緊張と悶絶
『初音ミク』のパッケージが2つ置かれていた。
普通、新作ソフトであればパッケージが見えるように平積みで並べる。だが、このシマダ電機では『初音ミク』は旧作のゲームと一緒に無造作に刺さっていた。青緑の背表紙に初音ミクと書かれていなければ絶対に気づかなかったであろう。というか、何故ゲームではない『初音ミク』がゲームの棚に置かれているのかよく分からない。店員が『初音ミク』をギャルゲーとでも思ったのか、それとも売上を見込めないソフトと思ったのか、そもそもこの街には『初音ミク』のようなソフトに興味を示す奴がいなかったのか、この棚に並んでいる2本の『初音ミク』は、ネット上の品切れ騒動とは無縁といった感じで置かれていた。
だが、日本各地で売り切れている『初音ミク』のパッケージがここに並んでいる、この事実に変わりはない。早速ワタルは手持ちの財布を覗いてみる、1万円札が2枚、千円札が3枚ある。
――買えそうだ。
だが、ワタルはふと思った。
仮に今ここで『初音ミク』を買ったとしても、果たして自分に使いこなせるのであろうか?
事前のネット情報で、音楽の『素養』が必要なソフトである、というのをなんとなく知っていた。
では、ワタルの音楽の技量はどのぐらいかというと……、小中学校の音楽の成績は、通知表には「大変よくできました」とあるから、まぁいい方である。楽器の経験は、幼稚園のカスタネット、小学校中学校で習うリコーダー、ピアニカ、あとは学校の音楽室にあったエレクトーンを授業で少し弾いたぐらいか。それらは全て音叉のロゴが入ったヤマハ製という縁はあるのだが……。
――出来るのか? 俺に……?
ワタルはそんな事を、ソフトコーナーの通路の真ん中に立ちながら考えていた。
その間、20分。
「ちょっと前失礼しますー」
品出しをしている店員に声をかけられ、ワタルはようやく我に返った。正気に戻ろうと、邪念を振り払うかのように頭をプルプル振るわせる。
悩んでちゃだめだ、使えるとか使えないとか、そんなのは後から考えればいい。ともかくミクに歌ってもらうには『初音ミク』を買わなきゃダメなのだよな。
結論は出た。
買うと決めた。
10枚パックのDVD―Rと『初音ミク』を手にレジへと向かう。応対をするのは中年のマネージャー格の男性店員、特に怪しまれる事もなくお会計が進む。
金額は合わせて1万5950円、さらにシマダのポイントを使って1249円値引きしてもらった。
「ただいまー」
シマダ電機からひたすら自転車を飛ばして家に着くやいなや、ワタルはそそくさと階段を駆け上がり自分の部屋に飛び込んだ。理由はただひとつ、あの『初音ミク』のパッケージを母に見られたくないからだ。肝心のパッケージは店員が茶色の紙袋に包んでくれていた。そしてDVD―Rと一緒にビニール袋に入っているので、一見しただけでは何が入っているのかは分からない。でも袋を開けて中身を見られたらアウトだ。こんなデカデカと女の子キャラが印刷されたパッケージ、母に見られたらたまらない。
「また変なエロゲ買ってきたのか?」と言われるのがオチだ。
部屋に入ると、ワタルはベッドにカバン、そして『初音ミク』とDVD―Rが入ったビニール袋を置いて、汗まみれの制服を脱いだ。風呂に飛び込みたい気分だがお湯が溜まっていないので我慢、ひとまず寝間着のスウェットに着替えた。どうせ今日はもう出かける事はないだろう。
――緊張した、ひとまず休もう。
そう考えたワタルは、カバンをベッドの隅に寄せ、大の字になって寝転がった。そして紙袋から『初音ミク』のパッケージを取り出し、紙袋を取り、仰向けになって眺めた。
パッケージに載っているのはネットで見慣れた立ち絵姿のミク、それと角ばったロゴだ。
ワタルはじっくりと眺めながら思いにふける。
――勢いとはいえ、とうとう買ってしまったなぁ……『初音ミク』
ニコ動では盛り上がっているけど、自分に使いこなせるのだろうか? 使いこなせてニコ動にアップできるようになった時にはもうブームは過ぎ去っているかもしれない。ワタルはパッケージを裏返し、裏面に印刷された文章を読んでみる。そこにはバーチャル・アンドロイドと書かれている。その下にやたら細かい説明書きがある。
