地雷原で踊る人々
つくえがみさとし
地雷原で踊る人々
他人との会話は、地雷原を歩くようなものだ。
相手を怒らせる地雷を踏み抜かないように、慎重に進むしかない。
でも、そんな場所を、多くの人が躊躇なく走って進んでいる。
案の定、誰かは誰かの地雷を踏みぬいて、泥沼の争いに突入するけれど。
そんな事実はお構いなしに、今日も、誰かが地雷原という地獄を突っ切ってゆこうとする。
現代社会で最も大きな地雷原は、SNSと呼ばれるインターネットサービスの中に展開されている。
そのサービスを眺めていればわかるだろう。
トレンドでは、いつも誰かが争っている。
争いというものは、起こそうとして起きているわけではない。
誰かが、誰かの地雷を知らずに踏み抜いて、巻き込まれてしまうものなのだ。
どうして、人々は、地雷原に地雷を設置してしまうのだろう。
答えは明確だ。
他人の言動に関心を示して、自分の「正しさ」が正しいことを確認したがっているからだ。
何もしなければ「自分にとって正しいだけ」の正しさが、他人の視点でも正しいものであることを願い、期待して、承認欲求という名のセンサーを敷いてしまう。
そのセンサーが、地雷に直結している。
つまり、他人に関心を持って参加している時点で、意識しないうちに自分の地雷を埋め込んでいる。
SNSという地雷原には、誰かを傷つける他人がいるのではなく、傷つく可能性を持った自分がいるだけなのである。
でも、人々は、そんな事実に構わず、他人を批判し、攻撃し、罵倒する。
地雷を敷いてしまった自分の責任を無視し、自分の地雷を踏んでしまった他人を叩く。
それが、また、誰かの地雷を踏みぬく行為であることに気づかないまま。
そして、地雷は他の地雷を誘爆させてゆく。
終わりの見えない誘爆の連鎖。
これが、炎上と呼ばれる現象だ。
そんな炎上が日常となっているSNSでは、似たような地雷を共有する者同士が、つながってゆく。
あれが嫌い。あいつが間違ってる。あれはおかしい。
そんな、否定による連帯。
それを強化することこそが、SNSと呼ばれるサービスの、最大の特徴。
同好の士が集う「同人」と呼ばれる界隈とは真逆である。
だからこそ、否定による連帯をしてしまった人々は、「同人」と対立する。
「好き」と「嫌い」の終わりなき戦い。
それは、SNSが特定の物事を嫌う人々の連帯を作り出してしまったからこそ、引き起こされている争いなのだ。
もともと否定による連帯は、SNSが延命しなければ脆くも崩れ去ってゆく宿命にあった。
なぜなら、誰かを否定するために繋がっている組織は内紛に陥り、規模が小さくなり、先鋭化と分裂を繰り返して、いずれ消滅してゆくことになるからだ。
否定による連帯は、時間が経過すれば、誰かがうっかりと他の身内の地雷を踏みぬくことで誘爆を引き起こし、内紛によって崩壊してゆくのである。
あなたも気づいていることだろうが、そうした人々は、常に綺麗事を掲げている。
内紛を引き押さないよう、身内の地雷を踏み抜かないよう、誰もが否定できないような物事を共通の旗印にすることでしか連帯を維持できない。
誰にとっても「正しい」はずの旗印を掲げるほかないのである。
だからこそ、綺麗事と内ゲバは、否定による連帯をする人々にとって、常にセット。
だからこそ、否定による連帯で繋がっている人々は、自らが掲げている綺麗事に明らかに反していても平然としている。
綺麗事は、それを守るために掲げているのではなく、何かを否定するための連帯を維持するためだけに存在するものだからだ。
あなたは、SNSに参加するとき、自分の好きなことを探しているだろうか?
嫌いな物事を探し、否定による連帯に加担していないだろうか?
地雷の誘爆に巻き込まれたくなければ、綺麗事を掲げて他人を叩く人々には近づいてはならない。
もちろん、あなたが地雷原で踊ることを好むような、好戦的な人物であるのなら話は別だ。
いずれにしても、SNSにおけるこのような実情を理解することが、きっとあなたの助けとなるだろう。
この事実は、大切なので、繰り返そう。
SNSという地雷原には、誰かを傷つける他人がいるのではなく、傷つく可能性を持った自分がいるだけなのである。
地雷原で踊る人々 つくえがみさとし @Tsukuegami
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