第26話『橋下の道化と不幸の朝露』

 人々の活気で溢れかえる、17世紀最大の都、パリ。

 商人たちは自慢の商品を荷車やかごに詰めて街を練り歩く。栄光の街、パリに行き着いた観光客たちは、商人たちの籠の中の物を拾い上げてはポンポンとコインを放り込む。思い思いのドレスに身を包むパリ娘たちは、横目で観光客を見つめては、ヒソヒソ と噂話をささやき合い、不意に人力車に押されて文句を叫ぶ。一方で人力夫も命がけで、乗せたご婦人の不機嫌にすっかり震え上がっている。一等のドレスで着飾った派手なご婦人は、隣でなだめる夫をも叱り付けて、人力夫に無茶な命令を下し続けた。

 そんな、いつもの昼下がり。ひと際 賑わう一角があった。

 街の賑わいから少し逃れた橋のもと、黒い人だかりが輪になって、不気味な笑い声を立てていた。その人だかりの周りには、砕けた果実がいくつも転がっている。

 「こら! やめなさい! あっちいきなさい! 」

 その集団に向かっていく女の姿があった。

 色が抜けて灰色になったボロ服を、なんとかまとっている様な、茶色い髪をした貧相な女である。

 女は黒い人だかりに両手を掛けると、「あっちいきなさい! やめなさい! 」と、もう一度 叫んだ。

 黒い人だかりは、ようやく女の存在に気がつくと、一斉に噴き出した。そして口々に、「おい、“イカれ女”が来たぞ! 」「“イカれポリーヌ”だ! 早く離れないと俺らもイカれちまう! 」と騒ぎ立て、ゲラゲラと下品に笑った。

「あっちいきなさい! 」

 それでもめげずに、“ポリーヌ”と呼ばれたボロ布女は叫ぶと、人だかりに拾った石を投げ始めた。

「痛てっ! この女! 」人だかりは石を両手で防ぎつつ、橋の方へ駆けて行きながら、せ細ったポリーヌの背中に向かって、「イカれポリーヌ! イカれポリーヌ! だからお前の息子はで生まれたんだ! 」と大声で訴えた。

 しかしポリーヌはその声に振り返ることなく、人だかりができていた場所に走り寄った。

 先程まで黒い人だかりで賑わっていたそこには、燃える様に赤い髪の毛を持った少年がポツリ と倒れていた。

 ポリーヌは、ボロ雑巾の様なその少年を拾い上げると、切り傷だらけのほおを優しく叩いた。

「トニ、トニ。母さんが来ましたよ」

 ポリーヌがそう声を掛けると、腕の中の少年はなんとか目を覚ました。

 赤い髪の少年は、ポリーヌの顔を見て ホッ と息を吐くと、体中の傷の痛みに顔をゆがめた。それを見たポリーヌも苦しそうに眉間みけんしわを寄せた。

「トニ、ごめんなさい。どうしてもシモンさんのお話を断れなかったのよ。あの人、私がいないと今すぐにでも死んでしまいそうなんですもの」

 そう謝る彼女の白い頬に、温かい手が触れた。腕の中の少年のものだ。

「いいんだ。母さんは何にも悪くないんだから。ぜんぶ あいつらが悪いんだ。いっつも後をくっついてきてさ。ぼくが商売をするのが気に食わないんだ。赤毛が手を触れた果物は、腐るのが早いんだとか言って。ぼくが言い返すと、必ず暴力で返してくるんだ。あんな奴ら、きっといいこと起こりっこないさ! 」

 少年は自分の母親にそう言って、ボロボロの顔で目一杯の笑顔を作った。まるで「こんな怪我くらいへっちゃらさ」と言っている様だった。

 ポリーヌは痛々しいその表情を見る度に、涙をこらえ切れないのだった。少年の手の甲に ポロポロ と大粒の涙を伝わせながら、美しい赤い髪の毛に唇を落とした。

「ごめんなさい、アントワーヌ──……母さんは、ずっと貴方から離れないから。貴方をひとりになんてしない! 」

 そして震える小さな我が子の身体を、きつく抱き締めた。


 華やかな街とは対照的に、アントワーヌたち親子の生活は逼迫ひっぱくしていた。

 もう7つにもなるアントワーヌだが、学校に行くことはおろか、きょうという日を何とかしのぐ為のお金をかせぐので精一杯だという状態だった。というのも、彼が3つの時に父親が病死してからというもの、母親のポリーヌと、ふたりだけの生活であったからだ。

 それでもポリーヌは、以前から付き合いのある、農家のシモン夫妻を頼り、彼らの作る果物を売るという仕事を見つけた。しかしその商売で稼げるお金も微々びびたるもので、売り上げのほとんどは栽培主であるシモン夫妻に渡ってしまうのだったが。

 だが最近は、そんな生活にも暗い影が差してきている。

シモンが先月仕事中に急に倒れて以来、帰らぬ人となってしまったからだ。シモン夫人は1ヶ月が経とうとする今でも、毎日 悲しみに明け暮れ、仕事もまともにこなすことができないでいた。

 再び食うに困ってしまったポリーヌは、シモン夫人が食べる分の果物の少しを分けて貰うのと交換に、毎日彼女の家を訪ねては、彼女の不幸な身の上話を長々聞かされていた。

「シモンさん、だいぶまいっちゃっているよね。きょう すれ違った時に挨拶あいさつしたんだけど、まるで何も見えていないかの様だったよ。いつもなら、こんな ぼくにも優しく接してくれるのにさ」

 顔についた泥をポリーヌに拭いて貰いながら、アントワーヌは言った。

「“こんな ぼく”じゃないでしょう、トニ。貴方は誰よりも美しくて立派で強い男の子ですよ。母さんの自慢なのに、“こんな”なんてつけないで頂戴」

 ポリーヌは キッとして言った。

「ごめんなさい」アントワーヌは眉を下げて謝ると、「母さん、愛してる」とつぶやいた。

「ぼくは自分のことを嫌いではないんだ。ただ、自信が無いんだ。ぼくは父さんと母さんから貰ったこの髪の毛を誇らしく思っているけど、みんなはそうじゃないんだ。母さんはこの髪を優しくでてくれるけど、みんなは違う。みんな、ぼくの様に生まれなくて良かったって言うんだ。だから、ぼくは、自分が嫌いじゃないんだけど、でも──……」

 そこまで話すと、アントワーヌは言葉を詰まらせた。ポリーヌが今にも泣いてしまいそうだったからだ。

「母さん、愛してるよ、誰よりも。ぼく自身よりも、母さんのことが大切なんだ。だからぼくは、ぼくのせいで、母さんが奴らから悪く言われるのが、どうしても……ぼくは、だから──」

