第4話 出口を探す

 家に戻った私は、どさっとソファに腰かけた。


「…会いたいな」


 薄暗い部屋の中に独りでいると、ぽろっと本音が零れ落ちてしまう。


 あの人に…あの優しい声に触れていたい———寂しい。


 独りでいるのは気楽なことだが、不意に、とてつもなく大きな不安やら孤独さやらに押し潰されそうになる。

 それは唐突にやってきて、私を苦しめる。私はまだ、心の何処かであの過去を恐れているのかもしれない。


 怖い。

 周りのものが大きくなっていって、私に覆いかぶさり、それらに潰されてしまいそうで。


 痕がつくほどに強く、自分の腕を握りしめる。

 じわじわと視界がにじむ。

 私は逃げることも、声を上げることもできず、肉食獣に追い詰められた獲物のようにソファの上に縮こまる。


 カタカタと不気味な音を立てて近づいてくる、歪んだ———…


 ピンポーン…


 私の恐怖が創り出したを破壊した救いのチャイムは、呆気なく鳴り終わった。


 私は慌てて玄関へと走り、扉を開けた。


「何かご———」


 私は驚きを隠せずずっと相手を見つめたまま固まってしまった。


「…ふっ…ふふ、見つめすぎだよ」


 その人はいつになく楽しそうに笑った。


「京弥さん…」


 私は零れ落ちそうになった涙を奥へと引っ込める。


「あの…今日はどうしてここに」


「噫…つい最近隣に引っ越してきてね。挨拶に行こうと思っていたんだが」


 まさか君がお隣さんだとはね、と彼は私に微笑みかけた。


 彼の笑顔を見ると自然と緊張が解けていく。


 あ、これ、と彼から紙袋を手渡された。


「私がよく行く店で買ったんだ、よかったら」


「ありがとうございます」


 京弥さんから…。


 嬉しくなって、きゅっと紙袋の紐を握りしめる。


「じゃあ、私はこれで…」


 少し名残惜しそうにこちらを振り返る彼に、私の心が揺れる。


 声をかけたい。

 でも、かけられない———勇気が、ない。


「どうしたの」


 優しい声が私を包み込む。


「夕食…一緒にどうですか…!」


 小さな声で思わず言ってしまってから、私は慌てて俯いた。


「やっぱり何でも…ないです」


「本当に?」


 悪戯いらずらっぽい笑顔で、彼は私に微笑みかける。


 心が、揺れる。

 揺さぶられる。


 貴方といると、何でこんなにも心が苦しくなるのだろう。


「ありがとう、丁度買い物に出るところだったんだ」


 まだ家事も終わっていなくてね、と照れ臭そうに笑う彼の横顔が、何故かとても懐かしい。


 懐かしい…何でだろう。


「華さん、先に家事を済ませてきてもいいかな」


「えぇ、もちろんです。急にお誘いしましたから」



 京弥さんが戻ってしまうと、私は急いで準備に取りかかった。


 メインは今日買ってきた鮭でムニエルにしよう。

 確かレモンもあったはず。


 鮭に小麦粉をまぶしてフライパンで焼いている間に、使わないといけない茄子を野菜室から出す。


 今日も暑かったし、さっぱりした味付けにしようか。


 時間はあっという間に過ぎてしまう。

 時間が止まれば楽なのに、と思いながらテーブルの上に買ってきたアガパンサスの花を生ける。


 ちょうどタイミングよくチャイムが鳴ったので、急いで玄関に向かう。

 私の足取りはいつもより弾んでいたと思う。


「やぁ、少し早かったかな」


 思わず見惚れてしまった。


 京弥さんはさっきのスーツから普段着に着替えていて、胸元には髪と同じ金色のペンダントが揺れている。


 ハッと我に返り、私は彼に家に入ってもらいながら答えた。


「いえ、丁度準備ができたところなんです」


 私は飲み物を用意しに台所へ向かった。


「素敵な部屋だね」


「ありがとうございます。京弥さんも素敵ですよ……あっ」


 慌てて顔を背けると彼の手が頭に置かれた。


「ふふ、顔が真っ赤だ」


 するすると、彼の手が私の髪を撫でる。


「私なんかよりも…君の方が素敵だよ」


 穏やかな波の立たない海のような碧眼が私を見つめる。

 それは何処か遠くを見ているような目で、私を見ているのではないようにも思えてくる。


「冗談はやめてくださいよ」


 私は誤魔化すように言うと私は彼に背を向けた。


「レモネード、飲めますか?」


「うん、飲めるよ」


 彼に椅子を勧めながら私は冷蔵庫からレモネードが入ったドリンクサーバーを取り出した。

 蛇口の付いているもので、とても気に入っている。


「もしかして手作りなのかい?」


「えぇ、母から教わったんです。お口に合うといいのですが…」


 へぇ、と相槌を打ちながら京弥さんは手渡したグラスにそこに少し溜まるくらいにレモネードを注いだ。

 本当に慎重な人だとおもいながら、自分もレモネードを注ぐ。


 甘酸っぱい香りに包まれるとリラックスする。実家にいた時もよく飲んでいたからだろうか。


「美味しい…」


 感嘆の声を漏らした彼はキラキラと目を輝かせた。


「今まで飲んだ中で一番美味しいレモネードだよ」


「そう言っていただけて嬉しいです…よかった」


 グラスを手に微笑むと、彼の頰が微かに紅色に染まった。


 当然ながら彼のそんな表情を見たのは初めてで、私の心臓はまたとくんと大きく鼓動した。



「ご馳走さま、とても美味しかったよ」


 急に来てしまってすまないね、と言いながら京弥さんは私の髪を撫でた。


「…あまり赤くならなかったね」


揶揄からかわれるのが嫌なんです」


 答えると、彼は笑いながら手を退けた。


 食器たちを食洗機に放り込んでしまうと、私たちはソファに座ってゆっくり話をした。

 よく考えてみれば、こうして落ち着いた状態で話をするのは初めてだ。


 確かにな、と頷いた彼は床に視線を落とした。


「それにしても君は何故つい最近知り合った男を怖がらずに受け入れたんだい?」


 心臓を、掴まれたような思いがした。

 触れてはならないようで、

 彼の目には不安と迷いが渦を巻いているように見えた。


「君も、私と同じような感情を抱いているんじゃないか?」


 気付いているのだ、彼も。


 私たちは異常だ。

 どうかしている。


 そして私はようやく、気が付いた。

 彼も私も、この不安や迷いの出口が相手へとほとばしっていることを。

 見えているのに辿り着けなくて、進みながら後退し、後退しながら進んでいる。


 そして今この瞬間に、歩いてきているのだ。


「私は…」


 言葉は上手く繋がらなかった。

 色々なものが絡み合ってほころび、解くこともできずに、固結びができてしまった。


 私は再び唇を固く結んだ。


 暫く、沈黙が続いた。

 その沈黙を、気まずいとは思わなかった。


「私はね」


 口火を切ったのは彼だった。


 私は重い頭をゆっくりと持ち上げた。


「私は———…いや、やめておこう」


 それきり、京也さんが喋ることはなかった。

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