三顧の礼

10月7日、曇り空の駅前でただ一人立つワタルの姿があった。


――確かショウタは毎週日曜日にスタジオで個練をする、そのルートを押さえればまた会える。

ショウタとワタルは互いの携帯番号やメールアドレスを交換していなかったので、この方法で会うしかなかったのだ。

そして、この読み通りにショウタは姿を現した。ベースケースを背負い、まさに個練の帰り道といった姿で。


ワタルは覚悟を決めたかのように、ショウタの進路の前に身をさらけ出す。

「助けてほしい事がある」

「……なんだよ、急に」

今までのノリノリの態度から一転、急に低身になったワタルの姿勢に、ショウタは若干困惑していた。

「……悪いな、俺はまた用事があって」

ショウタは立ち塞がるワタルの横を抜け、足早に立ち去ろうとする。

「ベースを教えて欲しいんだ」

その言葉を聞いたショウタは歩みを止めた。

ワタルは続けて喋る。

「ベース弾けないし、そもそもベース自体持っていない、そんな俺がこんな事言うのは変かもしれないけど、聞いて欲しいんだ」

ショウタは立ち止まってるが、まだお互いに背中を向けたまま動こうとはしない。そんな沈黙がしばらくの間続いた。

「……聞いてやる」

沈黙を破り、口を開いたショウタの言葉は、意外なものであった。

「えっ?」

思わずワタルはショウタの方を向く。

「……聞いてやる、どうなんだ?」

ショウタは背中をこちらに向けたままそう言う。

「パソコン上でピアノロール、てか楽譜を書いて鳴らすんだ……打ち込みっていうかその」

「……ベースもその打ち込みでか?」

ショウタはこちらの方を向いて話し始める。

「うん」

「TAB譜みたいなのを書いて鳴らすのか?」

「……ピアノロールって言うんだけど、そんな感じかな」

「ギターなら迷うのは分かる。だがな、ベースは基本的には単音で鳴らすもんだ。だから譜もギターに比べれば単純だし、スケールさえ覚えればそんなに難しくは無いはずだけどなぁ……」

「いろいろネットで調べてるんだけど、どうにも」

「今聞けるのか? そのベース」

「え? あ、ああ、俺ん家のパソコンに全部入ってるから、家に行けば」

「なんだ、録音もしてねーのかよ」

「ごめん」

ショウタはベースケースの肩紐をかけ直す。

「分かった。もう一度行ってやるよ、ワタルの家に」

「……マジでか」

「パソコンでベースってのも気になるし、ピアノロールってのがどんな譜になってるのかも見てみたいからな」

思わぬ展開になった。こうしてショウタは再びワタルの家にやって来たのであった。


「あら、ショウタ君こんにちは」

母が出迎える。

「こんにちは。今日もワタルの遊びに付き合ってやろうかと」

さっそく2人はワタルの部屋に上がる。急いでパソコンを起動し、CubaseLEを立ち上げる。画面にはワタルがこれまで打ち込んできたプロジェクトが表示された。

その時ワタルはある事に気づいた。

――プロジェクトのボーカルトラックにミクの声を入れていたんだった。どうするか?

せっかく乗り気になってきているショウタがまた変態エロゲ女とごね出すかもしれない。ワタルは慌ててボーカルトラックにミュートをかけた。幸い、ショウタは他の方を向いていたらしくミュート操作には気づかなかった。