 アントワーヌがしゃべり終わらないうちに、ポリーヌは家から出て行ってしまった。

 赤い髪の少年は、母親の背中を隠してしまった扉を見つめていた。そして今にも消えてしまいそうな声で、「愛してる、母さん」と、呟いた。


 そのまま、すっかり日が暮れるまで膝に顔を埋めていたアントワーヌだったが、お腹は グウグウ 鳴るし、お尻は痛くなるしで、とうとう床に寝転がった。朝から水しか飲んでいない為だろうか。涙は、もう一滴いってきも流れてこなかった。

「母さん、どこにいるんだろう」

 アントワーヌは低い天井にそう問いかけたが、それは答えを返してはくれなかった。代わりに ぺちゃんこ になったお腹が、グウ と、情けない音を立てるばかりだった。

 この頃のポリーヌは少し様子がおかしかった。夜に どこかへ出掛けて行っては、朝になるとパンを持って帰ってくるのだ。きのうの晩みたく、アントワーヌが我儘わがままを言ってポリーヌを引き留めてしまうと、朝のパンは無くなってしまう。

 アントワーヌは、これが何を意味しているのか、よく理解していた。だからこそ、あしたのパンより、母親の体温が恋しかったのだ。

「母さん、母さん」

 闇夜を照らす蝋燭ろうそくも、もうとっくの昔に尽きてしまっていた。真っ暗な部屋の中、アントワーヌは寝言の様に何度もポリーヌを呼んだ。

「母さん、ぼくが、母さんにパンを買ってやれたら。ぼくが、もっと強かったなら」

 そして手探りでかびの生えた毛布を引き寄せると、それを纏って、浅い眠りに落ちた。


 夢の中では みんないて幸せだった。

 アントワーヌの両方の手を握るのは、母親のポリーヌと顔も覚えていない父親。ふたりはアントワーヌの伸びた赤い髪の毛を大事そうに撫でては、小さな彼に微笑ほほえみ掛けてくれた。

 彼らはそのままパリの街中を歩いていた。シモン夫妻が仲良く歩く3人に優しく手を振る。アントワーヌも元気に挨拶を返した。

 夢の中でのアントワーヌは、綺麗なジャケットに身を包み、ポケットには銀貨が3枚も入っていて、靴はピカピカに磨き上げられていた。お腹はちっとも空いていなくて、健康にふくれているし、周りを歩く誰も、アントワーヌを見て嫌な言葉を吐かなかった。

 アントワーヌは胸を張って街を闊歩かっぽした。

 コインを使ってパンをたんまり買って、それをポリーヌと分けて食べた。

「ぼく、この髪の毛の色が大好きなんだ。母さんから、愛してるよ って言われている気がするんだ」

 パンをかじりながらアントワーヌが言うと、ポリーヌは パッ と華やかな笑顔を見せた。そしてアントワーヌの頬っぺたにたくさんキスをしてくれた。


 グウ、お腹が鳴って、夢は目の奥に吸い込まれて行ってしまった。

 アントワーヌが目を開けると、そこには早朝の光に照らされたポリーヌの姿があった。アントワーヌを毛布ごと抱きかかえて、愛おしそうに背中をさすっていた。

「母さん」

 アントワーヌが囁くと、ポリーヌは穏やかに微笑んだ。

 そして背中を擦りながら、「お腹空いたでしょう? パンがあるわよ」と、小さな声で言った。

 「母さんが食べなよ」そう言おうとしたアントワーヌだったが、貪欲なお腹を抑え込むのは難しかった。結局彼の口から出た言葉は、「ありがとう」だった。


 アントワーヌがパンを食べ終えるのを見届けると、すぐにポリーヌはシモンさんの家に出掛けて行ってしまった。「きょうもきっと、夫人の長話を聞かされる羽目になるんだ」アントワーヌはそう思って、家の扉を開いた。

 街外れのこの地区はみんな貧乏で、みんなが きょうのパンに困っていた。みんなお互いの肩を叩き合い、励まし合って生きていた。が、アントワーヌに対してはそうはいかなかった。

 川の水で体を洗い合っていた少年たちが、アントワーヌの背中に冷たい水を浴びせかけた。

「おい、! どこ行くんだよ! 」

 そして、少年のひとりがアントワーヌを突き飛ばした。

 体制を崩したアントワーヌはそのまま地面に転がり、シャツを泥まみれにさせた。

「おい、見ろよ! こいつ、今度はになりやがったぞ! 」

 もうひとりの少年は、足元に転がったアントワーヌを指差してそう嘲笑あざけわらった。

 そして ふたりは笑うのに満足すると、それぞれの家の方へと駆けて行った。

「ぼくの髪の毛は母さんからの贈り物なんだ! 馬鹿になんて許さないぞ! 」

 アントワーヌは去っていく ふたつの背中にそう怒鳴ったが、周囲を歩く大人たちの、クスクス 言うみにくい笑い声に気がつき、顔を赤くさせた。涙が上瞼うわまぶたまで込み上げてきて、咄嗟とっさに街へ走った。

 小さなアントワーヌは、人混みがむしろ自分を守ってくれるのだということを知っていた。みんながみんなにイラついていて、押し合いへし合いで、赤い髪の毛の男の子にちょっかいを出している暇なんてないからだ。

「それにしても、きょうは いつもより人が多いなあ」

 アントワーヌは誰にでもなく呟いた。そしたら、後ろから答えが返ってきた。

「そりゃあそうじゃ。きょうは 祭りなんじゃからなあ。いろんな芸人たちが来るのさ」

 そこにいたのは、年老いた男だった。

「芸人? 」

 アントワーヌが聞き返すと、老人は コックリ とうなずいた。

「そうとも。芸を売ることを生業なりわいとする連中のことじゃ。ほれ」

 そう言って老人は広場の中央を指差した。アントワーヌがその先を見ると、そこには木でできた大きな簡易舞台が用意されていて、その上に色取り取りの衣装を着た男女が立っていた。

 男女は衣装と似て色取り取りの木の輪や棒やボールを、幾つも交互に投げ合っては、拍手喝采はくしゅかっさいを受けていた。そして次の瞬間には、舞台の上には客が投げ込むコインの雨が降り始めたのだった。

「凄い」アントワーヌは海の様な深い色の瞳を輝かせながら呟いた。「ねえ、ぼくも、できるかな」

 すると老人はアントワーヌの肩に大きな手を置いて言った。

「ああ、できるとも。坊やが他人ひとより、少しでも努力すれば」



 広場に出たアントワーヌは、いつも通り橋の下に立つと、ステッキの先で自分を囲う様に半円をえがいた。そして慣れた手つきでアタッシュケースを足元に広げると、いよいよ客が集まってきた。

