第29話『孤独な独裁者と反抗の兆し』

 翌朝、リクの部屋に、誰も起こしにやってこなかった。

 リクは青黒くなった目の下のまま、トボトボ と食堂へと向かった。何だか今日はとっても静かだ。汽車が ガタガタ いう音が一層大きく耳の中で響いている。

 食堂に通じる扉を開くと、そこにはレアとニックの姿があった。

 美しいウェイトレスは、目玉焼きとパンをむさぼっている大男に、色々とささやいては、大袈裟おおげさに顔を覆っていた。

「おはよう」

 扉をゆっくりと閉めたリクは、ふたり掛けのテーブルで向かい合う ふたりに、恐る恐る声を掛けた。

「おはよう! どうした、顔色が悪い様だが? 」

 リクの言葉に最初に反応したのはニックだった。お人好しの彼は、心の底からリクを心配している様子だ。

「きのう、あんまり眠れなくってね。体調は悪くないんだけど、寝不足って感じ」

「おはよう、リク。私も同じよ」

 リクの答えにうなずいたのはレアで、「あの状況で眠りなさいって言う方が無理よね」と、げっそりとした様子で言った。

「きょうはニックだけ? アダムは? 」

 リクがたずねると、ニックは肩をすくめた。

「さあ。俺が来た時には既にいなかったんだ」

「アディなら、けさ、パンだけ取って食堂から出て行ったよ」

 そう返答する声に、リクは料理室の方へ視線を向けた。そこには、褐色かっしょくの肌を持つウェイトレス、ゾーイと、新米料理長のソジュンの姿があった。

「ゾーイ、ジェイ、おはよう」

 リクの挨拶に、それぞれは笑顔で答えた。そして、朝食の乗ったプレートを、四人掛けテーブルに座ったリクの前に置くと、話を続けた。

「そう言えば、アディが食堂でご飯を食べないなんて、久しぶりのことよね。2年ぶり? ここに来たばっかりの時以来よね」

 ゾーイは変わらぬ様子でレアに尋ねたが、「知らないわよ、あんな奴」と不貞腐れて返された返事が返ってきて、困った顔を見せた。

 どうやらレアは、アダムについて話したくない様だ。

「でもアダムさん、相当思い悩んでいる感じでしたよ。大丈夫なんですかねえ」

 ニックと同じくお人好しのソジュンは、レアに言い聞かせる様にそう言った。

「そう言えば、きのう、あの後どうだったの? ニックが倉庫室に残ってくれるって言った後」

 黄身がトロリととろけない目玉焼きに ガックシ しながら、リクはニックに聞いた。

「ああ、あの後か」一方で、目玉焼きをすっかり平らげていたニックは、皿に沈殿ちんでんした油をパンで拭い取りながら頷いた。「何んとも無かった。アダムは、あの後30分程ピアノを弾いた。倉庫室にいた俺に、いつも通り挨拶すると、そのまま部屋に戻っていったな。特に変わりは無かった様に思えるが」

「何よそれ! 」

 大人しく話を聞いていたレアが、そう言って机を叩いた。

「いつも通り? 冗談じゃないわよ! 」

「まあまあ、リリイ。そんなに カッカ しちゃ、貴女の美貌びぼうが台無し」

 感情的なレアをゾーイがなだめた。しかし彼女は冷静になるということを知らなかった。

「いいこと、ゾーイ。貴女も本当は怒らなくちゃ駄目なのよ! ニッキーも、ジェイも! 怒らなくちゃ! そうしないと分からないのよ! あんな決定、従っちゃいけないわよ! 」

「でもね、リリイ──」

「今こそ立ち上がる時よ! 反抗するのよ! リク、貴女もそうすべきだと思ってくれるわよね? 」

 レアがそう呼び掛けた時だった。ニックが口を開いた。

「“もし命令に逆らう様なことがあったなら、汽車の全ての業務機能を停止させる”──アダムからの伝言だ、レア。それに皆にも」ニックは静かな声で続ける。「“せめてもの看病は許す。が、状況をこれ以上乱すな”とのことだ。もしこの命令にさえ逆らう様なら、アダムは俺らの行動を縛ると言っている。24時間のだ。それぞれがそれぞれと顔を合わせない様、完全に束縛そくばくすると言っていた。レア。君の気持は良く分かる。だがな、アダムの命令に従ってくれ。頼む」