「ショウタ、起動できたぞ。まあ見て欲しい。こんな感じの画面なんだ」

「へーすげぇ本格的っぽい、ドラム、シンセ、シンセ2、ベースってトラック分かれてるんだ」

「見よう見まねだけどな」

「このループって名前の所の、この波形っぽいのは何だ?」

「あ、これはループ素材のトラック、録音してあるサウンド素材を並べてるんだ」

「ループ?」

「鳴らしてみる?」

「おお、やってみて」

ワタルは全トラックにミュートをかけ、その後にループ素材のトラックだけをオンにする。そして再生ボタンをクリックする。

「おお、なんかカッコいい」

と言っても、インターフェースのおまけで付いてきたループ素材なのだが……。ワタルは苦笑いを浮かべる。

そして他のトラックも一通り聞いてもらう。今の所突っ込まれる様子はなさそうだ。

「なるほど、メロサビ構成、だいたい分かったような気がする。ところでワタル、このパソコン、ライン録りはできるのか?」

「ライン録り?」

「マイクついてたり、録音できたりするのか? って」

「あぁ、それなら出来るはず……」

「とにかく譜を書かなきゃならないんだろうけど、このマウスで書くのって面倒じゃん。それに俺はパソコンできねぇから眺める事しか出来ない。ならいっそ俺が直接弾いて録音したほうが手っ取り早いんじゃないかな? って思ったのさ。コードは即興だけどな。ちょうどベースも持ってきてるしな」

ショウタはケースをポンと叩く。確かにショウタの言う通りだ。弦楽器は打ち込みで再現するのが難しいというのをワタルなりに一通り調べて覚えていたからだ。本物があればそれを録音した方がクオリティも高く手軽である。

「なるほど、というか、いいのか?」

「俺は全然オッケー、まだまだ弾き足りないし、体力は十分余裕ある」

「このインターフェースにはギター入力がある、多分ベースも繋がると思う」

「アンプは?」

「あるわけない」

「じゃあ音はどうするんだ? さすがに今日はアンプ持ってきてないぞ」

「一度録音した後パソコンでかける、DAWのアンプシミュレーターでかけるしかない……かな、間違ってるかな。ま、とにかく、一度やってみよう」

ワタルは自分が付けていたオーバーヘッド型ヘッドフォンをショウタに貸し、コネクターをインターフェースのヘッドフォン端子に刺し換える。ショウタのヘッドフォンにベースの音を直接流す『ダイレクトモニター』のためだ。そしてワタルは、普段ポータブルプレーヤーに使ってるカナル型イヤホンをスピーカーに刺した。

その間、ショウタはケースからケーブルを取り出し、一方をベースに、そしてもう一方をインターフェースのギター入力に刺す。

「ラインはこれでいいと思う、試し弾きしてみてくれ」

ワタルの指示に従いショウタは弦を弾く。すると、イヤホンから原音らしき音が流れてきた。DAWの画面上にある波形ボリュームも弾きに合わせて反応する。

「オッケー、流れてきているようだ」

「俺のヘッドフォンにも入っている、たぶん大丈夫」


2人は録音を始める。

ショウタのベースが低音を奏で始める。と言っても今やっているのはライン録音、部屋には弦を弾く音しか響かない。DAWの画面には脈々とベースの波形が刻み込まれていく。アンプを通さないベース音は細い、だがそれでも生音らしい生々しさが伝わってくる。自分の打ち込みでは弾き方を再現できていなかったのだ。

一通り弾いたところで録音を止め、ベースのトラックだけを再生してみる。ショウタのベース演奏はバッチリ録音されていた。だが、やはり弦を弾いただけの細い音しか入っていない。

「ホントに生音だな」

「ベーストラックにVSTを指して、アンプシミュレーターをかますから」

「VSTって?」

「エフェクターや楽器といったソフト」

「へー」

ワタルはトラックのVSTスロットにアンプシミュレーターを挿す、すると、ベースアンプを模したインターフェース画面が現れた。

「あ、これなら分かるわ。まずBASSを右に、てか俺の言う通りに弄れ」

「了解」

ショウタの指示に従ってアンプシミュレーターのパラメーターを調整していく。

「よし、試しに鳴らしてみよう」

再生ボタンをクリックする。先ほどとは明らかに違う出音だが、ショウタは納得しない。

「ワタル、これでアンプ噛ませてるのか?」

「多分」

アンプシミュレーターをオフにする、元のか細いベース音に変わった。

「かかり方が全然違うんだな、ワタル、じゃあ次にアタックのつまみを……」

こうして2人は、ベースの音とアンプシミュレーターのセッティングに時間を費やした。一通り納得できるセッティングになったのは、ベースの録音を終えてから1時間後であった。

