第7話 いらない思いやり

 私は朝からお菓子作りに追われていた。

 アパートの屋上で桃葉ちゃんの開くお茶会に招待されたのだ。


 桃葉ちゃんのクラスメイトや親しいご近所さんたちも招かれているようだ。人数はそこまで多くないが、それなりに量がいるため大変だ。桃葉ちゃんに頼まれているのはクッキー三種類と、レモネードだ。

 クッキーを急いで焼き上げると、冷ましている間に疲れた私はソファにどかっと座り込んだ。


 ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。


「私だよ、入ってもいいかい?」


「どうぞ!」


 鍵は開いていたので、京弥にそれを伝えると彼は部屋に入ってきて手に提げた紙袋を少し持ち上げてみせた。


「レモンティーを淹れてきたんだが」


「飲みたいです!」


 食い気味で答えると、彼は笑いながらレモンティーの入ったポットを取り出した。

 カラン、と、ポットに入った氷が涼しげな音を立てる。


「冷たいのにしておいたよ、今日も暑いからね」


 グラスを取りに行こうとすると彼はそれを手で制した。


「疲れているだろうから、座ってていいよ、君が朝から忙しかったのは知っているから」


 楽しそうにハミングしながら、京弥さんは慣れた手つきでグラスに注いだレモンティーを手渡してくれた。


「君、カフェでも開いたらいいのにと思うよ。料理もうまいし、作るのも好きなら最高の仕事じゃないか」


「そう言う京弥さんだって、紅茶やコーヒーを淹れるのが上手いんですから、コーヒーショップとか開けますよ、きっと」


 そうかな、と聞きながら、彼は窓の外を見た。


「いつか、自分の店が開けたらいいなとは思うよ…本当。いや…開くつもりだ」


 言い直した彼の目には、何故か諦めの色が浮かんでいた。


「その時には——」


 彼は何かを言いかけたけれど、ちょうどその時チャイムが鳴って、何でもないよ、と言って口を閉じてしまった。


 ドアの向こうから桃葉ちゃんの声がする。ドアを開けると、桃葉ちゃんの後ろに亮君と樹君もいた。


「うっす。久しぶりだね、華さん」


「ほんと久しぶり。お店行きたいんだけど、なかなか行けなくて…」


「いーのいーの、時間ある時に来て。あ、それと——」


 まだ何か言いたげだった樹君を遮り、桃葉ちゃんが身を乗り出して私に聞いた。


「華さん、後ろの人は?彼氏?」


 えっと驚いて振り返ると、いつの間に私の後ろに来たのか、京弥さんが立っていた。


「ち、違うよ?隣に住んでる京弥さん…鈴峰すずみねさん!」


 慌てて否定したが、桃葉ちゃんはにやにやと笑って私を見ている。


「桃葉」


「いたっ」


 亮君がぷに、と桃葉ちゃんの頰をつまむ。

 やめなさい、目がそう言っている。


 私は思わず笑ってしまった。


「まぁいいじゃないか?ねぇ」


 京弥さんは否定する訳でもなく、ただ笑って少女に目線を合わせた。


「そう見えるのかい?」


「うん、見える」


 迷うこともなく、はっきり言った桃葉ちゃんを、今度は亮君と樹君の二人が左右から桃葉ちゃんの頰をつねった。


 京弥さんは優しく桃葉ちゃんの頭を撫でた。


「そう見えているなんて、嬉しいよ」


 小さく囁かれたその言葉に、桃葉ちゃんが絵を輝かせた。


「華さん、可愛いもんね」


「噫、私も彼女のことは可愛いと思ってるよ」


 桃葉ちゃんが嬉しそうに頰を緩ませた。


「誤解を招くようなこと言わないでくださいよ…」


 クスクスと笑われてしまい、私は子供のように大げさに顔を背けた。


「そういうところ。とても可愛ら——」


「あ、桃葉に頼まれてたクッキー、焼けたから持って行こうか」


 桃葉ちゃんが遮られた京弥さんを気の毒そうに見ると、彼は苦笑してみせた。


「あ〜、お父さんと樹君がレモネード持っていくのは手伝ってくれるだろうから」


 三人に上がってもらうと、私はキッチンからレモネードの入ったボトルとタッパーに詰めたクッキーをテーブルに並べた。


「うわ…すごい量だな」


「暑いし飲み物は多いほうがいいかなと思って…」


 私はあははと苦笑した。

 作りすぎてしまったかもしれない。


「大丈夫だよ、桃葉のクラスメイトも大勢来るんだし、お酒飲めない人もいるだろうからちょうどいいさ」


 持ってきたクーラーボックスにボトルを詰めながら樹君はニカッと笑ってくれた。


「あ、そうそう」


 私はもう一度キッチンに戻って、袋に詰めたクッキーを桃葉ちゃんに渡した。


「わぁ、いいの?」


「もちろん。これなら、お茶会でクッキーが全部なくなったらどうしようって心配しなくていいでしょう?」


 桃葉ちゃんは恥ずかしそうに顔を赤くした。


「私、そんなに顔に出てたかなぁ」


「何となくわかるものよ。あ、亮君と樹君にもあるよ」


「ありがと」


 樹君は満面の笑みでそれを受け取った。


「ちょっと、女の人から手作りのお菓子もらってそんな反応でいいの?」


 亮君は少し戸惑ったようだったけれど、彼なりの笑顔でお礼を言ってくれた。


「華さん、ちょっと耳貸して」


 桃葉ちゃんに袖を引っ張られて、私は彼女の背丈に合うように背を丸めた。


「あの人、お茶会に招待してあげたいんだけど、来るかな」


