第8話 痛み

 お昼を過ぎ、お茶会の片付けも終わった頃、桃葉ちゃんに呼ばれて再び屋上へ上がった。

 〝大好きな場所〟がテーマの絵が宿題で出されているそうで、その手伝いを頼まれたのだ。

 何十本もの色鉛筆とスケッチブックを前にして、桃葉ちゃんは小さくうなった。


「難しく考えなくていいよ、シンプルに」


「そうは思うんだけどさ…難しいの」


 パタンとスケッチブックを閉じて、桃葉ちゃんは残っていたレモネードをつぅ、と吸って喉を潤わせた。ぼーと遠くを見て、ぐでぐでしながら、桃葉ちゃんは空を眺めている。

 ずず、音が鳴って漸く《ようや》桃葉ちゃんはストローを離した。


「私ね、大好きなんだ、この場所。でもさ…」


 スケッチブックに押し当てられた鉛筆の芯が折れ、ぽとりと虚しい音を立てて地面に転がった。


 少女の唇が、音を立てた。

 しかし、その音はある種の雑音によってき消されてしまった。少女の周りの空気がだんだんと重くなっていく。触れなくても、感じ取れるほどに——…。


 私が口を開きかけた時、桃葉ちゃんが日差しの中へと歩いて行った。


「でもさ、やっぱり、大好きなんだ…この場所」


 私はやるせなさを胸に、少女の小さな背中に向かって小さく微笑んだ。



 夕方になって家に戻ると、私はいつもやるように隣の部屋のチャイムを鳴らした。


「華さん…」


 少し疲れ気味の彼は小さく微笑んだ彼は私に部屋に入るように手招きした。何かあったのですか、と聞いていいのかもわからず、私は勧められるままソファに腰をかけた。


「何か飲むかい?アッサムとアールグレイがあるが」


 どちらがいいかな、と彼に問われ、アッサムと答えると彼はキッチンへお湯を沸かしに行った。


 ふと、机の上に伏せられた写真に気付いた。だめだと思うのに、手は勝手に伸びていってしまう。


「…お待たせ。紅茶、できたよ」


 にこ、と微笑む彼の顔が少し陰った気がした。机の上を見ると、彼は手に持っていたトレイをカウンターに置いて戻ってきた。


「ごめん、机の上、ぐしゃぐしゃだったね」


 それを笑って誤魔化すように京弥さんは写真を書類と一緒に茶封筒に入れて引き出しにしまった。

 トレイに乗せたポットとカップを机の上に置くと、彼はくるくるとポットを回しながらカップにアッサムティーを注いだ。

 豊かな香りが部屋を包み込む。


「いい香り…」


「そうだろう?この紅茶はインドのアッサム地方で作られる紅茶でね。これは、三月から四月に収穫される、ファーストフラッシュと呼ばれるものだよ。モンブランによく合うんだ」


 カップを持ち上げ、一口飲んでみる。渋みはなく、あっさりとした甘さと爽やかさが口の中に広がる。


「美味しいだろう。きっと君が気にいると思ってね」


 心の中に、小さく黒いものがうごめくのを感じた。


「京弥さんは…」


 ん、と彼は首を傾げて私を見た。


「貴方は、私を通して誰を見ているんですか」


 考える前に、言葉が口から飛び出してしまった。


 彼は驚いて小さく目を見開いて私を見つめている。


「それ…は」


 カップを置こうとして受け皿とぶつかり、カーン、と高い音がなった。彼はかなり動揺いているようだった。言った私自身も、驚いていた。さっきの写真を見たのが原因なのはわかっている。だんだんと目頭が熱くなる。


「ごめんなさい…」


 限界を感じて、私は玄関へと走った。


「待って…華さん…」


 彼が慌てて駆け寄ってきて、私の腕を掴んだ。掴まれた腕を解こうとしたけれど、男性の力に勝てる訳もなく、そのままぐいと抱き寄せられた。


「お願いだから、行かないでくれ」


 耳元で囁かれたその声に、身体がびくりと飛び跳ねた。


「…行かないで」


 すすり泣きの声はどんどん遠ざかっていくのに、どうしてこんなにもはっきりと聞こえてくるのだろう。


「紅茶が好きなのは、私じゃない…」


 びりびりと、身体が痺れる。

 痛みが、全身を駆け巡っていく。


「こんなに…」


 紡ぎかけた言葉を放棄して、彼は私の頬を撫でた。


 今の私には、彼の体温さえも、感じることができない。

 脳裏を横切ったさえも、私は掴めない。


 何の価値もない時間だけが、刻々と過ぎていく。


 途端に私は苦しくなって、うめき声を上げて身体を折り曲げた。

 目の前が暗くなる前に、彼の慌てた顔だけが、恐ろしいほどくっきりと、私の目には映った。

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