「俺的にはまだまだ詰め足りないけど、まぁ、なんとか聞けるぐらいにはなったと思うぞ。このアンシミュをかけながら録音していこう、できるか?」

「大丈夫だと思う、これなら何とか」

ショウタは再びベースを弾き始める。三味線状態だった先ほどとは違い、トラックには遥かに重く複雑なベースラインが刻み込まれていく。

「やっぱ、このぐらい音作っていかないと調子が出ないよな」

こうして録音、チェック、削除、また録音、繰り返すこと数回。メロサビ通して1コーラス分のベース録音が完了した。


――ここでミクの声をオンにするかどうか……。いや、まだだ。

ひとまず、録音したベースと、ワタルがあらかじめ打ち込んでいるドラムとシンセ、そしてループ素材を鳴らす、いわゆる『インスト』の状態で聞く事にした。

ミクのボーカルトラック以外のミュートを解除し、再生ボタンをクリックする。イントロの後に、さっき録音したショウタのベースが混ざってくる。自分で打ち込んだモノとは比べ物にならない音の厚み、重み、響き、低音のメリハリと言うのだろうか。やはりワタルの打ち込みとベースの生音は違う。いや、むしろいい感じに混ざって……自画自賛だけど、1本どころか3本筋が通ったいい曲になってる。

「おー、なんか全部混ざるとテクノっぽい感じになってる、これもワタルがやったのか?」

「ああ、一通り和音とかもそれなりに勉強して打ち込んでみたんだ」

ワタルはショウタの顔色を伺う。感じは悪くない。


やるしかない。


「ショウタ」

ワタルは覚悟を決め、チェアから立ち上がると……。

「聞いてくれ」

そう言ってワタルは、イヤホンを抜き、ミクのボーカルトラックのミュートを切った。


【どうしても いないとだめなの おねがいだから】


スピーカーからサビが流れ出す。ミクのボーカルトラックには事前にリバーヴをかけて柔らかくし、コンプレッサーをかなり強めにかけて明瞭に聞こえるようにもしてある。ネットで調べたミックスの仕方を参考にしたものだ。だが、まだまだ仕上がりは甘い。

それでも、今のワタルができる『調教』の全てを詰め込んでいるのだ。


これが、今日はじめて完成したオリジナル曲であった。

「これが今の俺に出来る精一杯のミクだ」

ショウタは呆気に取られたような顔をしている。萌え萌え~とかチャカしていたショウタも『初音ミク』の声を聞いたのはこれが初めてであろう。


「なぁショウタ、これでも駄目だろうか?」

「……」

「……」

「……案外、悪くない」

「……え?」

その一言にワタルは驚きを隠せなかった。

「ぶっちゃけ初めて聞いたんだけどな、悪くはない……な、もうちょっとロボっぽい声なのかなと思ってたが」

「あ、じゃ、じゃあ……」

「待て、まだ話してるところだ」

「あぁ、すまない」

「その前にさ、ワタルってこういう芸当が出来たんだな、ってのを改めて感じたわ。曲もそうだし、楽器打ち込めるんだーって」

楽器できねぇ! と何度も言ってはいたが、これでワタルの音楽的素養を認めざるを得ない。そんな表情を浮かべているようだ。

「……侮れねぇなぁ」

「ただ、俺は楽器が出来ない」

「へへ、それならまだまだ圧倒的に俺優位だな」

ショウタは右手で鼻をこする。

「シナモンズも解散して暇になってたし、どうやらこれからワタルに音楽の基礎をみっしり教えてやならきゃならないようだな。いいだろ、付き合ってやる」

「本当か?」

「ああ」

「おっしゃあああ!」

ワタルは叫び、右腕を天に掲げ、完全勝利のポーズを取る。そして、

「ありがとう、心の友よ!」

とショウタに抱きつく。

「なんだよおめぇ、ジャイアンみたいな事言いやがって」

そうして何故かワタルの部屋を走り回る2人、そんな感動の展開が5分ほど続いた。


「なぁ、『初音ミク』がどんなソフトなのか気になってきた、ワタル、ちょっとやらせてくれよ」

「ああ、じゃあまず一旦DAWを閉じてVOCALOID EDITORを立ち上げないと……」


2人はパソコンに向かう。ワタルとショウタの初めての共同作業は、夕飯の時間まで続いたのであった。

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