 アントワーヌは堂々と背筋を伸ばして客に振り返る。

 その顔は、みんなからいじめられて ベソベソ涙を流していた いじめられっ子とは、まるっきり違っていた。

 赤い髪の毛は綺麗に撫で付けられ、泥どころかほこりひとつついていない上等なジャケットに身を包んでいた。靴もピカピカに磨き上げられている。

泥まみれのまま舞台の上を仰いだ日から8年、もうあの頃のアントワーヌを思い出す者は、ほとんどいなくなっていた。

「さあさあ、お立合い! 街いちばんの器用者きようもの、“橋下はししたのピエール” と申します! 本日も良い御日柄おひがらの中、ご婦人たちは、わざわざ傘をさされてご苦労」

 アントワーヌがそう言ってお辞儀をすると、男たちの拍手と口笛と笑い声とが、辺り一帯に響いた。

「そして紳士諸君。昼間からこのような道化のもとへ駆けつけるなぞ、

 よほど儲かる会社勤め 流石パリいちの富豪の方々でございます。さっそく膨らんだポケットからコインをありがとう。しかし、もっと投げ込んでも底の尽きぬそのポケット、恐縮でございます」

 頭を地面と平行にしたまま続けてそう言う赤い髪の道化に、観衆は大喜びである。アタッシュケースの近くにいる人々は、その中をどんどん満たしていった。

 暫く横目でその様子を見てからアントワーヌは顔を上げると、涼しい微笑みを周りへ向けた。


『さあさあ 皆様お待ちかね! ピエールのショーの時間でございます。

 そこの線から──そう言ってアントワーヌは、先程ステッキで印をつけた半円を示した──お客様の思い思いの物を、玉遊びをしているわたくしに向かって投げてくださいませ。

 どんなものでも玉と一緒に回して差し上げましょう。

 そう! この間はこの私めに向かって刃物を投げてこられた紳士がおりましたが、その時は大変な痛手でございました。

 お陰で今朝やっと指が繋がったというもので──』


 アントワーヌは手にめた、指の部分を縫い付けた手袋を観衆に見せ、「というのは、冗談」と、その手袋を脱いで、新品の綺麗な手袋をその下から覗かせた。

 観衆は ホッ と息を吐いた。「何にせよ、あまり危険なものですと私も受け取らない可能性があるので ご了承を」


『ルールはいつもと同じでございます。

 成功したなら たんまりとコインをお投げください。

 失敗したなら こちらの宝石はあなたの物──そう言って、ポケットの中から青色に輝く大きな石を取り出して見せた──

 では、ひとときの 気晴らしを! 』


 アントワーヌは口上を終えると、もう一度頭を下げた。

 また拍手と口笛が吹き荒れると、アントワーヌは得意気な表情で頭を持ち上げ、ズボンのポケットから木のボールを ふたつ 取り出した。

 そしてそれらでお手玉をしながら、おどけた声で、童謡『アヴィニョンの橋で』を歌い始めた。遠くで見る観衆はリズムに合わせて手を叩き、近くで取り巻く観衆たちは自分の鞄の中やポケットを探りだした。この道化に投げる物を探しているのだ。

「さあさあ 紳士淑女の皆様! 怖気づくなどパリの人にあるまじき! 」

 簡単なお手玉をしながらアントワーヌがそう そそのかすと、必死に鞄を ゴソゴソ やっていた客たちは次々に道化が描くボールの輪の中に物を投げ始めた。

 手鏡、扇子、ステッキ、ブローチ、指輪、なんと靴まで! しかしアントワーヌは表情ひとつ、声色ひとつ変えずにそれらを器用に回し続けた。

 するとそこに、キラリと光る物が飛び込んできた。それはアントワーヌの足元でね返り、顔の前をかすめた──ナイフだ!

 アントワーヌは ヒラリ と身をかわすと、もういちど地面に落下したを爪先で、手元まではじいた。そのまま お手玉の輪に加えると、不気味に口角を上げて、「おやおや、冗談だと申しましたのに。道化にこの様な仕打ちをなさるなど、よほど物好きなお客様の様で」と言った。

 それから「私は的当てではない 私は的当てではない」と何度か口遊くちずさみ、『アヴィニョンの橋の上で 刃物に追われ 私はおののき逃げ回る』と へんてこな歌を歌いだした。

 肝を冷やした観衆は、その様子を息をんで見つめていたが、アントワーヌの歌を聞いた途端、歓声を上げ、拍手とコインの雨を降らせた。

「“橋下はししたのピエール”! お前がパリいちばんの道化師だ! 」

 人々は口々にそう叫び、アントワーヌのアタッシュケースからコインを溢れさせた。


 アントワーヌの生活が一転していたというのは言うまででもない。

 昔の家は売り払い、アパートに越した。といっても、アントワーヌたち親子の住居は、その最上階であったが。

 ある程度 贅沢な暮らしができるようになっても、親子の慎ましさは変わらなかった。ポリーヌはアントワーヌに対し、商売用に高くて綺麗な服を買うのは許したが、それ以外の服は、なるべく地味でいる様にとした。

「貴方を好ましく思っていない人もいるわ。今朝だってナイフを投げられたでしょう。母さんはね、トニ。貴方に危ない真似はして欲しくないのよ、本当は」

 ポリーヌはそう言いながら、シモン夫人の家で採れた林檎を輪切りにした。

 シモン夫人はと言えば、未だに仕事がままならない状態でいた。毎日下を向いて歩き、仕事は全て手伝いの少年にやらせていた。かつてアントワーヌたちが住んでいた、貧民の巣窟そうくつで生活している少年だ。彼は日雇い労働者として日々 かすかなお駄賃と、庭からくすねる果実を求めて毎日精を出して働いてくれていた。

 しかし無知な少年が作る果実など、高が知れている。シモン夫人が塞ぎ込んでしまってからは、誰も彼女の果物を欲しがりはしなかった。ただひとつ、アントワーヌたち親子を除いては。

