第七話 兄妹の非日常・夜
橙に輝く太陽が、地平線から世界を照らす。
肌寒い山風が、鬱蒼とした林の間を駆け抜けた。
「うぅ、寒いな……」
背の高い木々のうちの一本の傍、一つの人影が丸まっていた。丸まっていると言っても、その双眸は林に注がれ、左手には矢をつがえた弓が握られている。それはあの、山小屋の少年だった。これまで自分で食料を調達していた少年は、どうにも夕食前に何もしないことが憚られ、老人から弓を借りて狩りに出たのだった。
突然の寒さに身を震わせて、彼は上着の前を合わせる。すると肩に変な圧力がかかり、服は上手く合わさらなかった。思い出したように服を少しずらし、もう一度前を合わせる。
「それにしても……」
随分と突拍子もない話だった。
彼は、骨が飛び出したかのような肩甲骨を摩りながら、老人の話を思い返す。
ルリの〈意志〉はまだ、生きていた。
死に絶える寸前だった少女の〈意志〉は、遺品にすることすら叶わなかった。いくら形を変えても、この世界に留まらせるのは不可能だった。
だが、老人は不可能をどうにか捻じ曲げた。不可能を可能には出来なかったが、不可能の形を変えることなら出来た。
少女の〈意志〉単体では、この世界に存在出来ない。形が世界に定められないものは、何であろうと何れ崩壊する。
ならば、他の〈意志〉に定義されたのなら。
老人は即座に、眠り耽る少年に目を付けた。老人は少女のだけでなく、彼の〈意志〉も書き換えた。
そして、彼の〈意志〉に、
彼の〈意志〉にその存在を定義された少女の〈意志〉は、自らの存在が定まったことにより、一気にその存在が安定する。だが少年の〈意志〉にも定義出来る限界があり、少女の〈意志〉が定義出来る限界は少ない。そのため、老人は少女の〈意志〉を出来る限り単純化し、彼の肩甲骨部分と同期した。
少年が持つ、両肩の異様な突出——それが、今の
とはいえど、肩に触れたからと言って妹と会話出来る、などと言うことはない。彼女の〈意識〉は滅び、もう誰も彼女と話すことは出来ない。それは厳然たる事実であり、かの老人もそれを変えることは出来なかった。
それでも老人は、僅かな希望を少年に残したのだが。
「……あっ」
ふと少年が、小さく声を漏らす。老人は「こんな時間に獣はいない」と言っていたが、彼はどうやら幸運らしい。視線の先、四十歩ほどのところに、大きなツノを掲げた四足歩行の動物——カラカがいた。カラカはまだこちらに気付いていないようで、地面の草をのんびりと食んでいる。
自分が風下にいることを理解し、彼は素早く弓を構えて立ち上がった。ここからでは自分の匂いが届かない分、矢は風に真っ向から向かっていくことになる。逃げ足が速く警戒心の強いカラカに対して、勝負はたった一射。これを外せば、次の一射までにカラカは見えなくなるほど遠くに走り去るだろう。
少年は、片目を瞑り、右の頬まで引いた弦を頬に添える。
ゆっくりと左手を前に突っ張って、ふーっと細く長く息を吐き——
視界のカラカが、潰れた。
「えっ?」
一矢放つ寸前だった少年は、目の前の惨状に目を疑い、閉じていた左目を開く。左肘を緩めながらもそこに視線を注ぐが、その景色が変わるわけもない。
瞬きの刹那まで彼が狙っていたその獣は、まるで脊髄に突然異常な圧力がかかったのように、背から砕けて地に叩き伏せられていた。
溢れる鮮血に地面が染まっていくのを、彼は遠くから眺めていた。何処かにカラカを潰した狩人がいるはずだが、骸に寄ってくる様子はない。誰がこれをやったのか分からない以上、あそこに近づくのは危険だ。自分もあのように叩き潰されない保証は、何処にもなかった。
あんな残忍なやり方をする人間に、そう近づきたいものではない。彼は他に誰がこの空間にいるのか見極めるべく、木々の茂る林に目を凝らす。
「ほう、坊や。こんなとこでどうしたんだい」
そして、その全てを裏切られる。
「なっ!?」
少年に突然かけられた言葉は……彼の背後からだった。
「名乗れ! さもなければ射る!」
身の危険を感じた少年は、咄嗟に前に飛び出て転がり、反転して弓を構える。かけてきた声の優しさに対して、少年の視覚も聴覚もすり抜けて彼の傍に現れたのだ。手練れでないはずがない。自分もあのように潰されるかもしれないという恐怖に抗って、彼は声の主に弓を向ける。
「ふーん、面白そうだね。いいよ、名乗らないから、射ってみな」
だが声の主は気楽そうに、少年をおちょくるような口調だ。少年よりも背が高い女性で、黒い髪を後ろで雑に束ねている。一瞥したところ、右手には奇妙な形の刀を握り、その鋭い目は笑っているようにも見えた。
女性の応答を聞いた瞬間、少年は矢を放った。十歩もない至近距離からの射撃、それも頭や心臓は分かりやすいからと脚を狙って放っている。ただの狩人なら、これを避けられるわけがない。
だが、女性は避けなかった。否、避ける必要が無かった。
空を駆ける矢が、右手の刀に薙がれて弾き飛ばされる。
「っ…!」
今の距離から、矢の軌道を見切って刀で薙ぐなど、素人が出来ることではない。自分が応戦出来る相手ではないと、彼は理解する。
だが、どうやら相手に殺意はない。もしあるのなら、とっくに彼は殺されているはずだ。そして殺意がないなら、逃げる手立てがないわけではない。あそこまで逃げ切れば、大抵のことは、あの老人がどうにかしてくれるだろう。
彼は咄嗟に次の矢をつがえ、傍の木の実を射た。それは矢が刺さると同時に、爆発して黄色い粉のようなものをまき散らす。空気中に滞留して粉末が視界を遮った瞬間、彼は元来た道を全力で引き返した。
木々が林立するこの林の中で、吐き気を催すクムの木の実の粉末を吸い込ませれば、自分は山小屋に辿りつけるかもしれない。彼はそこに勝算を見出し、そして全てを賭けた。
そして、それが余りにも甘い勝算だったと知った。
彼の身体を、山が
彼の周囲の木々全てに切れ目が入ったと思った瞬間、まるで彼を中心とするかのように、木々が全て外向きに倒れ始めた。突然の轟音に、少年は思わずその場で走る脚を止める。そんな彼にはお構いなく、周囲一帯の木が全て、騒がしくも虚しく地に臥した。
林の中に生まれた空白地帯に、少年が一人取り残される。
少年は呆然と辺りを見渡した。
そして、自らがどのような相手に対峙したのかを、遅まきながらに自覚する。
「ここまでか、坊や」
そして、その女性が現れる。これだけの森林を切り倒して、汗の一つも流さずに。口元には変わらず、余裕の笑みを湛えながら。
そこでようやく、女性の刀を見る余裕が出来た。
大の大人でも持ち上げることの叶うまい、肉厚で巨大な刀身。
そして何より——まるで錨のように、先端が二つ、外に折れ曲がった、奇妙な形。
少年は、その女性を知っている。より厳密には、老人から聞かされている。
だが、実際に物語の中の人を見ると、それはとても言葉では形容出来ない、圧倒的な存在感を放っていた。
少年がぽつりと、その
「〈錨刀の抜刀者〉……」
女性が、ニヤリと笑った。
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