第5話 小さな影

「は〜な!」


 仕事終わりにいきなり後ろから声をかけられて思わず大きな声を出してしまった。


「ちょ…っと、佑ちゃん!」


「ほら、こっち」


 私が何か言う前に、佑ちゃんは私の手を引っ張ってコーヒーショップに連れていった。入ったことのない店だ。店内はオレンジ色の電気がついていて、雰囲気がある。


「マスター、いつもの。あ〜、この子は紅茶がいいかな」


 どうやら彼女の行きつけのお店のようだ。


「華さ、昨日、何かあった?」


「…私、そんなわかりやすい顔してた?」


「してた」


 クスッと笑って、彼女はカップに口をつけた。


「で、何があったのさ」


 半分興味のありそうな顔で、彼女は再びカップを持ち上げる。


「恋のお悩みかな?」


「そうじゃないけど…」


 どうなのだろう。自分で考えてもよくわからない。私は果たしてあの人に恋心を抱いていると言えるのだろうか。


 答えに詰まっていると、祐ちゃんは一瞬目を伏せた後、無機質な笑みを浮かべた。


「ごめん、無理に言わないでいいよ」


 その後も彼女は冗談を言ったりして笑ってはいたが、何かを押し殺したような笑みに、私は気分が悪くなった。



 家に戻っても気分は戻らず、食欲のない私はグラスにレモネードを注いでベランダに出た。


 涼しい風が頬を撫でる。

 甘酸っぱいレモネードは、昨日とはまた微妙に違う味がした。


 前にこの景色を見たのはいつだろう。八階からの夜景は、これほど綺麗だっただろうか。暫くの間、私はグラスを手に夜空に散りばめられた星々を眺めていた。


 いつか、母に聞かされたことがある。


『お父さんはね、あの空の星の一つになって、私たちを見守ってくれているんだよ』

 幼かった私は、毎晩夜空の星に向かって語りかけていた。


 ぎゅっとグラスを握りしめていると、隣のベランダから声をかけられた。


「風邪引くよ」


「もう、入りますから」


 そう返して部屋へ戻ろうとすると呼び止められた。


「…私のことを避けているのかい?」


「そう見えますか?」


 少し間を空けて聞き返すと、見えると即答された。


「そんなことないですよ」


 私は思わず笑って、ベランダの仕切りに寄りかかった。


「よかった」


 安堵する声と共に、京弥さんがこちら側のベランダと繋がっている壁に寄りかかる音が聞こえた。


「もう少し君と話がしたいな」


 君さえ良ければだが、と遠慮がちに付け加え、彼がこちらを伺う空気が漂ってくる。


 鼓動が少し早くなる。


「私も…お話ししたいです」


 壁越しに話す声が少し弾む。


「なら、こちらへ来ないかい?紅茶でも淹れようかと思うんだが」


 行きたい…と言うと、彼は嬉しそうに笑った。


「じゃあおいで、用意しておくから」


 私の頭に、もう一度頭に彼の言葉が蘇った。


 何故、見ず知らずだった相手を受け入れたのか。


 私にも、到底理解のできないことだった。

 自分のことなのにわからない。

 やっぱり、どうかしている。


 私は手櫛で乱暴に髪を整えると、私は隣の部屋のチャイムを鳴らした。


「引っ越してきたばかりだから、何もないけど」


 部屋へ招き入れた彼は少し恥ずかしそうに笑った。

 家具は全て白で統一されていて、壁には地中海の美しい街並みの写真が飾られていた。


「素敵なお部屋ですね」


「あちこちを転々としていたからね。どれも安物ばかりだよ」


 苦笑しながら、彼はキッチンから二つのカップを乗せたトレイを手に戻ってきた。


「ベランダで飲むのはどうかな、ちょうど星が綺麗に見える時間だろうから」


「風邪ひきません?」


「私のブランケットを羽織っていれば、寒くないだろう?」


 悪戯っぽく笑う彼は、開いた方の手でソファに掛けられていたブランケットを手に取ると私に渡してくれた。


 ベランダに置かれた木製のローテーブルと椅子はとてもお洒落だ。


「どうぞ、座って」


 私が腰掛けると、京弥さんは私に引っ付くようにして隣に腰を下ろした。


 ドキッとしたのを誤魔化すように、彼に合わせてカップを手に取る。口元にカップを近づけると、ふわりとレモンのような香りがした。


「アールグレイという種類のフレーバーティーだよ、気に入ったかい?」


「えぇ…とてもいい香り」


 少し嬉しそうに微笑んで、京弥さんはゆったりと背もたれに身を預けている。


「…紅茶に詳しいんですか?」


「詳しいというか…」


 一瞬だけ、彼の表情が曇った気がした。


「まぁ…紅茶を飲むのは好きだからね」


 考え込んだ割に簡単に話を終わらせた彼は、カップの底の方に残った紅茶を一気に飲み込んだ。


 涼しい風が、私たちの間を通り過ぎていく。

 少し肌寒くてブルッと震える。


「使うかい?」


「京弥さんだって寒いでしょう?そうおっしゃるなら。私は平気ですから」


 京弥さんが使ってください、と差し出されたブランケットを彼に返すと、彼は少し困った顔をした。


 不意に、ふわりと掛けられたブランケットに驚いて彼を見る。


「京弥さん…?」


 彼の美しい碧眼が、いつもとは違う光を放っている。その瞳には、小さな影と、不安と切望が入り混じっているように見えた。


 私は思わず彼を抱きしめた。

 とくとくと、心臓が鼓動する音が聞こえる。


 彼の不安も、悲しみも、私には消してあげることも、溶かしてあげることはできない。


 彼の肩越しに見える満月が鈍い光を放っている。


 抱きしめ返されたので顔を上げると、京弥さんと目があった。さっきとは打って変わって穏やかな波のように揺らめいている。

 彼の暖かい手が私の頬を撫でた。


 何処か懐かしい感覚に、私はそっと彼の胸に頭を預けた。


「華さん…」


 名前を呼ばれると同時にリップ音がして、気が付くと額にキスされていた。


「私から、離れないで、華…」


 ブランケットごと抱きすくめられて、体温が上昇するのと共に心臓がうるさくなる。


「大丈夫です…離れたり、しませんから」


 ぽた、と頬に零れ落ちた水滴が、彼の涙だと気付くまでにそう時間は要さなかった。


 私はただそっと、彼の背を撫でてあげることしかできない。



 抱きしめられていた腕が少し緩むと、彼は少し恥ずかしそうに私に笑かけた。


「ごめん、身体が冷えるね。中へ入ろうか」


 私は彼に何か言葉をかけてあげたかったが、それは喉元で止まってしまい、私は開きかけた口を閉じて頷いた。

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