第一部 〈山小屋の少年〉

第一章 山小屋の子供

第一話 兄妹の日常・朝

 太陽の九月に相応しい、陽射しの強い日だった。


「ルリー、野菜洗ったー?」

「うん、洗ったよ、お兄ちゃん!」


 雲一つない快晴の下、瑞々しい草木が茂る小さな草原。その中央を流れる小川には川底が見えるほどに澄んだ水が流れ、心地よいせせらぎを奏でている。草原の横の森林から、パコーン、パコーン、と、薪を割る音が聞こえてきた。


 そんな長閑で平和な川のほとりに、一人の少女が屈み込んでいる。


 背丈は、一メルを少し超えた程度。真夏の太陽の下にいるとは思えないほど白い肌に、日光を受けて輝いているようにさえ見える銀色の髪。天使のような美貌を彩るのは、これまたまるで、月をそのまま嵌め込んだかのような銀の瞳だった。


 先程、ルリ、と遠くの声から呼ばれていた少女は、幼さを裏切らない無邪気な笑顔を浮かべて、朝の日課を楽しんでいた。木製のザルから一つずつ取り出して、丁寧に泥を落としていく。野菜は殆どが今朝収穫したもののようで、野菜についた泥もまだ乾いていなかった。


「あっ!」


 手を滑らせた少女が、彼女の両手に収まる程度の小さな葉野菜を一つ、川に落としてしまう。その幼さに相応しい、可愛らしい声が漏れた。


 いくら小さな川とはいえ、その水量は充分に多く、また流れはしっかり速い。小さくて軽いその葉野菜——ロルフ、と呼ばれている——は、すぐさま川に流されていってしまう。


 川に入ることも出来たのかもしれないが、ここは山の麓。川全体で見ればまだ上流も上流だ。いくら小さいとはいえ、少女の体ぐらいはある大きな岩もあり、川底も大小様々の岩石で入り組んでいる。少女が入るには、その小川は少々危険だった。



 尤も、少女にはわざわざ、川に入る理由もなかったのだが。



「お水さん、拾って!」



 まだ少しだけ辿々しさの残る明るい声で、少女は右手を伸ばす。その右手に呼応したかのように、川の水が。小川を下る葉野菜は、三日月のような水の彫刻に沿って滑り、勢い良く空に投げられる。そしてそれは慣性の法則に従って、刹那の間宙を舞い、すとんと少女の手元に戻ってきた。


「どうしたー、ルリ? 怪我でもしたか?」

「ううん、へいき! 葉野菜ロルフを落としちゃったんだけど、お水さんが拾ってくれたの!」


 先程少女を読んだ声と同じ声が、先程よりは近いところから聞こえてくる。気付けば薪割りの音は止んでおり、声の主はどうやら仕事を終えたようだった。


「そっか、ルリは凄いな!」

「ううん、お兄ちゃん、すごいのはお水さんだよ!」

「はは、そうだったね」


 森から出てきた声の主が、少女と一緒に朗らかに笑う。見た目は少年、それもまだ成人もしていないであろう若い子供だ。短く切られた黒髪に、何にも染められない黒色の瞳。絵画の中の女神のように幻想的な少女ルリとは対照的な、人間味の強い生き生きとした少年だった。


「よし、じゃあ、朝ごはん作ろっか、ルリ。昨日のご飯が残ってたはずだから、雑炊パオにでもしよう」

「ルリ、パオ好き! ねぇ、ロルフも入れる?」

「いや、ロルフは夕飯に使うつもり。その代わり、今日の夕飯は期待していいよ? 鶏肉ソクの炊き込みご飯だから!」

「ほんと!? やったぁ、お兄ちゃん大好き!」


 微笑ましい会話を交わす兄妹は、そのまま草原と森の境に建てられた、小さな山小屋に入っていく。そこが、彼と彼女が暮らす、小さな小さな彼らだけの世界だった。

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