「なるほどね。これはおどしってことね」

 ニックからの伝言を聞き終えたレアは、顔を引きらせた笑顔を作った。白い歯をギュッと噛み締めて、また机を力一杯叩いた。今にも泣きだしそうな表情をしている。

「もう私、分からないわよ! どうしたならいいのよ。アディが怖いわ。どんどん嫌いになっていくの! 」

「レアさん……」

 そんな彼女の肩を、ソジュンの優しい両手が包んだ。

「レア。あのね、アダムは、レアたちを護りたいだけだよ」

 パンを両手で握ったまま ジッとしていたリクが、小さく呟いた。

「きのうメルから聞いたの。アダムはきっと、独りで苦しんでる」そしてリクは、そのまま席を立った。「私、アダムを探してくる。話さないといけない気がするの」

 そう言って、パンを持ったまま食堂から出て行こうとするリクの背中にゾーイが、「頼んだよ、リク! 」と、声を掛けた。


 孤独な次期指揮官は、運転室で、潮風に仰がれていた。

 運転席に挟まる太っちょの妖精、ポッドの柔らかい背中を背もたれにして、足元には紅茶の入ったガラスのボトル、目の前に広げた世界地図で、顔を覆っていた。優雅なティータイムといった様な光景だ。

「アダム! やっと見つけた」

 鉄橋を渡り切ったリクが呼ぶと、炭鉱夫は顔の前から地図を下した。そして いつもと変わらぬ様子で右手を軽く上げると、「よ」と言った。

 しかし いつもと違うところもあった。

「アダム、煙草」

 地図の後ろから現れたアダムは、気持ち良さそうに煙草の煙をくゆらせていたのだった。

「あっ、もしかして、リクもか⁉ 」

 アダムは目を見開いてそう言って、咄嗟とっさに煙草の火を擦り消した。

「あれ? マリーとマークは? 」

 室内を見渡して、リクが聞くと、アダムが、「ああ、早めの休憩だ」と言った。「この辺りは平地だからな。石炭も偶にくべてやるだけでいいんだ」

 リクは「へえ」と、何でもなさそうに頷いたが、今も尚、目の前の青年がひとりでいることを望んでいるだということを悟って、何だか申し訳なくなってしまった。

「私が来ちゃ不味かった? 」

 リクが聞くと、先輩炭鉱夫は首を横に振った。

「いいや。何でだ? 」

 それは本当に疑問に思っている表情で、リクは ホッ と息を吐いた。

「私もここ、座っていい? 」

「ああ。ただ、紅茶はやんねえからな」

 アダムの言葉を聞いて、リクは クスクス 笑った。そして彼の目の前に腰を下ろした。

「で、私って、何? 前にも煙草で何か言われたの? 」

「レアだよ。それにジェイも、イチも! 皆 煙草、煙草ってな! “嫌煙者けんえんしゃ”だらけだ、ここは。レアからは、煙草の臭いが衣装につくから目の前で吸うな とか言われて、ジェイからは、煙草は身体しんたいを滅ぼしますよ、なんて言われた──」アダムは、ふたりを馬鹿にした様な笑みを浮かべた。「不思議な思考に毒されたお医者先生と、それに惑わされっぱなしのご婦人が言うことだぜ、煙草が身体からだむしばむなんて! でも、イチに聞いたら本当なんだとよ! それで俺とニックとで、なるべく控える様にしてんだ。どうしてもって時には、こうしてわびしい風に当てられながら、一服するって訳よ」

「確かに煙草は体に悪いね。しかもアダムはお酒まで飲むし」リクはわざとらしく肩を竦めて見せた。「“不健康の王様”って感じ! 」

 リクの言葉を聞いたアダムは愉快そうな笑い声を立てた。

「不名誉だな」

「ううん“王様”じゃないね。かな? 」

「何だそれ」

 アダムの表情が急に真剣なものになった。キラリと獲物に食らいつく様な瞳に、リクは寒気を覚えたが、なんとか冷静を装った。

「少なくとも皆はそう思ってる。“冷酷な独裁者”。さっきニックから伝言を受けたよ。アダムの命令に逆らったら、酷い目に遭うんだって? レアが怒ってたよ。これは脅しじゃないのかって」

