第六話 兄妹の非日常・昼

「ご馳走様、でした」


「お粗末様じゃよ。ほれ、食器を渡しなされ。流しに置いてくるからの」


「…ありがとうございます」


スープを飲み切った少年から食器を受け取ると、老人は山小屋の奥に歩いて行った。床には大鋸屑おがくずが敷き詰めてあるだけだが、この山小屋は思ったより広いのかもしれない。少なくとも少年に、老人が流しに食器を置いた音は聞こえなかった。


「さて。暫くぶりじゃのう、〈山小屋の少年〉よ」


少しして戻ってきた老人は、気さくに少年に話しかける。少年もそれを違和感とは思わないようで、まだ元気は戻っていないが、それでも老人の話に応じた。


「もう、五年以上でしょうか…。急に押しかけてすみません。それも、こんなことで」


「勿論、良いんじゃよ。儂は引退した身じゃが、人助けが嫌になったわけじゃない。ルリちゃんとも随分とお話ししたからのぅ。それが儂の知らんところで、こんな……」


だがそこで、老人は流れるように言葉を紡ぐその口を閉じた。老いた彼の目に浮かぶ光は、ただの愁いを超えていた。それはまるで、災禍に焼かれた故郷を偲ぶかのような。降り掛かったその災厄を、もう二度と目にしたくないと、老人の目は虚空に訴えていた。


そんな老人の心境を、きっと少年は察したのだろう。自分のことまで、気をかけさせてはいけない。遠回しに伝えるはその思い、彼は切り込むように、老人に核心を問う。


「率直に聞きます。


……ルリは、生きていますか」







永い沈黙が、静寂の山小屋に積もる。







「生きている、とは、なんじゃと思う」



「え?」


永遠などと言う言葉が粗末に感じるほどの時を置いて、老人が語ったのは、一つの問いだった。


「文字通りじゃよ。其方は、何を以て、生きていると定義する」


「…それは……」


その問いには、安易には答えられない。彼はそれを、脳ではなく肌で理解した。生者は生者、死者は死者。そんな当たり前のことが、しかし当たり前ではないと、彼は気付いてしまった。


昨日の晩、妹に触れた時。



あの時、ルリは、



自ら少女に触れた少年は、そのことに気付いてしまっている。だから彼には、老人の問いに答えられない。


今は、まだ。


「〈意志〉と〈意識〉の違いは、分かるな」


「もう遠い昔のようですが、貴方から教わりました。忘れてはいません」


「ならば、話は早いじゃろう」


そう言って老人は、大きな溜息を山小屋に吐いた。それが空気を押し出し、やがて混ざり、流れが消えた時。老人は、重くなった口をとうとう開いて、話し始めた。


「ルリちゃんは、〈意志〉を力尽くで掻き混ぜられて、破損寸前に追いやられたのじゃ。『人間ヒトである』という〈意志〉を保てず、自らが何であるかを定められなかった。あのまま放置していたら、いずれ自らの定義を失い、自壊していたことじゃろう」


「其方が儂のところに運んできた時には、もう手遅れじゃった。〈意志〉の力は極僅か、文字通り、空前の灯火じゃ。どうにか、自壊しないほどには改変した。……じゃが、人間ヒトの〈意志〉は、保てなかった」


「じゃあ、ルリは……」


少年の目が、闇に沈む。山小屋全体の空気が、まるで質量を持ったかのように、空間に重くのしかかる。

老人は、人間ヒトの〈意志〉を保てなかった、と言った。

つまり。

定義的に、少女はもう、人間ではない。


〈意志〉があっても。


〈意識〉はなく。


肉体はなく。



「……それは、」



生きているなんて、言えるのか。



「まだ、分からんぞ」


だが、老人の声は、存外に希望を含んでいた。少なくとも、今この瞬間に妹を喪った少年に掛けるにしては、その声は明るかった。


「ルリちゃんの〈意志〉は、余りにも弱かった。それこそ、遺品にすることすら叶わぬぐらいにじゃ。じゃが、安心せい。まだ、〈意志〉は残っとる」


「何処にですか!?」


その老人の言葉を聞いて、少年は飛び掛かるように老人に迫る。いくら人間ヒトでなくなったとしても、〈意志〉が残っているなら、それは妹だ。


生きてはいないかもしれないが。


死んでは、いない。



「分かるじゃろ。身体に違和感がないかぇ?」


「違和感……それは、」


言われて少年は、起きた時から一か所、違和感があることに気付いた。明らかに昨日とは違う、だが何故か違和感。


少年は、そこに手を伸ばす。


触れる。







「なんだ、これ……?」

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