 ポリーヌは、アントワーヌが持ち帰ったアタッシュケースの中身から、家賃や食費や最低限の衣装代などを抜くと、後はほとんどシモン夫人に充てた。

「あの方は、自分が苦しいときにでも私たちの生活を考えてくれたのよ。私たちが恩返ししなくてどうします」

 アントワーヌが沈んだ目で分配の様子を見つめる度に、ポリーヌはそう言って、息子を抱き締めるのだった。


 良く晴れた日曜の朝、アントワーヌはいつもの様に、アタッシュケースとステッキを持って広場へ向かった。

「“橋下はししたのピエール”さんですか? ようこそお越しくださいました。さあさ、鞄をお持ちいたしましょう」

 青いテントが張られた芝居小屋に着くと、そこの支配人らしき小太りの男が出てきてアントワーヌにうやうやしく挨拶をした。

 アントワーヌは鞄を引きがされそうになって、親切なその男を手で制した。

「お気遣い感謝いたします。しかしこれはわたしの商売道具でありまして、こうして自分で持っていないと不安になるのです」

 そうして人の好さそうな笑みを浮かべると、手袋をはめた右手を差し出して、「“アントワーヌ”です。普段は“橋下はししたのピエール”と名乗っておりますが、そちらの方が呼びやすいでしょう。私の本名です」と言った。

「そうでしたか、それは申し訳ありませんでした。私は“クレマン”。この劇団の支配人をしておりまして、今回、貴方に出演依頼を出したのも、この私なのです! お会いできて光栄です、アントワーヌさん。貴方の芸にはいつも驚かされますよ」

 小太りの“クレマン”も挨拶を返すと、アントワーヌの手を両手で握って喜びを表現した。

「おや、そうでしたか。こちらこそ、街中まちなかのいち道化が、この様な歴史ある舞台に立たせて頂けるなんて! 夢を見ているのではないかと思ってますよ」

 アントワーヌはそう言って笑いながら、クレマンの両手から手を引き抜いた。

 すると、テントの奥から声が聞こえてきた。

支配人オーナー、いつまで その人 をそこに立たせておく気だい? 話し合いもするんだろう? 入って貰いなよ」

 その声は、女にしては低く、男にしては高すぎる、不思議な魅力を持ったものだった。

 アントワーヌがその声の方をぼんやり見つめていると、クレマンは「そうだな。申し訳ありませんお気を遣えず。私はどうも、駄目でして。ささ、奥に入ってください」と言って、アタッシュケースを抱えるアントワーヌの背中を押して奥へと案内した。

 テントの奥は、その外観以上に広く見えた。部屋の中央には木のテーブルと、それを囲う様にベンチが置かれ、しっかり婦人用の敷居もあった

 声の主はベンチの隅に座っていた。面長の美しい青年だった。青年は真っ暗な瞳をじっとアントワーヌに合わせると、さげすむ様な笑みを浮かべた。

「なあんだ、支配人オーナーが街いちばんの道化師だって言うから、どんな玄人くろうとが来るのかって身構えてたら。ただの坊やじゃないか! 」

 青年はベンチに足を乗せると、アントワーヌに向かってそう言い放った。

「これ、“フィル”っ! アントワーヌさんはな、パリで いちばん人気の芸人なんだ! いちにちの稼ぎなんてそりゃあもう驚くほどで──」目を見開いたクレマンは、無礼な青年にそう怒鳴ると、アントワーヌに向き直って、「うちの劇団の者が申し訳ありません。こいつは“フィリベール”と申しまして、うちの花形なんでございます。私共が甘やかした結果がこれです。お恥ずかしい限りで」と、丁寧に謝罪をした。

「いいえ、結構ですよ。私の力が足りていないのは事実なので、それを述べられて機嫌を悪くしている様では、芸の向上は望めません」

 アントワーヌは頭の低いクレマンにそう言うと、ベンチでふんぞり返るフィリベールにも「お会いできて光栄です、フィル。きょうは、ぼくが舞台を台無しにしてしまわないように、いつも以上に力を入れてやらせてもらいますよ」と涼し気な笑顔を向けた。

 この日のアントワーヌの仕事は、舞台にあたっての前座だった。

 どうやら今回は、遥か英国で作られた戯曲を元に行うのだそうで、その役どころに道化師が出てくるのだそうだ。とはいっても、その劇に出てくる道化というのは、アントワーヌの様な街中に立っている おとぼけ ではなく、宮廷道化師といった、立派な寝床と名誉のあるものであったが。

 その為クレマンは、舞台の前座として、本物の道化を使いたかったらしい。そこで白羽の矢が立てられたのが、アントワーヌというわけだ。

 ひと舞台、たった数分の為に劇団が支払うと言ってきた契約金の額たるや、アントワーヌが額に汗を浮かべ、音を立ててつばを飲み込むほどのものであった。

 大舞台に立つのだと、アントワーヌはこの日のためにジャケットを新調したりもした。

「では、この流れでやってくれれば──」クレマンはひと通りの流れをアントワーヌに説明し終わると、汗をハンカチで拭った。「口上までお任せしてしまって、申し訳ないのですが、どうしても、そういう演出にしたく思っておりまして」

「いいえ。口上までやらせてもらうなんて、道化冥利どうけみょうりに尽きます。お任せください」

 アントワーヌは笑顔を張り付けて言った。

「では、こちらが口上の原稿でございます。申し訳ありませんが、私は他の役者の世話をしに行かなくてはならなくて。ほら、女というのは、グチグチやかましいものなのですからね。それに、舞台も見ておかなくては。今回は大掛かりですからね。これで、失礼させていただきます」

 アントワーヌの返答にすっかり明るくなったクレマンは、そう言ってテーブルの上に紙を広げると、未だベンチで脚を組んでいるフィリベールを見て、「何かあったらフィルに聞いてください。フィル、アントワーヌさんを頼んだよ」と、そそくさとテントから出て行った。

 フィリベールとふたりきりになった部屋で、アントワーヌはテーブルの上の紙とにらめっこをしていた。

 15歳になったアントワーヌは、一度だって学校へ行ったことがない。文字なんて読めるはずがなかったのだ。

 そうやって眉間に皺を寄せる若い道化の様子に気がついたのは、鏡で自分をうっとり見つめていたフィリベールで、彼はいやらしく鼻で笑うと、ねっとりとした口調で、「どうしたんだね? 一度声に出して読んでみた方がいいんじゃないか? その方が頭に入るよ」と言った。

 アントワーヌは無駄な意地を張らない男だ。気取り屋の花形に肩をすくめて見せると、「恥ずかしながら、ぼくは文字が読めないんですよ。お手数お掛けしますが、声に出して読んでみて貰えますか? 」と願い出た。

 すると鼻もあごも口もとがった俳優は、ふふん と、またも鼻でアントワーヌを笑った。原稿に視線を落とした。

「ようこそ『ヌーヴ・エール劇団』へ! この素晴らしい誇りある劇団の前座として 場を汚させていただきますのは、“街いちばんの笑われ者、橋下はししたのピエール”でございます! 見てください、この頭を! まるで、いや、、いや、の様でございます──」