 淡々と述べるリクに、アダムは険しい表情のまま、オーバーオールのポケットに手を差し入れた。中から銀の煙草のケースを取り出し、そこから1本取り出してくわえた。

「ああ、その通り。あれは脅しだ」冷酷な独裁者はそう言って、マッチに火を点けた。「そして、あれは冗談ではなく、確実に実行する脅しだ」天に向かって、煙をひと吹き。

「それで? リクは、ここに、何を、言いに来たんだ? 」

 ひとつひとつの言葉に、強調点を付けるような口調で言って、アダムはまた煙を吸った。

「おしゃべりしに来た。ただそれだけ! 」

「はあ? 」

 ハラりと表情を和らげたリクの言葉に、度肝どぎもを抜かれたアダムは、間抜けな声を出した。

「何だよ、それ」

「だって、私はアダムの決定には理解を示してるし。それでも、まあ、全体的に賛成かって言われたら、そうでもないけど」

「何だよそれ」

 アダムはもう一度、呟く様に言うと、煙草の火を消して立ち上がった。

 炉に石炭をくべるらしい。立てかけてあった、ふたつのシャベルのうち1本を自分用に取ると、もう片方をリクへと押し付けてきた。

「ただで ここにいられるなんて思うなよ」

「勿論だよ」

 リクとアダムは石炭をいたり、投げ入れたりしながら、話を続けた。

「きのうさ、あの後、メルが話してくれたの」

「何をさ」

「アダムが、どうして、“トニを助けない”なんて言ったのか」

「へえ。メルは何て言ってた? 」

「“私たちを護る為だ”って言ってた」

「へえ」

「違うの? 」

「まあ、理由のひとつとしては、そうだな」

「“理由のひとつ”? 他にも理由があるの? 」

「まあな」

「それって、何? 」

「教えない」

「ええっ! 」リクは作業の腕を止めた。「どうして! 」

 アダムはそんなリクに、意地悪な笑みを見せた。

「すんなり教えない方が面白そうだから」

「性格最悪だね。だからレアから怒られるんだよ」

「何とでも言えよ」

 アダムはそう言って、リクの肩を軽く叩いた。

「手、動かせよ。手を」

「アダムだって! 」

 リクもそう言って、アダムの肩を力一杯叩いた。

「痛っ! お前なあ──あっ」

 突然 声を上げたアダムは、軽々と石炭を炉にひとすくい放り込むと、鉄橋へと駆け寄っていった。

「どうしたの? 」

 リクが尋ねると、アダムは興奮した様子で「ほら、ほら! 」というジェスチャーで、目の前を指差した。

「ああっ! 」

 その先には、陸が広がっていた。目を凝らしてみて、やっと見える程度のものだったが、確かにそうだ。リクがこの汽車に乗ってから、始めて見る陸地だった。

 後輩炭鉱婦が感動している間に、アダムはそそくさと運転室に戻っていた。

 リクが振り帰ると、彼はポケットの中から地図とコンパスを取り出して、何やら測定していた。

「何してるの? 」

 リクが聞くと、アダムは、「走ってる場所を確認してんだよ」と答えた。

 そしてリクを手招きして、床の上に広げた地図──それはイギリスを中心としたものだった──を見せた。

「きのうの夜の星と きょうの太陽の位置、手元のコンパスの方角から見るに、この目の前にある陸地はこれだ」と、アダムは日本のほとんど真下に位置する陸地を指差した。

「ニュー、グエネ……」

「馬鹿。ニューギニアだよ、ニューギニア! 」アダムは口悪くリクにそう教えると、ポッドの座っている運転席を見た。「やっぱりだ。速度が落ちてる」

「どういうこと? 」と、リク。

「きょう、もしくは、明日中には汽車が止まるってことだ」

「汽車が止まる? どうして? どこに? 」

「知らねえよ。とりあえず、この汽車は好き放題に進んでは、好きなとこで、好きなだけ止まってんだよ。それはほんの数時間かも知れねえし、2日、3日、それとも1週間かも知れねえ。でもどうして、そういうことが起きんのかは誰も判らねえ。どの時代に止まるのかもな」

「そっか……そうだったね、そう言えば」

 リクは、この汽車のサロン室で目覚めた夜のことを思い出していた。アダムから揶揄からかわれ、レアから美味しいオレンジジュースを貰った後、アントワーヌが部屋に現れて、リクに教えてくれたのだ。

「“この汽車は、どこへだって行くことができる。世界中、ありとあらゆる場所、ありとあらゆる時間に出没する。それが私たちの乗る、蒸気機関車”──」

リクはそこまで言って、アダムに向き直った。

「それで、今、汽車はどこに向かって走ってるの? 」

「そうだなあ……」リクの問いに、アダムはコンパスを見ながら、とある島を指差した。「現在の汽車の速度からして、この付近で停車することは間違いないな」

 ただ、進路は大きく変わるかも知れねえが、と付け足して、航海士こうかいしさながらな炭鉱夫が指した先を見て、リクは首を捻った。

「ぼーねお? 」

「“ボルネオ”だな。リクは字が読めるのかそうじゃねえのかどっちなんだ? まあ、いいや。暫くは様子見だな」

 アダムはそう言って、地図を折りたたみ、立ち上がった。

 リクがその一連の行動を目で追っていると、炭水車の方から、軽い木のぶつかり合うポロロロという音と、お馴染みの笑い声が聞こえてきた。木でできた双子、マリアとマルコの音だ。

 ふたつは、そのまま運転室に駆け込むと、アダムとリクを囲んで キャッキャ と はしゃぎだした。

「オ昼の時間なのに、厨房たいへーん! あっははは! 」

「ミんなで仕事ボイコット! ひひひ、ひひひ! 」

「何だと⁉ 」

 ふたつから告げられた驚きの報告に、アダムは思わず大きな声を出し、鉄橋を駆けて行った。

「待って、アダム! 」

 瞬きの間に消えた背中にリクはそう呼び掛けると、一緒になって走って行った。

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