第四話 凄惨たる非日常は突然に



「ルリ、ただい……、ま?」





 山小屋の中の、黒ずくめの男達を見た。


 三人。全身を黒の服に包み、ご丁寧に黒のグラスと黒の帽子まで被った男達は、三人いた。一人は、食卓と山小屋の入口の間。もう二人は、食卓の奥の場所を囲うように。


 ルリが座っていた場所を、囲うように。


「ルリっ!!」


 ルリが危ない。反射的にそう考えた次の刹那には、少年は飛び出していた。食卓の前に立つ黒服の男になど構わず、その横をすり抜け――


「止まれ、小僧」

「うがっ」


 ——られなかった。黒服の横をすり抜けようとした瞬間、何か透明な壁のようなものに遮られたのだ。少年はもんどり打ってひっくり返り、したたかに頭を打つ。


 そのまま信じられないほどの膂力で少年は持ち上げられ、元来た入口まで投げ返された。地面に打ち付けた背中とその下敷きになった右手が、焼け付くように痛い。それでも少年は戦意を棄てなかった。間違いなく、この男達は危険だ。自分がこんな扱いをされるのなら、ルリがどう扱われていてもおかしくない。ルリはまだ八歳だ。そんなこと、許せるわけがない――


「うらぁあああ!!」

「止まれと言ったはずだ」

「うがはぁっ! あがっ……」


 が、どうしようもないことはどうしようもないのだった。立ち上がって飛び掛かろうとした瞬間、急に虚空が無限の重みをもったかのように少年を圧し潰す。無様な姿勢で地面にへばりつく少年を、食卓から戻ってきた二人の男も睥睨した。


「このガキはどうしますか、グズライ一等佐」


 それでもなおその場でもがく少年を、一回り体の大きい男が一瞥する。一生少年の記憶から消えないであろう名前を呼ばれたその男は、しかしすぐに興味なさそうに鼻を鳴らした。


「ふん。ガキを殺して何になる。目的は済んだ。ほっておけ」

「分かりました」


 そして男達は、自らが来た痕跡を隠そうともせず、無音のまま山小屋を出て行く。そもそもとして彼らは、隠さなくてはならない痕跡など残してはいなかった。


「うっ、ぐっ…!」


 男達が出て行ってからも、虚空の圧力は消えなかった。少年はそれに抗い続け、負け続けた。いくら地面を押しても虚空は動かず、彼は虚空と地面に挟まったまま、なす術がなかった。


「ぐっ、あ、ルリッッッ!!」


 その虚空の圧力が、と共に不意に消えた。その瞬間に少年は地面から跳ね起き、そのまま妹のところへ飛ぶように走り寄る。


「…ル、ル……ル、リ……?」


 そして少年は、それを見てしまった。



 少女は――もう、ヒトではなかった。



 腕、脚、頭、胴体――身体の部位を見分ける境は、もうない。肌色の肉塊……否、が、そこにある。脚から手が生え、関節はあり得ない方向に曲がり、目が胴体に浮き出て、髪であろう銀の毛が全身から伸び、そしてどの部位なのか分からない赤い何かがそれから突き出す。それらはまるで意志を持たずに、一瞬で形を変え、また一瞬で違う何かに変貌を遂げる。混沌としたそれを、人間ヒトと形容するには些か以上の無理があった。


 そしてそれは、まるで世界に拒絶されているかのように――


 離れ行く世界に、どうにか手を伸ばし続けるかのように――



 存在と消滅を、点滅するように、繰り返していた。




「う、そ、だ、よね…?」



 虚な表情のまま、少年はぽつりと呟く。少年の問いに必ず答えた、あの明るい声は返らない。橙色のあかりともる食卓の間に、その声は溶けて消えていく。


 少年は……泣かなかった。少年の知識では、泣くべきなのかすらも分からなかった。ただこの時少年は、少女の身に何かが起きたこと、そしてそれは決して容易に解決出来ないことを知っていた。だが、これが一体何で、それが何を意味するのかは知らなかった。


 それが幸だったか、不幸だったかは、きっと誰も知らない。


「ルリっ……いぃっ!?」


 我に帰った少年は、それでも妹であったそれを諦めきれずに、恐る恐る手を伸ばす。震える手が虚空の距離を詰めて、明滅するそれにその指先が触れた瞬間。奇声をあげて、少年は手を引っ込めた。


 奇妙な感覚だった。何かに触れたような気も、同時に何にも触れなかったような気もする。それは硬く冷たい骨であった気も、しっとりと滑らかな肌だった気も、程よく柔らかい肉だった気も、さらさらと心地よい髪だった気もした。


 そう、それはまるで。



 何に触れたのかを、自分の〈意志〉すら認識してないかのような。



 それでも少年は一つ、とても幸運だった。この事態は、間違いなく彼の手に余る。そして世界の子供達の中ではかなり珍しいことに、彼はそういう時に頼りになる大人を知っていた。


「っ、ルリっ…!」


 決意を固めた少年はもう、妹であった何かに触れた時の奇妙な感覚に慄く理由は無い。


 妹を助けたい。


 その一心だけで、彼はかつて妹だった異形を抱え上げた。


 ドアを蹴飛ばすようにして、山小屋を飛び出す。


 身一つで風のように山を駆け、暗闇の森を走り抜ける。


 纏わりつくような湿った風に吹かれながら、険しい山道を登る。


 そして、走る。


 走る。


 走る。


 走って、走って、走って、走って……。







 少年の魂の疾走を、夜空を独り占めにする満月が、遥かのそらから眺めていた――

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