第3話『別れの曲といじわるなピアニスト』

 懐かしい、ピアノの音がする。


 リクは母親と手を繋いで歩いていた。小学校からの、帰り道だ。

 学校の同級生を突き飛ばしてしまい、そのせいで、母親が呼び出されてしまったのだった。

「あの子が分からず屋なんだよ。私は本当にお化けを見たのに、あの子、絶対 嘘だって何度も言ってきたんだよ」

「だからってね、リク。手を出すのは、良いことじゃないわ」

「だってお母さん。悔しかったんだもん! だってあの子、“リクちゃんの話は全部でたらめだ”なんて、みんなに言いふらしたんだよ! 」

 リクはそう大きな声で訴えて、母親と一緒に、3本目の角を曲がった。

「お母さんは、私の話、全部でたらめだって思う? 全部嘘だって思う? 」

 リクが聞くと母親は、小さな我が子の手を、きつく握り締めた。

「思わない。だってリクは、本当に見たんでしょう? リクは自分の目で見て、しっかり確かめられる子だって、お母さんは知ってるから」

 ふたりは稲荷神社いなりじんじゃの丘の下で立ち止まった。

「だからね、リク。あなたは自分を信じて。リクがそうなんだって信じた世界で生きて。お母さんもお父さんも、リクを信じてる。あなたは賢い子よ、リク。だからあなたは、このまま。賢くて、優しくって、夢を見る子でいて頂戴ちょうだいね。それがあなたを、導いてくれるから──」

 リクは母親の顔を見上げた。見上げて、表情を固めた。

「えっ、あっ、お母さん──! 」

 リクの見上げた母親は、赤い液体に染められ、その周りに白い火花を散らしていた。

 顔はいつの間にか男のものに変わり、真っ青な瞳が、リクを射抜いぬいていた。

 リクは繋いだ手を放そうとして、藻掻もがいた。でも手は離れず、男の体に ドロドロ と流れる液体に飲み込まれてしまった。

「あっ! ああ!」

 リクがパニックになっていると、天から、白い光が差し込んできた。見上げると、白い光は黒くよどみ出し、渦を巻き始めた。そしてリクたちを吸い込み始めた。

「あれを隠せええええええええ! 」

 目の前の男がリクに叫び、リクは長い長いトンネルを真っ逆さまに落ちていく感覚に閉じ込められた。

「きゃあああああああ! 」



 リクは飛び起きた。

 蛍光灯で明るく照らされた、広い部屋の中の、3人掛けのソファに、リクは寝かされていた。リクは枕元に置いてあった丸眼鏡を掛けた。

 木を打ち付けたような床の上には、リクが寝かされているソファの他に、種類豊富な椅子たちが、放置されていた。

 安楽椅子にアウトドアチェア、社長椅子にダイニングチェア、ラウンジチェアなどが乱雑に置かれている所を見ると、きっとあのビール樽も椅子という扱いなのだろう。それにしてもテーブルが見当たらない。

 そしてこの部屋で何よりも目を引くのは、部屋の前方に置かれたグランドピアノだ。それはうっとりと音を奏でていた。ショパン練習曲作品10、第3番、ホ長調。またの名を『別れの曲』。

 リクが夢の中で聴いていた曲だ。

 この繊細な曲を弾くピアニストは、伸びた白っぽい金髪を、後ろでひとつに束ねた青年だった。が、彼の格好はというと、その上品な音とは似遣につかわない物だった。ジーンズ生地のオーバーオールにサイズの大きすぎるシャツ。袖や胸元や ところどころが、すすで黒く汚れていた。リクは小さい頃に読んだ絵本に描かれていた、煙突掃除夫を思い出した。

「だれ? 」

 リクの声で、ようやく気がついた青年は、リクに向かって右手を上げた。しかしまだ、曲は弾き続けたままだ。

「おはよう。まあ、夜だけどな」

「どこ、ここ? 」

「汽車の中だな」

 そう言うと青年は、また鍵盤に視線を落とした。

「嘘」

 リクは、まだ夢見心地で、ぼんやりと青年に言うと、彼はクスクスと笑った。

「本当だよ」

 鍵盤を弾く手を止めた青年は、エメラルドの様な色の瞳で、リクを見つめた。

「信じられないんなら、窓の外を見てみるんだな」

 リクは青年の言う通りに、ソファから立ち上がると、恐る恐る、窓に近付いた。

 その途中、しきりに床が がたん がたん と振動しているのに気がついた。

「まさか」

 リクは自分に言い聞かせて、真四角の窓に辿り着いた。

 この窓は、二段窓にだんまどと呼ばれるもので、窓ガラスが縦に2つ、重なっているものだった。上の窓ガラスは固定されていて、下のそれを、左右の窓枠の、縦に連なって開けられているくぼみにかませて、風の出入りを調節するというものだ。