「ちょっと、待ってください」

 フィリベールの言葉をアントワーヌはさえぎった。

「本当にその様に書いてあるんですか? まるで舞台に関係の無いみたいに思えますが」

 アントワーヌは込み上げてくる怒りを必死に抑え込みながら、そうフィリベールに訴えた。

「紳士クレマンは、本当にそういう原稿を ぼくに書いて寄越したのですか? ぼくが学校にも行ったことの無い生まれだから意味が分からないだろうと? 」

 するとフィリベールは不気味な笑顔を張り付けたまま、自分の前に置かれた鏡をアントワーヌに向けた。

「君は文字を読んだことがなければ鏡も見たこともないらしいね。ほら、自分の見てくれを ようく見てごらんよ! その気持ちの悪い髪の色ときたら! おぞましくって見ていられないよ! この日の為に上等なジャケットを買ってきたんだろう。でもお粗末様そまつさま! 君には、たんと似合いやしないさ。それで客の前にでる? は、考えただけでも笑えてくるよ! 」

 そこまで言って、フィリベールは「あっ! 」と何かを思いついたように目を開いた。

「そうか そうか! 君は笑われる為にいるんだったね、道化師君! あっはっはっは、悪いこと言っちゃったよ! はっはっは! 」

 アントワーヌはうらむ様な目付きでフィリベールの言葉全てを、黙って聞いた。

 このテントの中では、この男が絶対だからだ。もしここでアントワーヌが怒りでもして、言い返しでもしたなら、この澄ました男はきっと被害者の振りをしてクレマンに言いつけるだろう。アントワーヌは膝の上の握りこぶしを何とか抑え込んで、頷いた。「何んとも無いさ」とでも言う様に。

「その通りです、わたくしめは人々に笑顔を提供して その日の銭を稼ぐ性分でありまして」アントワーヌは深呼吸をして続けた。「閣下がそうやってわたくしめを見て笑ってくださるのなら、道化人生、最大の喜びにございます」

 アントワーヌの言葉にフィリベールは機嫌を悪くしたらしい。整った眉を ピクリ と震わせると、綺麗に並んだ歯を見せて笑いながら、鏡をテーブルに押し倒した。

「この僕を挑発しようとしているみたいだけどね、坊主。立場を弁えた方が身のためだよ」

「いえ、わたくしめは貴方をこの様に敬っているのです。だからこそ、閣下のお言葉を信じたく存じます」

「と、言うと? 」

 髪の毛を掴まれて尚、アントワーヌは静かな瞳でフィリベールを見つめているだけだった。

「先程、閣下が申された台詞そのままを、舞台上でしゃべる、ということです。これで満足ですか? 」

 深い海の様な瞳にじっくり見られたフィリベールは、咄嗟とっさに身を引いた。

 小太りのクレマンが戻ってきたのだ。

「どうです? 順調ですかな、アントワーヌさん」

 クレマンは汗を拭き拭き、アントワーヌにそうたずねた。

 アントワーヌはクレマンの方を向くと、にっこり笑って、「ええ、フィルにしっかり指導して頂きました。舞台の中央に立たれる方はやはり違いますね」と答えた。


 さて、舞台は最悪な結果に終わった。

 街いちばんの道化師 “橋下はししたのピエール” の登場に歓声を上げた観客たちであったが、いざ口上が始まると、その歓声はすっかりブーイングの嵐に変わった。客たちはテントに駆け込み、クレマンに詰め寄ると、アントワーヌに対する無礼をびろと抗議をし始めたのだ。

 可哀想なのはクレマンで、何が何やら理解ができないままに、「私はあの様な指導はしておりませんぞ! 誤解でございます! 」とあわれな声で叫ぶだけだった。

 結局 公演は中止になった。

 ようやく騒ぎが収まった頃、支配人クレマンはアントワーヌを呼び出すと、口上について散々文句を言った。顔を赤くして、「勿論、契約料など望まないでしょうな! 」と跳ねまわった。

 アントワーヌは、その様子を シン とした真っ青な瞳で見つめ、そのままアタッシュケースを持ち上げた。汚れてもいないジャケットを払うと、軽く頭を下げて、すぐに上げた。

「紳士クレマン。これだけは言わせてください。私は、学校に行けない生まれでございました。文字など読めるはずがありません……私は、貴方の仰る通りにしたのです。どうぞ、これからも、このいやしい道化を御贔屓ごひいきに。私は、この劇団の舞台に立てて、心から光栄だと思っていたのです」

 それだけを残して、アントワーヌはパリの街に紛れて行った。


 家の玄関を開くと、ポリーヌが不機嫌に腕を組んで息子の帰宅を待っていた。

「トニ、見たわよ。あれはどういうことなの? ニンジン? 鮮血? あの劇団は貴方に ああいうことを喋りなさい って、本当に言ったの? 」

「違うよ。少なくともクレマンは違った。フィリベールって役者から言われたんだ。だから そのままのことを言った」

 アントワーヌは地面を見つめながらポリーヌの横を通り過ぎようとして、道をふさがれた。

「クレマンっていうのは支配人の名前? 何故その人にすぐに言わなかったのよ。あんなことをして。いまの街は、貴方の味方なんだって、賢い貴方だったら分かっていたでしょう? 」

「悔しかったんだよ! 母さんから貰った大切な髪の毛をけなされたんだ! 醜いだとか、おぞましいなんて言われたんだ! ぼくに何ができたって言うんだ! ぼくは文字が読めなかったんだ! 」

 そうアントワーヌが小さな子供の様にわめくのを、ポリーヌは静かな瞳で見つめていた。

「貴方がそんな目に遭うのは、全て母さんのせいなのよ。貴方が、みんなと色が違う髪の毛を持ったという、たったそれだけの理由で苦しむのも。文字が読めないのも。貴方をあんな危険な場所に立たせ続けるのも」

 そしてポリーヌは呟く様にそう言うと、「シモンさんのところに行ってくるわ。お昼ご飯はテーブルの上にあるから、それを食べなさい」と、出て行ってしまった。

 アントワーヌは扉が閉まる音を背中で聞くと、まるで夢の中にいる様に、フラフラ と寝室へ向かった。


 人も街もまだ目覚めない薄明りの中、アントワーヌは草原を彷徨さまよっていた。こっそり家を抜け出してきたのだ。

 あの後、アントワーヌは眠れもしなければ食事さえることができないでいた。ベッドの中で、何度も何度も自分の罪を悔やんでは、幼い頃床の上でしていた様に膝を抱えていた。ポリーヌはそんな彼に優しい言葉を掛けることはしなかった。至って普段と同じ様に彼に接してくれたのだった。