ワタルはその説明書きをじっくり読みながら、この『初音ミク』について考えてみた。
『初音ミク』
そのパッケージ表面に描かれているツインテールの女の子・初音ミクに目を奪われがちだが、その実態は、歌声を生成するソフトウェア、簡潔に言えば『声の楽器』である。
「あー」と入力すれば、データベースに収録されている約500個の音素を元に、VOCALOIDという歌声合成技術によって歌声を合成し、自然な声で「あー」と歌ってくれる。ドレミファの音階も自由に設定できるし、どんな歌詞でも歌ってくれる。どっかのギャルゲにあったような単語の制限もない。君が代も歌わせられるし、マンピーのGスポットなんかも問題なく歌わせられる。操作も簡単で、マウスでポチポチっと音符を書いて、キーボードで歌詞を打ってやればいいらしい。とはいえ、キレイに歌わせるには、最低限ドレミファソラシド程度は理解しなければならない。
そしてもう一つ大事な点がある。歌声以外に必要な、ピアノやギターの音やドラムのズコズコドンドンみたいな、いわゆる『オケ』は自分で用意しなければならない。ましてや、オリジナルの曲を歌わせるには、ギターも、ピアノも、ドラムも、ベースも、サックスも、三味線も、あと、初音ミクに歌わせる歌詞なんかも全部自分で用意しなければならない。
「とにかく、インストールしてみるか」
『初音ミク』を上手く使いこなせるかどうか、それは実際に動かしてみなければ分からない。ワタルはそう呟くとベッドから起き上がり、パソコンの前に向かう。パッケージのキャラメルシュリンクを破り、ケースからCDを取り出す。マニュアルのような冊子も挟まっていたが面倒なので読まない。どうせヘルプもあるだろうし、なによりも、こうしたソフトの操作は使いながら覚えていけばいい。ワタルはそういう考えである。
パソコンを起動し、インストールCDをDVDドライブに放り込む。オートランは切ってあるので、マイコンピュータからドライブのアイコンをクリックし、インストーラーを起動する。
すると、全画面に切り替わり、モニターにはパッケージと同じ初音ミクの立ち姿が映し出される。
ワタルの顔に緊張が走る。
――正直、親には見られたくない光景だな。
ミニスカ穿いて絶対領域をこれでもかと露出しているキュートなミクちゃん! な画面がモニターいっぱいに広がっている。『初音ミク』を知らない人が見たら絶対エロゲ、いや、ギャルゲをインストールしていると思われるだろう。
全然読んでいないが規約に同意のチェックを入れ、オプションを決めてインストールボタンをクリックする。画面の真ん中に映るウインドウの中で、粛々とゲージが動いている、上に表示される文字の羅列にVOCALOID EDITOR、ボイスデータベース、表情エンジンなど、至って普通の名前が並ぶ。唯一、このウィンドウだけが、初音ミクが普通のソフトである事を示しているのであった。
しかし、インストールバーはなかなか進まない。
その間にもモニターにはキュートなミクちゃん! がデカデカと映っている。
――ああもう! 親は来ないでくれ! 俺の部屋に鍵が欲しい! てか早く終わってほしい! ワタルの貧乏ゆすりが激しくなっていく。
こうして約5分、緊張と悶絶に襲われた挙句、恐れていた親の乱入もなく、インストールは無事終了した。
ワタルは念のために手動でパソコンを再起動させ、その後に、デスクトップ上に出てきたVOCALOID EDITORのアイコンをダブルクリックし起動する。すると「アクティベーションしますか?」という警告ウインドウが出てきた。今時のソフトらしく、ライセンス登録をインターネット経由でやらなければならないみたいだ。
このパソコンはインターネットに繋がっている、設定画面に従ってキーにハードディスクを指定して手早くアクティベーションした。
アクティベーションを終えると、ようやくVOCALOID EDITORが立ち上がった。
初音ミクの色、いや、ミクのデザインの元になったシンセサイザー・DX―7の配色に合わせたのか、黒とグレー、そして緑の配色がなされたツールバーが表示される。そして大きく表示される白い横線が並んだウインドウ、これがVOCALOID EDITORの核となる、ピアノロールだ。
正直、このピアノロールは馴染みがない人が多いかもしれない。実際、ワタルもこのVOCALOID EDITORで触るのが初めてである。
小学校や中学校の音楽で習う「楽譜」は、黒の横線が5本引かれた「五線譜」だ。この五線譜に、小学校の先生がよく「おたまじゃくしー」と必ず例える丸に棒や旗が付いた記号、すなわち「音符」を並べたものを、一般的に楽譜として習う。一方、ピアノロールは、その名の通りピアノの鍵盤を横に並べ、延ばしたようなものである。
そして、音符の代わりに「ノート」と呼ばれるものを書き込む。ノートは音符と違い、ピアノロールに書いた位置がそのままドレミの音階、そしてノートの長さがそのまま音の長さに対応する。それゆえ、楽譜、というか音楽に慣れない人には馴染みやすい。
とりあえずマウスでC3のロールからドレミファソラシドの音階になるよう符を書いていく、ピアノロールの符は右上がりの階段状になった。そして一つづつダブルクリックしてド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、と順番にキーボードで入力する。この状態で再生ボタンを押せば、初音ミクの声でドレミファソラシドと歌ってくれるのだろう。
早速、シークバーを音符の先頭に戻し、再生ボタンをクリック……する前にスピーカーにヘッドフォンを繋ぐ、音漏れ対策だ。ヘッドフォンを装着し万全の体制を整えたワタルは改めて再生ボタンをクリックする。
「ドーレーミーファーソーラーシードー」
再生ボタンを押して、0.5秒ぐらい後に、ヘッドフォンからミクの声が流れてきた。
それは、ワタルのパソコンではじめてミクが歌った、微妙にたどたどしい歌声だった。
声を聴いた瞬間、ワタルはなんとなく恥ずかしくなった。
なんだろうな、ワクワクと共に訪れる、この微妙なモヤモヤ感……。言い方が直球になるが、この、女の子に変な事を言わせて弄り倒す、という不思議な感覚に陥ってしまう。
しかし、このVOCALOID EDITORは飾りっ気がない。インストールの時はデカデカとミクちゃん! な画像が出てきたにも関わらず……編集画面にはミクの姿は一切出てこないからだ。この薄暗いピアノロールからキャワキャワな声だけが出てくるのも、アングラな感じを演出しているのだろうか……。
ワタルはそんな羞恥心に耐えつつ、ピアノロールを弄り、トライアンドエラーを繰り返し、エディッタの操作を慣熟させていく。こうして、30分もの間、ひたすら無機質なピアノロールと歌詞入力に向き合いながら、ミクの微妙な声を聞き、悶絶しながら作業に没頭していった。
――うーん、マウスで一つずつ入力するのも面倒だよなぁ。
そう思い始めた。何か方法はないかな、とヘルプを起ち上げ、一通りのぞいてみるが見当たらない。どうやらマウス入力以外の方法はなさそうだ。
「念のために検索してみるか」
ワタルはインターネットブラウザを起ち上げた。スタートアップのページはGoogleに設定してあるので、すぐに検索欄に「VOCALOID 音符 入力」と打ち込み、検索、表示された結果一覧をざっと読んでいく。どうやらマウスの他にキーボードで入力する方法があるらしい。あらかじめ音階を記憶したMIDIファイルを読み込んだ後に、歌詞を一括で流し込むというものだ。
ワタルはその方法が載っているブログを読んでいく。しかし、この方法、VOCALOID EDITORだけでは出来ないようだ。シーケンサーというソフトか、DAWというソフトを別に用意しなければならないらしい。そもそも、パソコンで音楽を作るにはDAWが必要になる。ネットの情報で一通り予習をしていたワタルからすれば頭に入ってなかったわけではない、だが、思いがけずミクを買った事ですっかり浮かれしまい、その事を忘れていたのだった。
「そっか、オケだよ……」
部屋の時計を見ると、すでに午後4時を回っていた。
――とりあえず今日はここまでだ、オケの事は明日また考えよう。
編集したファイルを保存し、VOCALOID EDITORを終了させ、その後、パソコンの電源を落とした。
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