 リクは、二段窓なら、バスや電車などで見たことがあったが、窓ガラスを窪みにかませて開くタイプの窓は、実際に見たことがなかった。が、リクは、父親が前に、家のテレビで流していた映画の中で、それを見ていたのだ。その映画のヒロインが、故郷に帰る汽車の中、窓の外の景色を見ようと、これとおんなじ窓を開けていた。

「まさか まさか」

 リクはもういちど、自分に言い聞かせて、窓の外を覗いた。背後でグランドピアノに肘をつく青年が、ニヤニヤと笑ってきている視線を感じた。

「あっ! 」

 思わずリクは声を上げた。

 リクが覗き込んだその景色、それはなんと、いちめんの海だったのだ!

 水面は、墨汁を流しこんだかの様に、黒く波打っていて、それを空に浮かぶ真ん丸く黄色い月が、テラテラと輝かせていた。陸は何処どこにも見えない。

「どうなってるの⁉ 」

 一気に眠気が吹き飛んだリクはそう叫ぶと、窓を力いっぱいこじ開け、首だけを外に出した。

 呼吸が重たく感じる海の空気と、前方から運ばれてくる風が、リクの顔にわっと舞い込んできた。

「ああっ! 」

 風の来る方に目を向けて、リクはまた大きな声を上げた。

 リクが今いるここは、青年が言っていた通りに、汽車の中だったのだ。

 長い長い胴体から、黒い海面に窓の光を落として、それは走行していた。線路の無い、海の上を走っていたのだ!

「信じられない──……」リクはつぶやいた。「これって、まさか」

 リクの脳裏のうりには、あの雑誌の記事が貼り付いていた。

 『A県 海上で目撃! 瞬間移動する蒸気機関車! 』

 リクは目を見開いたまま、青年に振り向いた。彼は相変わらず人をからかっている様な表情を浮かべたままで、「窓閉めてくれよ。ピアノが傷むだろ」とリクに命令した。もちろんリクはそれに従って窓を閉めると、青年に突進した。

「ねえ、これって、ここって、もしかして──」

「もしかして? 」

「“無番汽車むばんきしゃ”だったりする? 」

「“無番汽車”? なんだそれ」

「ほら、雑誌とか、インターネットの掲示板とか、日記とか、ほら、いろいろなところで噂されてる! 」

「インター……ネット? 」

「有名な汽車! 」

「へえ、この汽車って有名なんだ」

「瞬間移動するっていう! 」

「へえ、この汽車って瞬間移動するんだ」

「しないの? 」

「するの? 」

「なんなの! 」

「なにがさ」

「ここはどこなの⁉ 」

「だから蒸気機関車の中だって」

「もう! 」

 どうやらこの青年は、リクのことをおちょくって楽しんでいる様だ。そう察してリクは地団駄を踏んだ。夕方から変なことが起こりっぱなしで気が参ってしまっていたのだ。

「そうカッカすんなよ」

 今にも顔から湯気を出してしまいそうなリクに、青年は笑って言った。が、仕舞いには泣き出してしまったリクを見て、「泣くなよ」と困惑して、「ごめん、悪かったよ」と、今度は本当に申し訳なさそうに謝ってきた。どうやらやっと、自分の態度に気がついたみたいだ。

「さっきも言った通り、ここは汽車の中だよ。でも俺は、この汽車の名前さえ分かんねえし、インター……ネット? が、どうとか、そういうことは知らねえ。瞬間移動もしねえ」

 そう言って青年は、またピアノを奏で始めた。リクへつぐないでもしているかの様な、優しい音色の曲だった。

「俺が言えるのはふたつ、ここは汽車の中だってこと。しかもとびっきり へんてこりん な汽車だ。そんで君は、不幸にも、この汽車に乗ってきちまったってだけだ」

 それから黙って弾く、煙突掃除夫風の青年の演奏に、リクはだんだんと落ち着きを取り戻して、「その曲って──」と尋ねた。すると柔らかな表情でリクを見上げた青年が、また瞳に悪戯いたずらな光を宿して言った。

「ショパンの『子守唄』なんだけど。気に入ったか、? 」

「もう! 」

 リクはそう言って、また地面を強く踏んだ。が、不思議と、先程の嫌な気持ちは吹き飛んでいた。

 するとその時、部屋の扉が開いて、「“アディ”。あんまりお客様をいじめないで」と注意する声がした。

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