 しかしそれさえも、彼を苦しめただけだった。

 草原を歩きながら、アントワーヌは鳥のさえずりに耳を澄ませた。湿った朝の空気。ぼんやり暖かい風の流れ。

 アントワーヌはふと、一点に視線を奪われた。

 それは一見すればなんの変哲へんてつもない、草に纏わりついた朝露あさつゆの光だった。それでもアントワーヌはその一点に、まるで吸い寄せられる様に歩いて行った。

「なんて愛らしいんだろう。これが生きるということなら、ぼくはそれをキミに捧げよう。ただそこに垂れ下がっているだけで ぼくの気持ちをこんなにもいやしてくれる、ただ一滴いってきの朝露よ。ぼくはキミの為に生きよう」

 アントワーヌは ほとんど無意識に、やつれた目の下でそう呟くと、そっと、その朝露をすくい上げた。

 すると──

「な、何だ……これはっ」

 目の前に、つい一瞬前までは無かった砂の小山が現れたのだった。

 それは不気味なことに、まるで人の形をかたどっているかの様だった。頭の部分があり、首、腕、胴体、腰、脚──……アントワーヌは思わず悲鳴を上げ、そして一目散に家へと逃げ帰った。

 草原を走り抜ける途中で、何かが コソコソ と囁く音がした気がしたが。


 ようやく冷静さを取り戻したアントワーヌが扉を開くと、そこにはポリーヌの姿があった。しかしきのうとは違う。

 ポリーヌは息子の顔を見るや否や、走り寄ってきて、身体を抱き締めた。その頬には涙が伝っていた。

「今朝 貴方が出て行く音を聞いたわ。それで私、やっと知ることができたの。扉が閉まる音を。あの空虚な音。私、やっと知ったのよ──」

 ポリーヌは幾度もアントワーヌの頬に唇をつけながら、その分だけ彼の耳元で懺悔ざんげの言葉を囁いた。

 アントワーヌも母親の小さな体をきつく抱きしめると、口づけの回数分首を横に振り続けた。

「母さん、愛してる。母さん」


 その日の夜から、アントワーヌはしばしば、不思議な夢を見る様になった。

 視界は白い霧でぼやけて自由が利かない。だが、いつも、子供たちの耳障りな笑い声が、辺りに響いているのだ。彼らはアントワーヌの姿を見ると、吸い寄せられる様に近寄ってきた。

 アントワーヌは夢の中で、いつも青い服を着、不思議な歌を歌っていた。しかし その歌も、霧に紛れて ほとんどが聞き取れなかったのだが。


『……とは……を繋ぎ ……を目指して歩こうか

 赤毛の道化は……のもと ……呪われ……』


 アントワーヌは その夢を見ると決まって、朝の暗いうちに飛び起きる。そして全身を汗でぐっしょり湿らせながら、言葉にならない疲労感に思考を奪われるのだった。

 アントワーヌが夢の中の“そいつ”の正体を知ったのは、随分後になってからである。



 街路灯に丸い火の光が灯る頃、ようやくアントワーヌは仲間たちの待つに着いた。

「遅せえじゃねえかよ、兄弟」

 きつい酒の臭い、そしてギラギラした人々の欲望でむせ返る様な室内。既に顔を赤くしていた仲間たちは、アントワーヌにも、コップになみなみ注がれた、それを押し付けて言った。

「悪いな。店のオーナーに引き留められて、去るに去れなかったんだ」

 アントワーヌはそんな中でも涼しい顔でそう言って、酒をひと口、舌の上に流し入れた。

「流石、売れっ子は違うぜ。なあ? 」

 店に見合わない上質なジャケットに身を包んだ道化師の言葉に、貧相な仲間たちは くすぐったそうにお互いを小突き合った。

「俺たちにも仕事を分けて欲しいぐらいだぜ」

 テーブルを囲う4、5人いる仲間たちの中で、いちばんどんくさい男が、のんびりとアントワーヌに言った。他の男たちは そいつの言葉を ゲラゲラ と馬鹿にしたが、赤い髪の男だけは違った。

「俺の商売なんか いつ明日が無くなるか分からないものだ」道化師は真剣な眼差しで言った。「毎日が賭博とばくだ。だからお前は今のままでいい。昼間は親父さんの後ろで荷車引いて、夜になったら、ここに来て、少額のスリルにしびれるんだ──わざわざ人生まで賭ける必要なんてないだろう」

「だったらアントワーヌだってそうすりゃいいじゃないか」

 間抜けは、ぽかんとした顔でそう言った。

「俺はもう手遅れだ」アントワーヌは呆れた表情で間抜けを見つめた。「どうやって今更 惨めな生活に戻れと? 」

「そ、それは……」

 間抜けは俯いてしまった。アントワーヌが自分の言葉に怒ってしまった様に思えたからだ。

 テーブルを囲う仲間たちは、アントワーヌの恵まれなかった幼少期の話を聞かされていた。彼がこの地位を手に入れるまでにどんなに犠牲を払ってきたのかも知っていたのだ。そして自分たちが、アントワーヌの善意に纏わりついている側の人間だということもよく理解していた。なのだ。

 仲間たちは暫くの間、隣で繰り広げられるゲームを黙って観戦していた。が、痺れを切らした出っ歯の気配り屋が口を開いた。

「そういや、あの子 とはどうなったんだ? ほら、茶色い瞳が可愛らしい──」

「ああ、あの娘か。何度も言っているが、あの女とは特に何もない。俺にとって、あの女は気晴らしの相手で、あの女にとって俺はいい客というだけだ。完全なる利害関係のもと、一時だけ恋人ごっこをする仲だ。それ以上は何者でもない」

「でもよ、あの子はお前に以上の感情を持ってるんだって、みんなが噂してるぜ? ほら、お前は俺らとは違って身なりも良いし、金も持ってるし、それにハンサムだ。お前がその気になりゃ、あの子だって商売から足洗うだろうにさ」

 気配り屋は早口にそう言った。

「あいつが俺に恋だって⁉ 」

 仲間たちが慎重な眼差しで見つめる中、アントワーヌは大袈裟に噴き出した。腹を抱えて笑うと、涙で滲む目元を擦りながら、「あいつは新しい派手なドレスを強請ねだりたいだけだ! あいつが俺に気があるなんて、冗談も大概にしてくれ」と、言った。

「でも、面白いジョークを聞かせて貰った」

 笑い疲れた道化師は満足そうにそう言うと、気配り屋に向き直った。

「もし今後あいつの噂を聞いたら、こう言ってやれ。“橋下はししたのピエール”は、毎晩ママと同じベッドで寝てるんだと! 」

 そしてコップに入った酒を飲み干すと、ズボンのポケットから銅貨をひとすくい抜き出して、「きょうは遅くなって悪かった。あすも早くてな。楽しんでくれ」と言い残し、アントワーヌは店を出た。

 アントワーヌは今しがた、健全にカフェで茶をたしなんできた風を装って、ジャケットを払うと未だ賑わう街を歩きだした。

 角を曲がると誘惑的な女が手を振ってきた。アントワーヌは一瞥いちべつすると、ポケットから銀貨を数枚 取り出し、女の白く小さな手に握らせた。そして「これで夕飯でも買うんだな」と言って そそくさと立ち去った。


 アパートの近くに来て、アントワーヌは騒ぎに気がついた。

 人々は口々に「どうしよう! 」とか「大変だ! 」と叫び、「お医者さんはまだなのか! 」と誰かが怒鳴った。

 その不穏な空気に、アントワーヌの勘が警告音を鳴らした。何故か鼓動が早くなった。アントワーヌは混乱状態の人だかりに ゆっくりと近付いた。

 すると群衆の中のひとりが道化師に気がついた。アパートの下の階に住む男だった。

 男はアントワーヌに走り寄ってきて その肩を両手で掴むと、目を大きく見開いたまま、「き、君のお母さんが──」と早口に言った。

「母さんが? 」

 心臓が ドクン と全身を打ったのを聞きながら、アントワーヌは聞き返した。

 男はじっとしていられない様子で、アントワーヌの手を力一杯引きながら、群衆を押し分け始めた。人々をどかしながら男は仕切りに、「どいてやってくれ! の息子さんだ! どいてやってくれ! 」と叫んでいた。

「どういうことです」

 アントワーヌは頭の先から足の先までを冷たくしながら、ほとんど聞き取れない声で尋ねた。その答えは、すぐに目の前に現れた。

 彼の最愛の母親ポリーヌが、大都会の冷たい地面の上で、息絶えていたのだ。

 手は喉元を押さえ、顔は真っ白になり、白目を剝き、口から泡を出していた。アントワーヌが、つい1か月前に贈った紅色のドレスははだけ、壮絶な最期を遂げたことを示していた。

「母……さん……」

 アントワーヌはそれ以上、何も言うことができなかった。

 赤い髪の道化師はそのまま地面に崩れ落ち、這う様にして母親の身体に近寄ると、何度も何度も胸に耳や手を当てた。しかし何度試しても彼女の鼓動は聞こえやしなかった。

 アパートの階下に住む男は、気が狂った様な呼吸を繰り返す隣人を死体から引き剥がすと、医者が到着するまでの間、彼を思うままに泣かせてやった。

 野次馬たちはその間、地面に突っ伏し泣き喚く道化と、彼の憐れな母親に祈りを捧げ続けた。

 アントワーヌが21歳の頃の話である。



 優しき人々の助けを得て、ポリーヌを何とかベッドに寝かせたアントワーヌはその夜、また、あの夢を見た。

 しかし今度の夢は、以前よりももっと鮮明になっていた。

 目の前の霧は幾らか晴れ、青い服の男の奏でる歌も、ずっと意味を持つようになっていた。


『砂の精とは手を繋ぎ 丘を目指して歩こうか

 赤毛の道化は橋のもと 母親呪われ……の中

 どんなに足掻あが藻掻もがこうと ……の夢からでられない

 ……輝く砂の精……』



 数日後、アントワーヌは変わらぬ姿でパリの街に立っていた。今回もアタッシュケースをいっぱいにして。

 仕事を終えた道化師は、ひとりきりになったアパートで質素な茶色い服と帽子を被ると、ポリーヌがシモン夫人を訪ねる時に使っていた小さな鞄に売り上げ金を詰めて出掛けた。

 シモン夫人の農園は、暫く見ないうちに草臥くたびれ切ってしまっていた。まるでここに住む老夫人を投影しているかの様だ。

 アントワーヌを出迎えたのは、14、5歳ぐらいの痩せこけた、いつもの少年だった。帽子を深く被ったこの少年は、アントワーヌを見ると眉をひそめて、「奥様から聞きました。その……残念です。彼女はとても親切な女性でした。奥様も、ずっと落ち込まれてしまって」と、小さな声で言った。

 同じく帽子を深く被るアントワーヌは少年に優しく微笑み掛けると、「ありがとう」と返した。

 少年に案内された寝室のベッドの上で、シモン夫人は、横になったまま目だけを薄く開いていた。

 帽子を取ったアントワーヌを見止めて夫人は、少年に庭の様子を見て来る様に命令した。

「シモンさん、あの、これ、いつもの──」

 扉の向こうの少年の足跡が聞こえなくなったのを確認して、アントワーヌが鞄を差し出すと、シモン夫人は首を横に振った。

「本当に、醜い子……」

「えっ」

 シモン夫人から突然発せられた言葉に、アントワーヌは耳を疑った。

「何て──」

「醜い子だって、言ったの」

 もう自力で起き上がる気力すら残っていない老夫人は、今度ははっきりとそう告げた。

 薄く開かれた目は、アントワーヌをじっと見つめている。

「それは、お金かい? 」

 そう聞かれてアントワーヌは、ハッとして首を縦に振った。

「そうです。先日母が亡くなりましたので、今度からは私が代わりに」

「要らないよ、そんな金」

 夫人はアントワーヌの言葉を遮る様にして言った。

 アントワーヌは理解できないままに、口を開けたまま夫人を見下ろしていた。それでも彼女は言葉を続けた。

「ずっと前から気に食わなかったんだ。私の立場が弱くなったと知ってあの女、私に金を貸し出した」

「貸したんじゃないんです。お世話になった夫人に、受け取って欲しかっただけで」

「そっちの方がよっぽど質が悪いよ。あの女、私に同情している振りして私を嘲笑っていたんだ」

「そんなこと──」

「私があの女やあんたに親切にしてやってたのはね、あんたの父親が、生前私の家の労働者のひとりだったからだよ。あの女が死んで、もうあんたに親切にしてやる必要なんて無くなったんだ」

 夫人の話はまだ続いた。

「お前たちは私から散々財産を奪っていったくせして、いざ金を持ち出すとそれを権力の様に振るって。まるで私を乞食の婆の様に扱って」

 そこまで一気に喋って、夫人はアントワーヌに顔を向けた。

「どうして あの女はあんたなんかをかばい続けたんだろうねえ。こんな醜い子供、見捨てちまえば、もっと幸せに暮らせていたかも知れないのに。金なんて要らないよ。特にあんたからの金なんて。早く出ていけ! 二度と私の家の門をくぐんじゃない! 」

 ベッドの上の夫人はそう怒鳴り散らすと、声を聞きつけて戻ってきた少年に、アントワーヌを屋敷から追い出す様に言った。

 少年は キョロキョロ とふたりを見比べたが、結局は主人の命令に従うしかなく、鞄の中身を持ったままのアントワーヌを家の門まで案内した。

「申し訳ありません、アントワーヌさん。奥様は優しい方なんです、こんな ぼくにも──」

「“こんな ぼく”? 」

 アントワーヌが聞くと、少年は困った様な表情になって帽子を取った。

 灰色に色の抜けた帽子の下から現れたのは、アントワーヌと同じ、鮮やかな赤色の髪の毛だった。

「どうか、奥様をお許しください。アントワーヌさん」

 アントワーヌは震える瞳で少年の髪の毛を見つめた。喉が勝手に音を立てた。

 彼は泣いていたのだ。

「これ、君が好きに使うといい」

 アントワーヌは早口にそう言って少年に鞄を押し付けると、逃げる様にしてアパートに帰った。

 シモン夫人が息を引き取ったと聞いたのは、その日の夕方のことだった。


 街路灯の揺れる路地を、アントワーヌは覚束おぼつない足取りで彷徨さまよっていた。

 カフェの地下で仲間に大金を押し付けた彼は、残った金を全て酒に交換したのだった。

 瓶の中身を空にしたアントワーヌは それを乱暴に投げ捨てると、塀に寄り掛かって、黒く濁った空を見上げた。

 彼の人生は終わっていた。

思えば、彼の全ては、ポリーヌを中心としてまわっていたのだった。

 彼女の生活の為に休みなく働き、彼女を安心させる為に多くの友人を作り、夜な夜な遊び回り、以前の彼女と同じ境遇にいる女たちに金を惜しみなく分け与えた。彼女たちが望めば、空が明るくなるまで戯言たわごとに付き合ってやった。

 しかしもうポリーヌはいない。何度玄関を開こうと、何度寝返りを打とうと、もういないのだ。

 そして彼の第2の母で居続けてくれたシモン夫人でさえ──……みんな彼を残して行ってしまった。

 彼は虚ろな瞳で月を探していた。

 その時だった。彼の肩を叩いた者がいた。

「すまんな。俺は女は買わないんだ」

 アントワーヌはぼんやりとしたまま言ったが、すぐに女ではないと悟った。

「おい、誰と勘違いしてるんだ? 色男」

 そう言う声が聞こえたからだ。

 女にしては低く、男にしては高すぎる声。アントワーヌは声のする方に顔を向けた。

「フィル……ここで何をしているんだ? 」

 アントワーヌから“フィル”と呼ばれた男は、いやらしい目付きでにやりと笑った。

「よく覚えていたな、坊主。それ程までに僕が憎かったのかい? 」

 男は、骨の見える程痩せ細り、服装もかつてのアントワーヌの様にみすぼらしい物になっていた。が、その声、先が尖った面長の顔、フィリベールに間違いなかった。

 フィリベールの後ろには、似たような服装の男たちが何人も立っていた。その全員が、不気味な笑みをアントワーヌに向けている。

「どうしたんだ、フィル。劇団は? 」

 アントワーヌが尋ねると、フィリベールとその仲間たちは一斉に笑い出した。

「おいおい、分かってて言ってるんだろう? あの 鈍臭クレマンから聞いてないのか? 」

「どういう意味だ? 」

「おい、まじかよ」フィリベールは今度は不機嫌に顔を歪めて言った。「6年前、で俺たちの舞台が台無しになった日のこと。僕はあいつに、出て行くように言い渡された。お前が言ったんだってな、僕がお前を陥れたんだって! ほら見ろよ。僕の今の姿をさ。それを知らなかっただって? 」

「クレマンは賢い紳士だった様だ。お前は早かれ遅かれ今の姿になっていただろう」

 酒に思考を侵されたアントワーヌは、フィリベールに冷たく言い捨てた。瞬間、頭に強い衝撃を受けた。アントワーヌはそのまま、意識を失った。

 激痛に目を覚ましたアントワーヌが見た光景は、真っ赤な空だった。

 いや、この色は──アントワーヌの瞼が切れて溢れ出てきている!

 大男に体を羽交い絞めにされた道化師は、複数人の男たちから袋叩きにあっていた。その中には、木の棒を振り回すフィリベールの姿も見えた。

 アントワーヌは傷む腹部を見下ろし、悲鳴を上げた。

 彼の右腹には果物ナイフが ぶっすり と突き刺さっていた。

 悲鳴を聞いて男たちは歓声を上げた。が、しかし、アントワーヌにその轟音ごうおんは聞こえなかった。というのも、彼の耳は頭部から流れて来る、自らの血で塞がれていたからだ。

 フィリベールが長い木の棒を引き摺って、アントワーヌの前に歩み出てきた。どうやらこれで彼を殴ってやろうというらしい。

 アントワーヌは、捕えていた男がフィリベールの武器に恐れ力を緩めた瞬間を逃さなかった。腕を振り解き、走り出した。

「助けてくれ! 誰か! 誰か! 誰か! 」

 薄れゆく意識の中、彼は走り続けた。

「殺される! 誰か! 誰か助けてくれ! 殺される! 」

 夜の娘たちさえ消えた街の中、アントワーヌは夢中で叫び続けた。耳は聞こえずとも、奴らが追ってきているのは明らかだった。

「お願いだ! お願いだ、誰か! 」

 いつの間にかアントワーヌは、いつも商売をしている橋の下に来ていた。

 いつもなら人の往来が盛んなこの場所も、川の流れるだけになっていた。

「誰か……誰か……」

 アントワーヌは視界が暗く落ちていくのを感じた。

 俺の人生、これが俺の人生だった──……

 歩みを止めそうになった時だった。太陽の様に眩い光が、目の前に現れた。そして、頭の中に、が。


『砂の精とは手を繋ぎ 丘を目指して歩こうか

 赤毛の道化は橋のもと 母親のろわれ汽車の中

 どんなに足掻き藻掻こうと 僕の夢からでられない

 ぼくは輝く砂の精

 あしたは誰と遊ぼうか つぎはどこへと歩こうか』


 アントワーヌが太陽の光と勘違いしたのは、長い建物だった。

 彼は最後の力を振り絞り、その扉を、体全体で叩いた。血が ボタボタ と地面に落ちた。

「助けてください! 開けてください、どうか! 助けて! 助けて! 」

 アントワーヌの願いを聞き届けたのか、扉はひとりでに開いた。そして血まみれの道化師を内側にかくまうと、ひとりでに扉を閉じ、瞬く間にその場から消え去った。


 その日からアントワーヌはこの広い部屋に住み、果ての無い汽車の旅を続けているのだ。

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