 さっきからずっと時間を気にしてるようだけど、と囁く。


「今日はお客様が見えるみたいなの…」


「そっかぁ…」


 桃葉ちゃんは残念そうに溜息をついた。


「華さん、俺たちこれ上に上げてくるから、先に上に行くね。桃葉は軽いもの華さんと持ってきて」


「はぁい」


 二人が行ってしまうと、京弥さんもそろそろ時間が来るから、と言って部屋へ戻っていった。



 屋上へ向かいながら、桃葉ちゃんの残念そうな顔を見て、私は彼女が育てている植物の話題を振った。


「それで、今ちょうど向日葵が綺麗に咲いてるの!私の身長の二倍はあるかな」


 トントンと階段を上りながら楽しげに話す桃葉ちゃんを見て、私は小さく安堵の息を吐いた。


「クラスメイトの子たちにも見てもらいたくてね」


 屋上に着くと、桃葉ちゃんがガチャリとドアを開けた。ふわりと風が吹いてきて、それと一緒に光が私を包み込んだ。


 眩しくて、思わず目を瞑る。


 屋上へ来たのはいつぶりだろう。いつも解放されていて、来ようと思えば来られる場所だったが———…私は、高校生の時以来、一度もこの場所に足を踏み入れていなかった。

 ある出来事を境に行かなくなってしまったし、大学へ進学した時には地元を離れていたから、まさかここを訪れるとは思っていなかった。


 太陽の光が身体に染み込むのを、全身で感じる。


 踏み出した一歩は、さほど怖くなかった。何が怖いのだろう。それさえもわからない。

 しかし、その疑問の答えが出る前に、呼びかけられた。


「こっちこっち〜」


 手招きしている樹君の所へ、慌てて桃葉ちゃんを追いかける。


「あ、桃葉、並べるのとかは俺と亮でやるから」


 華さんを桃葉の花壇に案内してあげな、と桃葉ちゃんにウインクしてみせた。


「ありがとう、樹君!」


 華さ〜ん、こっち!と花壇の並ぶ場所へと手を引かれて行く。


 美しい夏の花々が咲く中に、一際美しく咲く向日葵の花が目に入った。太陽の方を一身に見つめて堂々と咲いている姿に、はっとさせられたような気がした。


「綺麗…」


 思わず感嘆の声を漏らすと、桃葉ちゃんが嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。背の低い向日葵がそこに一輪咲いているようだ。


 桃葉ちゃんがクラスメイトたちを出迎えに行ってしまってからも、私は暫くの間向日葵たちに見惚れていた。

 外側の大きな花も、真ん中に集まっている小さな花も、皆一生懸命に同じ方向を向いて咲いている。


 風が吹いた。

 そんなに強い風ではなかった。

 しかし、大きな花の一つが、ぽとりと落ちた。


 背筋に冷たいものが走る。

 震える手で、その花を拾い上げた。


 その花は確かに、向日葵

 零れ落ちる、その瞬間まで。


 急に頭がクラクラして、私はその場にしゃがみ込んだ。


 一瞬、頭をぎったのは何だ。


 陽に当たって暑いはずなのに、震えるほどに寒い。

 私は向日葵から逃げるようにしてテーブルの置いてある所まで戻った。


 少し走ったからだろうか、息が上がる。


「華さん、大丈夫?」


 後ろから声をかけられて、私の方はビクンと跳ね上がった。


「だ、大丈夫…。おっきな虫がいてびっくりしちゃって…」


 振り返りながら苦笑した。


「ならいいんだけど」


 亮君は素っ気なく言うと去っていった。

 今は、彼の素っ気ない態度に救われた。


「ほら、水」


 私はもう一度ビクリと肩を震わせた。


「あ、ありがと」


 亮君は何も言わずに、置いてあったベンチに腰かけた。


 私も彼の真似をして隣に腰かけた。彼は本当によく気がきく。

 私は小さく笑い声を漏らした。


「何、笑ってるの」


 そういた彼も、息を吐くようにして笑みを零した。


「亮君は、昔から変わってないなって」


「そうかな」


「他人に興味なさそうにしてるけど、周りのことちゃんと気にかけてるし、さっきだって…」


 水を飲みながら聞いていた亮君は、暫く地平線のあるはずの方向を見つめると、小さく、しかしはっきりとした声で言った。


「〝いらない思いやり〟が嫌いなだけさ、今も、昔も」


 ことり、と私の中で何かが音を立てた。


「困ったり悩んでありしてもさ、聞かれたくないことってあるだろう?気遣うような態度が逆に相手を傷つけたり負担をかけたりする。俺は、そう言うのが嫌なんだ」


 その間、彼の目は真直ぐに一点を見つめたままだった。


 きっと、で傷つけられたことがあるのだろう。

 それは、感じたことがある人にしかわからない苦痛で、いつまでも消えない爪痕となってその人の心の中に残り続けるのではないか。


「わかるよ、そういうの」


「わかるの?」


 驚いた表情を見せる亮君に、小さく頷いて見せる。


「そっか…」


 もう一度繰り返し、悲哀を含めた笑みを浮かべた亮君は目を伏せた。


「あ、お父さん見っけ!」


 桃葉ちゃんがぱたぱたと駆けてきて、亮君に抱きつく。後ろに倒れそうになりながら娘を受け止めた彼の表情は、いつもに増して父親らしかった。


 私は今まで握りしめていた手を開いた。私の手の平には、少ししおれたあの花が乗っかっていた。


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