何気ない行為だったのかも知れないが、リクには、相槌の様に思えた。
「ねえ、チーズ。私の話、聞き取れないかも知れないけど、理解できないって言うのは分かってるんだけど、ちょっとだけ、ちょっとだけ、相談してもいいかな? 」
チーズがまた、鼻を鳴らした。
「ありがとう」
リクは、そう言って、ベッドに椅子を近付けた。
「きょうね、アダムが、どうしてトニを助けたがらないのか、理由を聞いたの。“トニ自身が、生きる希望を失っているから”だって。でも私は、生きていさえすれば、何でも上手くいくって、思ってたの。でもね、決して、そうではないってことを知った」
「ふごっ」チーズが鳴いた。
「料理長のジェイって知ってる? 彼に言わせると、例え命があったとしても、それに絶望する人間だって、いるんだって。希望を取り戻せないって人間も、少なからずいるみたいだんだよね。でも、ジェイは、トニのことを救いたいって」
「ふごっ」
「私も同じ気持ち。私も、トニのことを救いたい。けど、どうしたら、トニがまた“生きたい”って、思えるのか、分からないんだ。それと同時に、どうしてトニは、生きたくないのかってことも、分からないの」
チーズが、リクを見上げて、首を ブルブル 振った。
「だって、お母さんが、その、いなくなっちゃったっていうのは、まるっきりトニのせいじゃなかったんだし。確かに、お母さんは大切だけど、私も、お母さんが、いなくなっちゃったらって考えたら、涙が溢れてきちゃうけど、もう生きたくないとは、ならないと思うの。お母さんの分まで、頑張っていきたいって、思うと思うの。でも、アダムは、これ以上トニを苦しませないでやってくれって」
「んっ」
「あっ」
アントワーヌの寝返りに、リクは少しの間 固まったが、また すやすや と気持ち良さそうな寝息を立て始めたのを見て、続きを喋り出した。
「もう いちど言うけど、私、分からないの。アダムはこう言ってた。“自分の
「ぷひっふごっ」チーズが鼻を鳴らした。
「今ね、この部屋の中で、そこまで考えたの。お父さんから教わった。先ずは自分で考えろって。どうしても分からなかったら、お父さんや、お母さんに聞きなさいって。でも、今は、誰に答えを聞けばいいの? アダム? それとも、ゾーイ? 皆は、教えてくれるのかな……」
そう喋りながら、リクは、自分が ウトウト しているのに気がついた。
「ぷひっ」
黒茶色のチーズの姿が、夜の闇に交じっていくように見えた。
「トニなら、教えてくれるかな。でも──」
リクは何度か船を漕ぐと、糸が切れる様に、ベッドに頭を落下させてしまった。
すうすう 音を立てて眠るリクの肩に、毛布を掛ける手があった。
「全く。どちらが看病されているのやら……分かっているのか? 」
むにゃむにゃ と寝言を唱えるリクの横顔に、そう悪態をつくのは、先程まで目を閉じていた、汽車の指揮官、アントワーヌだ。
彼は髭の伸びた顎を、気だるそうに人差し指の爪で引っ
アントワーヌはその様子を見つめながら、誰に言うでもなく、ぼんやりと呟いていた。
「俺には元々、母親より生きてやろうなんて、そんな気力は無かった。ただ、死ぬのが怖くて溜まらなかった。だから、死ななかったんだ。しかし真実を知った今、生きる方が怖くなった。起こった全てが俺のせいではないにしても、“砂の精”を殺したのは、間違いなく俺だ。母さんを放って、俺だけが全てを手に入れるなんて、あってはならない。俺はそう考えている。生きていても、母さんの残像が、苦しんで
アントワーヌは深く息を吸った。
「教えてやった。満足か」
海の様に深い青い瞳が、幸せそうなリクの
「俺が死んだら、イチを頼む」
そう囁くと、チーズが受け止める間もなく、また意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます