第16話『てんてこまい食堂と木のふたご』

 リクは、アダムにキッシュを横取りされたことに、心の底から腹を立てていたが、しばらくしたらそんなことも考えていられなくなっていた。

 レアとアダムが言っていた通り、食堂には信じられないぐらいの人数の客が押し寄せて来ていたのだ! それはもう、色とりどり、種類さまざまな妖精たちで、《泣き女バンシー》の部屋を片付けていた時には見かけなかったモノも、中にはいた。

「昼時になると、そこら中にいる妖精たちが、こぞって汽車に乗り込んでくるんだ。ほんと、ちゃっかりしてるよな」アダムがリクの耳元で愚痴ぐちを吐いた。

 カレらは空いている席をドンドン埋めてゆき、ジブンの目の前に料理が出されると、文字通り一瞬にして平らげてしまうのだった。そのお陰で、席の回転は目まぐるしく、またたく間にセッティング待ちのテーブルでいっぱいになってしまった。

 ニックのくどいぐらいの説明に、すっかり慣れた気でいたリクだったが、この事態には目を真ん丸くするばかりだった。できると思っていたことも全くできずに、カトラリーのケースを両手に抱えたまま、その場に立ち尽くしてしまっていた。

 「リク! 俺がテーブルを片付けるから、リクはニックを手伝って、調理室から料理をテーブルに運んでくれ! 」

 背後から現れたアダムは、リクに素早く指示をすると、手際よく次々テーブルのセッティングをこなし始めた。

 リクは尚もボーっと、働くアダムの背中を眺めていたが、不意に手を引かれ、はっとなった。

 手を引いてくれたのは、彼女を心配したレアだった。美しいウェイトレスは、リクの手を強く握ったまま調理室へと引っ込むと、「リク、大丈夫? 」とまゆを下げた。

 リクはレアに コクコク と相槌あいづちを打ったものの、未だぼんやりとしたままでいた。

 レアはそんな様子のリクを見て、「困ったわねえ」と独り言を言うと、近くでリク同様右往左往していた、料理長ソジュンの首根っこを掴んで、「ジェイ! あんた配膳、行けるわよね? お皿洗いはいいから、これ、お客さんに運んで頂戴」と命令した。

 ソジュンは「は、はい、レアさん! 」と上擦った声で返事をし、腰にぶら下げた布巾で乱暴に手を拭うと、作業台の上に並んだレアお手製のホウレン草のキッシュを、そそくさと運んで行った。

 その間にレアは、シンクの下の扉に入っている、コリン用の踏み台を引っ張り出すと、それにリクを座らせた。そして冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出して、リクに持たせた。

「ありがとう。ごめんね」

 リクが言うと、レアは困った様な表情をして、「謝らなくていいのよ、リク。本当に目が回っちゃうわよね。でも慣れちゃえば、なんてことなくなるわよ」と、リクをなぐさめてくれた。

 その言葉を聞いてリクは、レアに向かってにっこり笑って、オレンジジュースをちびちびすすって見せた。が、その様子にほっとして、またテキパキと料理を始めるレアや、太く長いたくましい腕に、何皿も料理を乗せて出て行くニック、リクも手伝うはずだったテーブルセッティングの仕事を、愚痴ひとつ零さずにこなすアダム、頼りがいは無いものの、リクよりもずっとしっかり働いているソジュンを見ていたら、リクはいつの間にか、涙を流していた。

 ポタポタと取りめもなく、ほおに落ちて、リクは飲んだオレンジジュースが、全て涙に変わってしまったんじゃないかとさえ思った。

 そんなリクの様子にいち早く気がついて声を掛けてきたのは、ずっと意地悪だとばかり思っていたアダムだった。

 アダムは、客が空にした皿と汚れたカトラリーを調理室の流しに放り込み、またそそくさと持って出て行こうとして、踏み台に座るリクを見つけたのだった。

「どうした? 具合でも悪いのか? 」

 若い炭鉱夫はリクの前にしゃがむと、精一杯の柔らかい声で言った。

 リクが首を横に振ると、「じゃあ、どうして泣くんだよ」とたずねた。

 リクがまた首を横に振ると、アダムは優しく微笑んで、食堂の方をのぞき込みながら、「すげえよなあ。俺も最初は圧倒されたよ」とつぶやいた。それから、煤塗すすまみれの服の袖で、リクの頬の涙を拭き取った。

「何にもできなくってさ。それどころか、俺、お客の料理全部ひっくり返しちまったんだぜ。笑えるだろ」

 アダムはそう言いながら、思い出し笑いをした。「怒り狂った客のひとりがよお、食堂を燃やそうとしてさ、トニが飛んできて、今までに見たこと無かったくらいに焦っててさあ……」そこまで言うと、アダムは くっくっく と、歯の間からいやしい音を立てた。「あん時のトニの顔は最高だったぜ」

 しかし、また優しい表情に戻ると、「泣く必要なんて無いさ。初めてなんだから、できなくて当たり前。そうだろ? 」と、強い口調でリクに聞いた。

 アダムの袖で頬を擦られながらリクは、うん と頷くと、炭鉱夫は満足した様で、「そんなら、今自分ができそうな仕事を探すんだな。例えば、皿洗いとか」と、食器が積み上がったシンクを指差して言った。そして「どうやらシェフは皿の洗い方も知らねえらしい。リクはやったことあるか? 皿洗い」と尋ねた。

 リクが首を縦に振ると、アダムはにっこり口角を上げて、「なら、お前が手本を見せてやるんだな。忠告しておくが、急ぐんじゃねえぞ? どんなことでも、丁寧にやることが肝心なんだから」と言って、調理室から出て行った。

 リクがその背中を見送っていると、レアの笑い声が聞こえてきた。調理台の方を見ると、レアの青色の瞳と目が合った。

 「素直じゃないのよ、あいつ」レアが言った。

「アダムのこと? 」

「そう。素直じゃないのよ」

 オーブンを開けながらレアは頷いて、「でも、あいつの言う通りなのよ。焦らなくていいの。私には私のペース、アディにはアディの、そして、リクにはリクのペースがあって当然なんだから。自分のできるところから、始めたらいいのよ」と言った。「できなくって責める人なんて、ここにはいないもの」

 「さあ、できることから始めましょう」と言うレアの言葉で、やっと笑顔を取り戻したリクは、力強く立ち上がり、シンクにまった食器をひとつひとつ片付け始めた。


 食堂から全ての客がいなくなった後、従業員たちは、やっと肩の力を抜くことができた。

 ご機嫌に鼻歌を奏でながら、調理室に戻ってきたアダムは、作業台に残ったキッシュを、立ったままかじり始めた。そしてソジュンと並んで皿洗いを続けるリクの背中に、「仕事はどうだ? 順調か? 」と、呑気のんきな声を掛けてきた。

 もう20分も皿を洗い続けて、手がボロボロのリクは、不機嫌に振り返ると、「それはもうね。嫌になるほど順調! 」と、嫌味たっぷりに答えた。

 そう言われたアダムは、悪びれることもなく楽し気に笑うと、「そりゃあ良かった! 」と言って、レアににらまれた。


 食堂での仕事を終えた炭鉱夫たちは、アダムを先頭に、次の現場へと歩いていた。

 「今度はどこに向かってるの? 」

 もうヘトヘトになってしまったリクは、後ろを歩くニックに尋ねた。するとニックは例の人のさそうな笑顔をリクに向け、「機関室きかんしつだ」と答えた。

「機関室! まさか、運転でもするの? 」

 リクが驚いて聞くと、前を歩くアダムが声を上げて笑った。そして、「運転? 俺らが? まさか! それに、この汽車は誰も運転してねえよ」と、耳を疑う様な事をさらっと言った。

「へ⁉ 誰も運転してない? どういうこと⁉ 」

 リクが急いで聞くと、アダムは更に笑って、「まあ、すぐに分かるさ」とだけ答えた。

 不安になったリクは、アダムより信頼できるニックを見上げたが、この大男もかなりの御茶目らしい。悪戯いたずらに両眉を上げて見せただけであった。

 1号車まで辿り着いたアダムは、立ち止まり、リクたちへ振り返った。

 そして芝居がかった深刻な表情で、リクに、「誰も運転してねえって言っても、機関士は、ちゃんといるんだ。そして、汽車の動力源どうりょくげん石炭士せきたんしもな。だがな、両方ともが、とんでもなく変わってんだ。何度も言う様だが、ここにいるヤツらは悪いヤツじゃねえ。だから、あんまり驚かねえでくれよ? 」と忠告した。そして、「運転室に行くのはちょっと面倒なんだ」と、ぼやいて、ロイヤルスイートの手前にある出入り口を開いた。

「えっ! 」

 リクが扉の外を覗き込むと、そこには、縞鋼板しまこうはんが敷かれた細い通路があった。しかし、それは、とっても開放的な空間で、柵こそついているものの、屋根も壁も無く、ほとんどき出しの状態だった。

「気をつけてついてこいよ」

 アダムはリクに、そう忠告して、慣れた足取りで その鉄橋を歩きだした。リクも後ろにいるニックに目配せして、後に続いた。

 運転室に行くのには、炭水車たんすいしゃを横切らなければいけない。風の轟々ごうごうと鳴る音で聞こえなかったが、目の前を歩くアダムが、リクに「炭水車に触るな」と身振り手振りで指示しているのが分かった。リクは不安な両手を鉄柵に委ねて頷いた。

 道が右に折れ、やっと運転室に辿り着いた。

 そこにいたのは、運転席に挟まる様にして座る、小山の様に大きく、でっぷり太った灰色のオトコと、けたたましい笑い声を室内に響かせている、ふたつの人形だった。

 「あっ」リクは思わず声を上げた。

 この人形たちは、そう、リクがこの汽車にやってきたきのうの晩、サロン室に駆け込んできた、人形たちだったのだ!

「あっはははは! 」

「ひひひ、ひひひ! 」

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